農大現代視覚文化研究会

「げんしけん」の荻上と「もやしもん」のオリゼーを探求するブログ

モテモテ現視研について

2006年04月21日 08時39分01秒 | げんしけん
スレが落ちてからしばらく経つので白状すると、マロンにあった「神聖モテモテ現視研」を立てて、1/3をレスしたのはすっとこさんです。つまりモテモテ現視研スレの犯人はすっとこさんです。願わくばもう1/3をレスしたと言われる現視研スキーの正体を知りたいところです。そんだけ。

木尾士目について考える

2006年04月17日 19時23分45秒 | げんしけん
切り口は「陽炎日記」のあとがきまんが「赤っ恥劇場」。これによると――

『しかしこーして各作品の題材を見てみると……』

『点の領域』妄想
 ↓
『陽炎日記』処女だの童貞だの
 ↓
『陽炎日記2』肉体問題

『それぞれの間に何があったのか勘ぐっちゃうよね』

とあるが、これをそのまま敷衍して行くと

『四年生』恋愛と就職
 ↓
『五年生』長距離恋愛と神経症
 ↓
『クラカチットの街』理想の女性
 ↓
『げんしけん』小さな共同体

となるわけで、本当にそれぞれの間に何があったのか勘ぐりたくもなる。それはまぁ置いといて、ここでまずは『クラカチットの街』について考える。読んだことの無い人は置いてきぼりにする。てゆうかすっとこさんも記憶で書く。さて、ヒロインでデブ女(すいません)の吹部さんだが、これは木尾士目が読者コーナーに書いている通りの「俺の女性への過剰な思い入れ」を投影したキャラである。つまり吹部さんは、木尾士目にとっての理想な女性なわけね。となると、この作品に出てくる3人の男性、吹部さんの愛人である芸術学部の教授、吹部さんと現在関係を持っている理工学部のDQN、吹部さんの元カレである芸術学部の生徒と。ではこの3人のうち、誰が木尾士目かとゆーと、考えるまでも無く全員木尾士目を投影したキャラと考えられる。

教授は下品でモチーフが単純な絵を描く(学生の評)、金と地位はあるけど家族とうまく行ってない、才能は無いが情念は濃い(DQNの評)とか。これは主に『五年生』以前の木尾士目で、これまでの作品が「生々しい」とか「リアリティがある」とか評価されているが、結局のところ露悪趣味とどう違うんだって話で。金と地位があるのは、一応これまでこの路線でやってきて、ファンもいるし、金も稼いだって事かな。家族とうまく行ってないってのは世間か、編集か、どっちかね? それ以外かね?

DQNは理工学部で、芸術学部ではない。つまり漫画家でない木尾士目の面か。漫画家にならずにいたらこーゆー奴だったという木尾士目の自己評価なのかねぇ。彼が爆弾を用意して教授を殺そうとするんだが、これはよーするにこれまでの自分を殺してしまおうと、つまり漫画家をやめてしまおーかとゆー企ての表れか。

学生は普通なんだよねぇ。本当に普通。しかし最終的に男の中では彼だけが生き残るわけで、つまりこのごく普通のキャラが、今後の俺だという事を木尾士目は表しているものと考えられる。過去の自分である教授と、漫画家でないDQNは、DQNの用意した爆弾によって殺されてしまうのだから。この作品が掲載された2ヵ月後には『げんしけん』が始まっている事を考えると、斑目じゃないけど、過去の自分と決別するという通過儀礼としてこの作品を発表したんだろうなぁと考えられるわけだ。

ところで2人を誰が殺したのかとゆうと吹部さんなんだけど、つまりしつこく繰り返すと、木尾士目の過去と、漫画家でない部分が、理想の女性に殺されるという話なんだよねー、『クラカチットの街』という話は。そう読み解くとすンげェ面白いんだけど、そこまで読み解く奴そうそういねェよ。という事で、この漫画はその大部分の人にとっては、何を言いたいのかよくわからん漫画に終わってしまうわけだ。こんな私小説漫画を掲載したアフタヌーンは偉いねぇ。

さて、ついでに『げんしけん』についても考える。現視研は小さな共同体である。よく本スレでも「家族について書いている」という評があるが、家族と言うのはそもそも血縁関係がある事を前提にしているので(現実には親とか子の役割が重要であって、血縁関係は必要ない、養子とか)、『げんしけん』は必ずしも家族について語っているわけではない。要するに『共同体』について語っているのだ。しかし、少人数の共同体という共通点があるサークルと家族を対比させながら話すのは結構有効なので、以下はその線で話を進める。

つまるところ唯幻論的に言えば、ああ、唯幻論を知らない人も置いてきます。人間の自我を安定させるためには共同体の一員であるという幻想も必要なので、テーマをサークルという共同体一本に絞って語っているのが『げんしけん』なのですな。

