農大現代視覚文化研究会

「げんしけん」の荻上と「もやしもん」のオリゼーを探求するブログ

木尾士目について考える

2006年04月17日 19時23分45秒 | げんしけん
切り口は「陽炎日記」のあとがきまんが「赤っ恥劇場」。これによると――

『しかしこーして各作品の題材を見てみると……』

『点の領域』妄想
 ↓
『陽炎日記』処女だの童貞だの
 ↓
『陽炎日記2』肉体問題

『それぞれの間に何があったのか勘ぐっちゃうよね』

とあるが、これをそのまま敷衍して行くと

『四年生』恋愛と就職
 ↓
『五年生』長距離恋愛と神経症
 ↓
『クラカチットの街』理想の女性
 ↓
『げんしけん』小さな共同体

となるわけで、本当にそれぞれの間に何があったのか勘ぐりたくもなる。それはまぁ置いといて、ここでまずは『クラカチットの街』について考える。読んだことの無い人は置いてきぼりにする。てゆうかすっとこさんも記憶で書く。さて、ヒロインでデブ女(すいません)の吹部さんだが、これは木尾士目が読者コーナーに書いている通りの「俺の女性への過剰な思い入れ」を投影したキャラである。つまり吹部さんは、木尾士目にとっての理想な女性なわけね。となると、この作品に出てくる3人の男性、吹部さんの愛人である芸術学部の教授、吹部さんと現在関係を持っている理工学部のDQN、吹部さんの元カレである芸術学部の生徒と。ではこの3人のうち、誰が木尾士目かとゆーと、考えるまでも無く全員木尾士目を投影したキャラと考えられる。

教授は下品でモチーフが単純な絵を描く(学生の評)、金と地位はあるけど家族とうまく行ってない、才能は無いが情念は濃い(DQNの評)とか。これは主に『五年生』以前の木尾士目で、これまでの作品が「生々しい」とか「リアリティがある」とか評価されているが、結局のところ露悪趣味とどう違うんだって話で。金と地位があるのは、一応これまでこの路線でやってきて、ファンもいるし、金も稼いだって事かな。家族とうまく行ってないってのは世間か、編集か、どっちかね? それ以外かね?

DQNは理工学部で、芸術学部ではない。つまり漫画家でない木尾士目の面か。漫画家にならずにいたらこーゆー奴だったという木尾士目の自己評価なのかねぇ。彼が爆弾を用意して教授を殺そうとするんだが、これはよーするにこれまでの自分を殺してしまおうと、つまり漫画家をやめてしまおーかとゆー企ての表れか。

学生は普通なんだよねぇ。本当に普通。しかし最終的に男の中では彼だけが生き残るわけで、つまりこのごく普通のキャラが、今後の俺だという事を木尾士目は表しているものと考えられる。過去の自分である教授と、漫画家でないDQNは、DQNの用意した爆弾によって殺されてしまうのだから。この作品が掲載された2ヵ月後には『げんしけん』が始まっている事を考えると、斑目じゃないけど、過去の自分と決別するという通過儀礼としてこの作品を発表したんだろうなぁと考えられるわけだ。

ところで2人を誰が殺したのかとゆうと吹部さんなんだけど、つまりしつこく繰り返すと、木尾士目の過去と、漫画家でない部分が、理想の女性に殺されるという話なんだよねー、『クラカチットの街』という話は。そう読み解くとすンげェ面白いんだけど、そこまで読み解く奴そうそういねェよ。という事で、この漫画はその大部分の人にとっては、何を言いたいのかよくわからん漫画に終わってしまうわけだ。こんな私小説漫画を掲載したアフタヌーンは偉いねぇ。

さて、ついでに『げんしけん』についても考える。現視研は小さな共同体である。よく本スレでも「家族について書いている」という評があるが、家族と言うのはそもそも血縁関係がある事を前提にしているので(現実には親とか子の役割が重要であって、血縁関係は必要ない、養子とか)、『げんしけん』は必ずしも家族について語っているわけではない。要するに『共同体』について語っているのだ。しかし、少人数の共同体という共通点があるサークルと家族を対比させながら話すのは結構有効なので、以下はその線で話を進める。