作品の構造的に、他の共同体が一切出てこないのが面白い。漫研はヤナしか出てこないで、漫研の腐女子は存在しか語られない。アニ研も同様。自治委員会も現視研と敵対するのは北川さんだけで、自治委員会の内部はほぼ語られない。ハラグーロは共同体の寄生虫として書かれている。一方家族もほとんど出てこない。春日部さんが父親について語るシーンが『げんしけん』作内において強烈な違和感を感じさせるのもその証拠。そして恵子だが、恵子は家族からも笹からも独立した存在として描かれている。さらには2ちゃんねるのようなネット共同体も存在が匂わされる程度である。徹底している。

さらに言えば『くじびきアンバランス』内もその構造は受け継がれている。『げんしけん』作内に存在しない共同体が、『くじアン』の中には多々存在する。親子を描くために親が存在しないキャラに、ヤクザという共同体を当てているのも面白い。ヤクザって「○○一家」って言うでしょ? つまりヤクザ共同体は、結びつきを理由付けるために、家族共同体を模倣してるわけだ。しかしその『くじアン』内に、家族に相当する共同体が存在しないキャラがいる。かいちょーである。

そんでもってかいちょーとオギーの関連性も多々語られる所だが、実際オギーの起こした事件を冷静に考えると、親が出てこないのはおかしい(巻田くんの親は存在が語られるのに、オギーの親は存在すら語られない)。そこんとこを踏まえて考えると、オギー入会以降の『げんしけん』は、オギーが現視研という共同体に溶け込んでいく過程。言い換えると現視研という家族に迎えられる過程を描いた作品であると考えられる。とりあえず家に入るには入ったが、ぜんぜん馴染めないオギーが、徐々にお互いが家族として受け入れられる過程になぞらえられる。ほんでもって笹原との恋愛成立は、現視研の現在のお父さん的存在である笹原との結婚に例えられるのではないかと、そーゆー解釈も可能であろう。つまり完全に家族の一員として認められたって事だ。となるとオギー登場以前の『げんしけん』は、家族関係を語る話と同じで、たまには喧嘩もするし、すれ違いもあるけど、共同体がなんとかうまくやっていく過程を見るのは楽しいね、という話なのではないかとゆー事よ。

というわけで、今日は『クラカチットの街』と『げんしけん』の構造に迫ってみました。木尾士目は多分ここまで考えてます。恐ろしい。今日は読み返してません。多分語りきって無い部分があるでしょう。てかネーム書かないと。

とか言いつつ

2006年03月21日 00時46分04秒 | げんしけん
オギールームを作ってみた。

ツールは「間取りPlanner-3D」
http://www.psisland.com/html/mp3d_top.html

オギールームデータ・ダウンロードをクリック

アパートの一室だけ切り出すと言う歪な構造になっているが、まぁ勘弁。データたオギースレその9を参考にした。キッチン裏側の謎の空間はウィークインクロゼットという、ありえない構成にしてみた。

てゆうかこの家、そもそも2階への階段が無いし、外側に換気扇の外気口が無いし、浴室に窓が無いし、左右対称構造でも左右並列構造でもないし、なにがどうなってるのやらさっぱりですよ!構造が謎杉。


抑圧と反復、恵子とオギーの場合

2006年03月15日 23時25分33秒 | げんしけん
今日読んだ岸田秀の中で興味深かった部分

外傷性神経症の患者が、経験した恐ろしい災害の場面を繰り返し夢に見る場合も同じであると思われるが、快感原則から言えば当然、回避するはずの過去の苦痛な経験を反復するのは、受動的蒙らされた屈辱的で苦痛な経験、屈辱的で苦痛であるがゆえに自我から排除されがちな経験を、能動的にみずから進んで反復することによって自我に組み入れ、克服し、支配しようとする試みであると考えられよう。

オギーの悪夢と春日部さんの火を夢に見るのがこれか。やっかいな機能持ってやがんなぁ。

さて恵子である。すっとこさんの分析によると、これまでに一応「両親の愛が足りなかった」「愛を経験、学習できなかったので、愛を希求し、人の愛し方を知らない」という推論が導き出されている。ここんところは以前の分析を読むか、一応そーゆー事にしておいて欲しい。んで今日の本題。恵子の恋愛相手だが、一応出演した事があるのが海水浴の時の1人、動物公園で置き去りにしたという1人、見事にどちらもDQNである。しかしDQNに引かれるには引かれるだけの理由があると考えられる。そこんとこを推理してみる。

恵子の親観を想像してみると、無断外泊しても、借金しても、何をしても自分を構ってくれない親。でもどうやらお金はくれるので、自分が嫌いなわけじゃないみたい。でも自分の事が好きなのか? わかんない。違うかもしれない。いやきっとじぶんの事を愛してくれてる。きっとそう。そうじゃないと嫌。途中から無意識の思考になってます。

そして恵子が付き合う相手は一見親と違って自分を構ってくれる相手。しかし心の底では、親と同じで、自分を愛してない相手じゃないと惹かれない。「何故か?」 自分をきっと愛してない相手が自分を愛してくれるって事は、きっと両親もあたしをかまってないように見えて、こいつと同じようにあたしを愛してくれてるんだ、大丈夫、きっとそう「という事を証明したいから」。

しかし結局恵子が愛を表現する手段は、相手に抱かれる事しか知らない。相手のDQNにしてみれば、ちょっとかまってやれば抱けるわけで、こんな都合のいい女はいない。軽く見る。本気で愛せるわけはない。しかし恵子から見れば、自分はこんなに愛してるのに、相手はなんであたしをこんなに軽く扱うのかわかんない。こんなやつ大嫌い。爆発の末に別れる。きっと次の相手は本当の恋人に違い無い。しかし引っ張ってしまうのは結局両親のイメージを反復してしまう相手ばっかり。結局誰と寝てもうまくいかない。

これを反復脅迫と言うらしい。この例はフロイドの述べている例を、ちょこっと恵子風に書き換えただけだが、しっくり来るだろうか? すっとこさんは来る。だから話を進める。例の斑恵SSも、書いた当時は漠然としか考えてなかったが、このあたりの事を念頭に置いていたのかもしれぬ。

オギーのダイブ癖はこれと同じ理論で語れるだろうか。

ああ、その前にちょっと本スレにツッコミ。オギーの自殺未遂が本当になったかどうかってまだやっているが、ここ3ヶ月の流れで「やってない」と判断する方がどうかしているとすっとこさんは思うが、まぁそれはもうしょうがない。「やってない」と判断するならそれ相応の理由があるんだろうから、それは尊重しよう。勝手にしろって感じだけど。

ところでもう一点、こっちはちょっと悩み所だが、「自殺未遂はやりすぎ」という論調もまだ見るが、すっとこさんの見るところ、オギーのダイブ癖からして、オギーは現在の設定を全て背負って登場してきたと考える。つまり例の事件も、自殺未遂も、高校時代の荒れも、最初から前提だった。だからこそオギーの頑なな態度が薄皮を剥がすように徐々に軟化していくのを見るのがある意味感動的だったのに、自殺未遂をバラした瞬間に「やりすぎ」ってーのは、要するにオギーの闇の部分を見たくなかったわけで、なんかいい感じの女の子がいたのに、仲良くなって、話を聞いたら実は過去に○○な経験があったと告白されたら、なんか萎えちゃって興味を無くす、みたいな身勝手な野郎と同じような印象を受けるのはすっとこさんの性格が悪すぎなのかなぁ。

すっとこさんはオギーが「いる」と考えて真剣に分析しているが、逆に「いない」と知っているから勝手な分析ができるわけで、スレ住人が「いる」か「いない」かの区別をそれだけ真剣にしているか、ちょっと疑問が残る。「いない」んなら過去の否定もオギーの揶揄も好きにしろって感じだが、「いる」んなら、もーちょい気を使って考えてやれないかなーと思うすっとこさんであった。

実は以上の文は余談なのだよ。オギーのダイブ癖の話だったっけな。漫研で何があったかはわからないが、結構オギーのトラウマにグッサリ来るような展開があって、現視研ダイブのように、漫研ダイブも相当に衝動的だったのではないか。オギーは理由を「あてつけ」としているが、1コマ前の表情からしても後付けの理由には違い無い。ただし「これこれこのような理由で」飛び降りると言うより、飛び降りる事そのものが反復化されていると考えられるんだが、どうなんだろうか。とりあえず今回は手付けでここまでにしておこう。

最後に、すっとこさんは笹と恵子を見ると、なんとなく笹原両親の姿を掴める気がするんだが、オギーの場合はそれが見えない。唯一感じられるのは、多摩とは言え、都内一人暮らしのために2DKの家を用意してしまうという状況証拠からしか伺えないが、中学時代の事件にどれだけ両親が関与したかが全く見えない。普通に考えればあの事件のフォローに両親が介在しない筈は無いんだけど、暖かく見守ったとも、冷たくあしらったとも、どちらとも読めない。まるで存在してないかのよォだ。多分木尾士目が設定してないから読めないと思うんだけど、これも正解は木尾士目しか知らない。

今日は本当に荒削り。てゆうか十分な証拠と理論が用意できる分野はほぼ語り尽くした感があるので、今後は少ない証拠で無理やり論理的に語る事しかできないのでは。それ以前にこれまでに語った事の再検証が必要な気がする。そのためにwikiで辞典を作ると称して原作を隅々まで読み尽くそうとしてるんですよ。

斑×笹・笹×斑について

2006年03月12日 11時50分13秒 | げんしけん
以前から本スレに話題が出るたんびに指摘していたんだが、ここらで文章にしちまおう。ところでこの意見はすっとこさん発案ではなく、本スレで誰かが言ってた意見です。

何故大野さんは斑目のヘタレ攻めで、オギーは笹原の強気攻めなのか?

大野さんの場合を考えると、(以後学年は笹原基準)1年の後期に入学してきたが、当時の笹は欲望のままに生きる覚悟こそ決めてたものの、実践未だ十分に伴わず。やはりマスター斑目に従うパダワン笹原であった(使う意味無いけどSWな)。実は大野さんて10話見ると分かる通り、結構男子ウォッチが好きなのである。さすがにワープまではしていないようだが。となると笹原が背景化していた時期は、やはり大野さんから見れば斑目が攻めというのは実に妥当ではないかと。

そこで笹が3年になって会長就任と同時にオギーも入会してきたわけだが、笹が会長になってからはコミフェスの件もあり、斑目弱体化の影響もありどう見ても笹原は攻めです。そりゃオギーから見れば原口を追い返すわ、クガピーとやり合うわ(余波で自分も泣かされるわ)で、超強気ですホント。

しかし大野さんから見れば、斑×笹の関係で言えば、笹は相変わらず斑目の良き後輩で、斑×笹に変更はありません。しかし弱体化した斑目と、強気の笹の関係では斑目がヘタレ攻めになるのはやむを得ない所。

ところでヘタレ攻めってのは『斑目「おい、笹原、大丈夫か?痛くないか?痛かったら早く言えよ。ええと、んで、どこだったかな、ここかな? あれ? いや違うな。ああ、ここだここだ、ふー、いやいやいや、始まる前から疲れたな」』こんな感じです。多分。

とまぁ、ここでうpしてもいいんだけど、もうちょっと深く考察してみよう。

まずこの文章を読んでいただきたい
やおいの心理?

この文章の中で興味深いのは、「女の子だって本当は『ヤル』側にもなりたいのダ」という点。これはフロイドの言う所の「胎内復帰願望」である。ざっくり説明すると、赤ちゃんは男の子も女の子も母親に育てられるため、母を依存対象とするため、リビドー(性エネルギー)は男性的に形成される。ところが男の子の場合はまだ性的に不能なので挫折する。女の子の場合はペニスが無いので挫折する。男の子の場合はその時に挫折しても、そのうち性能力ができるので、いろいろあってもある程度は大丈夫だが(いろいろあるので省略)、女の子の場合は無いものは無いので、母親を諦めて父親に依存対象を切り替え、女として生き始める事になるのである。

ここでやおいの登場ってわけよ。つまり想像の力を借りてペニスを獲得し、過去に一度挫折した胎内復帰願望を満たす事ができるというのがやおいの魅力なのである。んでも本当かなぁ。実感じゃなくて理論としてはわかるんだけど。まぁこの文章読んでる女性の人はどう思うのか聞きたいところ。いるのか。

さてオギーの場合で考える。オギーの場合シチュ考察のメインは受けが中心になる。……この場合は単純に受けに自分を託しているって単純な話でいいのかなぁ。女性のあーされたいこーされたいという願望があって、これをストレートに描くのがレディースコミック。攻めにも自分を託しつつ、絵で女が犯されるのは気分悪い(男がやおいを読むと感じるムズムズ感と同じ?)なので、男を犯される側に回すのがやおいなのかなぁ。だいたいオギーのワープ見たって、メガネ君受けが基本ってテメェの事じゃねぇか斑目のキャラクターとかって実は関係無いだろゴラと思うんだけど。そのへんどうなのか。

うーむ、やはりやおいは男としてうまく消化しきれん。更なる考察が必要か。


追記・例の発言見つけてきた

876 名前:名無しんぼ@お腹いっぱい :05/01/25 21:25:02 ID:OIYyFwjE0
最後のコマ、大野が「斑目さんのヘタレ攻めのほうが 私はしっくりくるかな」
は、好みの違いというよりは、二人を知っている時間の長さに拠るものだと思うが。

荻上にとって、初対面の笹原は現視研の会長であり、
先輩の原口を追い返したり、久我山と口論したりと、ある種の「強い人」のイメージがあると思う。
で、斑目のイメージは、ただ先輩というだけで、特に固定的な印象は持っていない。
拠って、「笹原強攻め」である。

一方大野は、入学時期が半年ずれているが、1年生の頃から二人を見ており、
斑目達に引っ張られている笹原を知っている。
時間が経つにつれ、ヘタレ斑目、しっかり者笹原、であることは分っても、
イメージは「先輩斑目を慕う後輩笹原」である。
拠って、「斑目ヘタレ攻め」になると。

クッチーについて

2006年03月12日 10時10分59秒 | げんしけん
さて、本日も程よく泥酔のすっとこさんですこんばんは。今日はクッチーについて語ることにしました。嫌がらずに聞いて下さい。

そう、クッチーは見るのも嫌である。しかし何故見るのも嫌なのか考えないといけない。本スレの過去ログも見てみたが、第12話のゲスト登場の時ですら嫌がられていた。それが1年を経て何故レギュラーキャラとして再登場したのかを考えないといかん。嫌だが。

まずは何故クッチーがこれほど嫌かを考えないといけない。考えるのも嫌なのでぶっちゃけ結論から言うと、自分のヌルい時代を想起せしめるから嫌なのである。あんでしょう、ン年前の、♪あんなこーとー、♪こんなーこーとー、♪あーったーでしょ~ってな事が!!いや、別にクッチーにそっくりの事態でなくてもいいです。しかしクッチーの、あの超痛い言動が、あなたの、そして私の、葬りたい過去の経験を思い出させるが故に、クッチーは嫌われるのです。多分そんな思い出無い人は、クッチーに嫌悪感を抱かない筈ですが、んな経験無いほうが少数派だわ!てゆうかオタならあるだろーが!! 無いとは言わせねぇ!! 糞、あああああ、ふざけんな!!俺!!

わけのわからん素ギレ(逆ギレでない所がポイント)はともかく、以上の説明でわかる人にはわかります。わからん人は幸せです。そのままのあなたでいて。さて、冷静に再登場以降の事を考えないといけません。

というわけでクッチーは再登場しました。何故だ木尾。具体的には第二部の主人公であるオギーのやおい好きを空気読めずにバラすキャラとしての役割を早速果たしたが、その後が問題である。実は再登場以降、クッチーけっこう活動しているのである。コミフェスでは3枚しかないチケットの1枚をゲット、5巻では全話に登場してるし。しかし6巻では徐々に登場回数も減少気味。これは何故かというと、5巻でいくら登場させても、全然クッチーが成長もしなければ、愛着もわかないのである。そりゃしょうがないよなぁ、読者の嫌な部分を想起せしめるキャラなんざ出したって嫌がられるだけだし。木尾も持て余し気味っぽい。これじゃいかんってんで、37話でとうとう、田中も、クガピーもなった事の無い主役キャラに。ちなみに主役扱いとは、主に誰の視点で物語が進行するかだが、4巻までは笹、斑、春日部さんだけで回されて、25話で大野さん、33話でオギー、35話が恵子ってな感じ。しかし皆様ご存知の通り、あのオチじゃ単なる逆切れの危ない人止まりで、結局女性陣の評価は変わらず。ただ「クッチーは現視研のお笑い芸人」というスタンスを確立できかけた事が唯一の救いか。

このあまりの使えなさっぷりに、ついつい出てしまった木尾の本音が「朽木くんは知らない」だったのだろうか。あんな奴は知らね と。設定すら考えたくね と。

そんなクッチーに巡ってきたチャンスが合宿。まずはお笑い芸人スタンスを確立する事から始まった。んで44話で、カメラマンの役割を与えられ、例の見開き表紙、白糸の滝オギーを撮影するという大役が与え……結局話が引き伸ばされ続け、この見開きはパラレルワールド扉絵になってしまった。何故だ木尾。あの表紙が読者へのサプライズで、ついでにクッチーを読者に馴染ませるためにカメラマン役をクッチーにしたんじゃないのか。あのクッチーが大量に撮った写真はどうするんだ。てゆうかだからあの見開きを3日目の成立後の写真だと思ってやまなかった俺のこの気持ちをどうしてくれる。いや別にどうもしなくていいけど。

というわけでクッチーの道いまだ遠し。笹世代卒業により人材不足が懸念される中、やはり笹世代卒業でげんしけんは終わってしまうのか? それともクッチーに成長があるのか?(ただし読者の痛かった過去の自分が成長されてしまうと、それはそれでムカつくのでそーとーうまくやらんと) まぁ基本的にはどうでもいいんだけど。さらば朽木。

愛について

2006年03月10日 08時10分17秒 | げんしけん
現在泥酔中のすっとこさんは愛について語らなくてはならない

人間愛が無いと生きて行けない。ロジカルな文章ではないので誤解無いように翻訳すると、人間うまく生きていくためには、愛を知っていると、愛が潤滑剤になって、例えば人に優しくできるとか、罪を許せるとか、まぁいろいろありますが、愛などいらぬ!とか言ってるよりはマシな人生を歩める可能性が高まるのではないかと。OK?

ここで岸田秀流に言うと、人間は本能が壊れているので、愛の本能なんてありませんとなる。まぁ確かにその通りで、実際全人類共通の愛の形なんざ無いんである。ちょっと考えるとみかんとかハグとかあるかと思うが、じゃあとりあえず売春でも何でもみかんすれば愛ですか?と聞かれれば違うに決まっている。文化によって愛の形が違うので、例えばキスするとか、ラブレターを書くとか、求愛のダンスをするとか、チョコを送るとか、愛の言葉を囁くとか、やおい同人誌を描くとか。いろいろな愛の表現方法が文化によっていろいろあるのである。最後のはなんだ。

つまり愛するとゆーのも訓練とか学習しないといかんのである。普通の人は親に育てられているうちに、親の愛を受けられるので、その過程で訓練、学習を済ませられる、つまり愛するという行動がどのような行為かわかるのだが、ここで親にちゃんと愛されずに育った子がいると、その子は経験と学習を積めなかったために、人の愛し方を知らずに育つ。そして、自分が愛されなかったがために、人に自分を愛する事を求めてしまうのである。こいつが実にやっかいで、自分は貪欲に愛を欲しがるくせに、人への愛し方を知らないので、人に愛を与えられない。よってこの子と交際しても、遠からず破綻するであろう。以前げんしけん脳の恐怖、あるいは笹原兄妹の精神分析で書いたが、すっとこさんの分析によると恵子にこの状態が見られる。

さて次に本題。笹荻について考える。また話をすっ飛ばすが、人は人を愛することによって充足を得られる人と、人に愛される事によって充足を得られる人がいる。オギーについて考えると、大野さんが看破しているように、オギーは愛されるのを望むタイプである。では笹はどうか。先の考察を読めばわかる通り、やはり両親の愛が足りなかった笹だったが、アニメのキャラと脳内恋愛をする事によって、愛を学習しているのが笹である(としている)。すっとこさんも初代に『笹原くんの場合は、自分が得られなかった愛情を、自分が誰かに与えることで充足させようとしたんじゃないかな。』とか言わせたが、笹は人を愛する事によって安定を得るタイプだとすっとこさんは見た。てゆうかもうそう書いちまった。笹が告白されたらどんな反応を示すかシミュレートするのも楽しそうだ。まぁそれはともかく、という事は笹荻は愛される事を望むタイプと、愛する事を望むタイプで、これは非常に相性がいいのではないか。本スレの揶揄の1つに「劇的な成立過程があったとしても、それは永続を保証するものではない」とか訳知り顔で書く連中もいるが、そんな事は言われんでもわかっとるわい。そんな表面的な見方によらずとも、笹荻の事情をこのように考えれば、この二人はきっとうまくいくに違い無い。くそ、うらやましいな。


とゆー事を昨夜酔った勢いで書いたんだけど、こんなん酔ってないと書けんわ。てゆうかシラフの時だったらもーちょっと大人しめだった筈。書いちまったモンしゃああんめぇんで、うpってしまえ。確かもーちょっと言いたい事があった筈なんだけど忘れた。続き書くかも。

中島について

2006年03月05日 00時45分45秒 | げんしけん
今日書いちゃえ。中島がこれまで登場したのは3回。コミフェスでの現在中島。中学中島事件前、事件後の3つ。この3つの中島像があまりにも違いすぎるので、それをどう埋めるかが中島の好き嫌いに別れる。ではすっとこさんの解釈をこれから書こう。

まず見るのは事件後の中島。もちろんこの中島像はオギーの悪夢の前半が事実だという前提になるが、すっとこさんは屋上の心配そうな中島の顔までは事実と見る。てゆうかこの段階で間違ってたら全て破綻するんだがそれもまたよし。んで、教室や屋上での中島はオギーを真剣にかばっているように見える。本スレでの意見の中には、オギーがスルーしているのにあえて反応してオギーにダメージを与えているという意見もあったが、木尾の描く表情にはその感情は一切見られない。俺は木尾の絵を信じる。まぁ結果的にはそうなってますが……

さて、この中島の怒りには2つの解釈ができる。まずその1、自分の事は完全に棚に上げて、友達であるオギーを責める奴からオギーを守ってるとするなら、てゆうかオギーはそう思ってるから耐えられずに自殺しようとしたわけだが、これは全然中島としては論理的じゃない。ではどう解釈できるかと言うとその2、この事件、ささやかなイタズラのつもりが、巻田くん転校というトンでもない事態になってしまった。中島は怖くなってオギーに全責任をおっ被せて、自分は責任回避に成功した。しかしオギーに対する罪悪感は当然あるのと、オギーが責められるというのが、結局犯人である自分が責められているような気がして、良心が痛むのでつい反応してしまう、という可能性である。オギーに全責任を負わせてしまった以上、オギーに対してもシラを切るしかないわけで、それが「何で巻田くんとこ本が行ったのかわかんね」という台詞である。

ちなみに改めて書いておくとオギーのトラウマは「巻田くんを転校に追い込んだ」と「友人に裏切られた」の2本立てである。それぞれがそれぞれの抑圧を産んでいる事はこれまでに指摘した通り。

ここで「悪夢」について考える。ここで言う悪夢とは、例の中島の冷笑以降だが、さっきのエントリで書いた通り、ポイントは「(1)中島が自分を冷笑している」「(2)自殺した自分が巻田くんになっている(荻上が巻田を殺している)」「(3)自分が死ぬ巻田を冷笑している」の3つ。(1)はオギーが、上記の中島の怒りの理由をその1だと受け取っている事の現れではないか。オギーをかばって怒る中島がその裏で自分を破滅させた。となると心配そうに自分を見つめる中島もその内心で嘲り笑っているのである。(2)巻田くんにショックを与え、転校に追い込み、今でも気にしていたら……と考えるオギーは、自分のした事は巻田くんを殺したに等しいと言うほどの罪悪感を持っている事の現れ。(3)結局自分は巻田くんを見殺しにした。中島を憎んではいるが、結局巻田くんのやおいを描いたという事では中島と同じ事をした。故に中島が自分に対して向けた冷笑は、自分が巻田くんにしたに等しい。うーむ、さすがにオギーの心理描写なだけあって、あまり中島の解釈には役に立たないな。このへんは後日オギーの解釈にとっとこう。

では事件前に戻ろう。何故オギーに対して中島はあんな事をしたのかという点。これについてはオギーが彼氏を作って、みんなに内緒にしていたのが、リーダー格の中島にとっては気に食わない。だからちょっとイタズラしてやろうくらいの気分だというのが本スレで指摘されていたが、これは妥当だと思う。ちなみにすっとこさんは、中荻が恋仲で、オギーを巻田くんに取られた中島がオギーを取り戻すためにあーゆー事をしたというストーリーのエロSSネタを持っている、ってのは前書いたね。てゆうか巻田くんが3日も休んで、ただ事でない雰囲気がピンピンしてるのに、あのエイリアンな表情ができるってのは凄いな。俺の解釈が甘いのかと真剣に考えざるを得ない。

5年後に話を飛ばそう。本当にあの事件の黒幕が中島だったとしたら、あの反応はそれこそ凄すぎる。てゆうか事件後の中島の反応と完全に矛盾している。この落差をどう埋めるかが本編の今後の焦点だが、すっとこさんなりの解釈をしないと気が気でない。では始める。自分の軽い気持ちのイタズラが原因で、巻田くんは転校、オギーはホモ上扱い、なおかつ自分の目の前で自殺。なおかつオギーに罪悪感を持っていた中島。これだけ材料が揃えば、中島にもトラウマが産まれてしまうのが道理である。中島が抑圧するべきは、あの事件のきっかけになった、恐らくは中島が巻田くんの家にイラストコピー本を持ってった(か誰かに頼んだ)事実であろう。オギーに対する「何で巻田くんとこ本が行ったのかわかんね」という言い訳をも自分の過去の事実として認識し、真実は抑圧して、責任は自分ではないと思い込むことによって自分を免責して、自我を守ろうとしたのではないか。うわ京極夏彦っぽい。

これは完全にすっとこさんの妄想だが、コミフェスの中島の態度を疑いの目で見れば、そう解釈できない事もないかなー、てゆうか、いや本当に確信は全く無いんですけどね。抑圧されたものは抑圧されるほど、歪んだ形で意識に出てこようとするんだけど、例えば思いっきりネガティブな解釈を導入しようとすれば、中島はオギーが目の前で自殺したショックで、時の流れが事件前で止まっている、とかサイコサスペンスな解釈もしようと思えばできるんだが、げんしけんの世界観に合わない事おびただしいし、「『まだ』描いてたんだー」とか、同行の女の子がおさげの子だと仮定すると、その反応から、やはり我田引水な解釈だと思う。うん。そうだよな。

ところでこれも本スレで散々指摘された事だが、あの2人、なんかレズっぽい感じがする。、これはすっとこさんもそう思ったし、木尾士目が意図せずにそういう描き方をするとは思えないので、木尾士目が何故2人をレズっぽく描いたか、という方面から解釈を編み出す。つまりオギーが目の前で自殺したショックで、心神喪失状態に陥った中島をなぐさめたお下げだったが、中島は「私悪くないよね!」とか言ってお下げに抱きつく。密かに中島に恋心を抱いていたお下げは「大丈夫、中島は悪く無いよ」とか言って震える中島を抱きしめるのであった。そして二人は肌を重ね……って、これはどう見てもすっとこさんの書こうとしているエロSSの続きです。本当にありがとうございました。

実際の所、解釈の最大のポイントは「まだ描いてたんだ――」にある事は確実なんだが、ダメだ、わからん。「彼氏?」「フ――――ン」も同じくらい怪しいし。というわけで現段階ではこれが精一杯の解釈です。以上。

壊れオギーについて

2006年03月04日 22時30分53秒 | げんしけん
最近@wikiの更新に追われているすっとこさんです。しかし3日間更新を続けているのに、まだ第4話の途中までしか行ってません。現在に追いつくのに何日かかるんでしょうか。とんでもねー事始めちまったよ感でいっぱいです。本当にありがとうございました。

さて「でも私は男の人とはつき合わないんです」について書かなければならない。てゆうか第45話全体の流れについて書く。長くならないといいけど。

そんなこんなで最初からの流れを追えばいいので、どこの部分から記述すれば理路整然と話を進められるか考えないで済むのが楽。冒頭のセリフ「二日酔いの介抱だなんてありがちなシチュエーションに引っ掛かるもんか」だが、既にこの段階で笹が自分を意識している事、大野一派が笹荻をくっつけようと意図している事にオギーは気づいていると判断して間違い無い。この台詞だけ見れば、笹原さんとカップルになる事なんか絶対に御免だと思っているオギーだが、その意図は再三すっとこさんが指摘している通り、男の人とつき合う事は巻田くんの事を蒸し返される事なのだが、オギーの台詞には巻田くんの事がすっぽり抜け落ちており、男の人とつき合わない事自体が目的化してしまっている。

ここで「内的自己」「外的自己」という概念を導入する。岸田秀の著作で多用されているがオリジナルはR.D.レイン『ひき裂かれた自己』らしい(マイメモ)。「内的自己」は本人の真の自己、「外的自己」は外の世界と関係を持つための自己である。例えて言うならそれぞれ「本音」と「建前」に相当するかもしれないが、ポイントは「内的自己」は抑圧されたものごと、自我から意識されない部分に置かれているという事である。つまり自分では「外的自己」が自分自身だと思っているが、真の自己は「内的自己」にある。まぁたいていの人間は内的自己と外的自己に深刻な葛藤が存在しないので、うまく使いこなして外の世界と自分自身に折り合いを付けて生きていくわけだが、内的自己と外的自己の亀裂が激しくなると、この2つが引き裂かれる。そして最悪の結果、内的自己を守るために外的自己が破壊される。これは発狂や精神分裂病(統合失調症)という形で現れる。というわけで電車の中でブツブツ言ってる危ない人も、それなりに論理的なプロセスを経て向こう側に行っちゃってるのである。問題なのが論理的に向こう側に行っちゃってるだけに、帰ってくるのが結構……、以上、この項はすっとこさんが自己流で解釈しているので、細部が多分間違ってますが、気にしないで下さい。気になるなら間違いを指摘しる。うわ勝手だ。

さて、ここでちょっとオギーの「ありがちなシチュエーションに引っ掛かるもんか」を考える。とにかくオギーの外的自己は抑圧された内的自己が出てこないように笹原とつき合う事を拒否している。何故内的自己を抑圧するのかは実はまだ説明ができないすっとこさんであった。精神分析に自我が隠しておきたい抑圧されたものを暴こうとすると「抵抗」という、原因が意識に出てくることを回避しようとする働きがあるが、それとうまくからめて解説を考えよう。とにかく、このオギーの場合「好きな人に迷惑をかけてしまった」トラウマが笹に対して、「絶対に笹原さんに迷惑をかけない」という形で出ているものと思われる。この2つの関係は「まるで悪夢の続きだ」という台詞から、「自分が迷惑をかけてしまった巻田」と「自分の二日酔いで旅行なのにどこにも行けない笹」という関連性をオギーは認めている。それゆえにオギーは笹原にはどっか出かけてほしいし、水が欲しくても、笹に自分のために働かせない→迷惑をかけないという思考が働き、「寝言が出ちゃったみたいで……」とか誤魔化すのである。持ってきて貰っちゃえば何てことはない事なんだけど。昼飯を買いに行く件は以上の件と、本当に食欲が無いのとの両方かな。

ところで余談だがオギーの悪夢、ポイントは「(1)中島が自分を冷笑している」「(2)自殺した自分が巻田くんになっている(荻上が巻田を殺している)」「(3)自分が死ぬ巻田を冷笑している」の3つがポイントだが、……これについては次回「中島について」で語ろう。

んで、悪夢から覚めたオギーが言う「……こんな事されたら私どうしたらいいかわかんないじゃないですか……!」だが、結局笹原はどこにも行けなかったため、オギーが恐れていた、笹原に迷惑をかけるという事態が現実化してしまったのである。つまり「もう2度と好きな人に迷惑をかけたくないのに、またかけてしまった」という抑圧しているものが出てきてしまったのですね。しかし笹のその後の告白の台詞「好きだからここにいるし、守りたいと思うし」は、オギーの外的自己を一発で突き破り、内的自己にダイレクトに突き刺さる決定的な告白であった。てゆうかこの部分、うまく言葉にできねぇ。とにかく、オギーが内的自己に抑圧しているものをダイレクトに鷲掴みする笹の告白に、一瞬心を開こうとするオギーだが、外的自己が巻田くんの事を思い出し、再び抑圧しようとする。この外的自己と内的自己の葛藤がオギーを壊れさせた。一時的な発狂、と言うと差し障りがあるので一時的な混乱に追い込んだとする解釈が成り立つ。あるいはオタクに責任転嫁しないで、男の人とはつき合わない→原因は自分であると笹原に告白するというのは、外的自己を一部破壊して内的自己を露出させており、これが一時的な混乱につながっているという解釈もできるのかな? あー自分の中でもうまく消化できてねーもんだから読み返しても自分で何言ってんだかわかんねー。すまん。

その内的自己を見つめる覚悟を決め、過去から逃げないという決心をするのが第46~47話の展開である。この部分の解釈は……やれるのか?

これも余談だが笹の告白前段の「……下心みたいな?」の解釈だが、これは笹が自分一人コテージに残ってオギーの世話をするのが確かに「わざとらしすぎないか?」と自分で言ってしまうほど、下心が見え見えなのを自分でも十分承知しているので、ついつい本心を言ってしまったのである。笹はいい意味でも悪い意味でも。自分の感情を相手にそのまま言う事に躊躇を覚えない。自分が思ったことを相手にそのまま言うのは誠実な事、と言うか当然の事だと思っている。良く転べば「たつよね」から「キャラクターへの愛に溢れてるよね」みたいな相手の心にヒットするが、悪く転べば原稿ほとんどできてねぇよ会議みたいになる。しかし笹は意味それが当然の事だと思っているので、オギーが自分の事どう思ってるのかとか、「それはどういう……」と、相手の言いづらくてしょうがない事をはっきり言って貰わないと不安でしょうがない。「自分なら相手にこう言う」と思っているわけだから。本来そういう人は強気攻めにはなれない。強気攻めってのは本気で拒否されるリスクを許容できないと成立しないので、人から拒否されるリスクを極端に恐れる笹は、やはり強気攻めには向いてない。ただし、オギーとの間でのロールプレイングという形ならできるだろうな、くそ。羨ましいぞ。

というわけで第45話の解釈は終了。勉強不足のためかなり荒削りだが、だいたいの所は説明できていると自分では思ってるんだけど、説得力あるのかな。しかし俺よりもっと精神分析に詳しいげんしけん読者がいれば、あっさり論争に負ける覚悟はあるぜ、情けなー。