つまるところ唯幻論的に言えば、ああ、唯幻論を知らない人も置いてきます。人間の自我を安定させるためには共同体の一員であるという幻想も必要なので、テーマをサークルという共同体一本に絞って語っているのが『げんしけん』なのですな。

作品の構造的に、他の共同体が一切出てこないのが面白い。漫研はヤナしか出てこないで、漫研の腐女子は存在しか語られない。アニ研も同様。自治委員会も現視研と敵対するのは北川さんだけで、自治委員会の内部はほぼ語られない。ハラグーロは共同体の寄生虫として書かれている。一方家族もほとんど出てこない。春日部さんが父親について語るシーンが『げんしけん』作内において強烈な違和感を感じさせるのもその証拠。そして恵子だが、恵子は家族からも笹からも独立した存在として描かれている。さらには2ちゃんねるのようなネット共同体も存在が匂わされる程度である。徹底している。

さらに言えば『くじびきアンバランス』内もその構造は受け継がれている。『げんしけん』作内に存在しない共同体が、『くじアン』の中には多々存在する。親子を描くために親が存在しないキャラに、ヤクザという共同体を当てているのも面白い。ヤクザって「○○一家」って言うでしょ? つまりヤクザ共同体は、結びつきを理由付けるために、家族共同体を模倣してるわけだ。しかしその『くじアン』内に、家族に相当する共同体が存在しないキャラがいる。かいちょーである。

そんでもってかいちょーとオギーの関連性も多々語られる所だが、実際オギーの起こした事件を冷静に考えると、親が出てこないのはおかしい(巻田くんの親は存在が語られるのに、オギーの親は存在すら語られない)。そこんとこを踏まえて考えると、オギー入会以降の『げんしけん』は、オギーが現視研という共同体に溶け込んでいく過程。言い換えると現視研という家族に迎えられる過程を描いた作品であると考えられる。とりあえず家に入るには入ったが、ぜんぜん馴染めないオギーが、徐々にお互いが家族として受け入れられる過程になぞらえられる。ほんでもって笹原との恋愛成立は、現視研の現在のお父さん的存在である笹原との結婚に例えられるのではないかと、そーゆー解釈も可能であろう。つまり完全に家族の一員として認められたって事だ。となるとオギー登場以前の『げんしけん』は、家族関係を語る話と同じで、たまには喧嘩もするし、すれ違いもあるけど、共同体がなんとかうまくやっていく過程を見るのは楽しいね、という話なのではないかとゆー事よ。

というわけで、今日は『クラカチットの街』と『げんしけん』の構造に迫ってみました。木尾士目は多分ここまで考えてます。恐ろしい。今日は読み返してません。多分語りきって無い部分があるでしょう。てかネーム書かないと。

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2 コメント

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Unknown (すっとこ)
2006-04-17 20:21:55
ああやっぱり書き忘れてた。殺された2人の、吹部さんに対する口上と、学生の口上の対比。それに対する吹部さんの評価もいろいろ勘ぐれる。

また、吹部さんが二人を殺した後に、教授の描いた、自分が犯されている絵に「棒っきれ(c)咲ちゃん」を上書きして、街から去っていくんだけど、つまりこれは吹部さんの、教授の仕事に対する評価であると考えられる。これを木尾士目に当てはめると……どうなんかねぇ。どうなんすか?
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Unknown (すっとこ)
2006-04-18 08:38:33
も1個書き忘れてた。吹部さんってDQNに「面白い絵を描く」と評されてるんだけど、吹部さんの絵って作中に出てこないのね。つまり木尾士目の理想の女性の絵ってのは木尾士目の理想の絵なわけで、そんなもん木尾士目には実在しないし、実在したとすると、それ描くといろいろバレちゃうわけで、となると作中に吹部さんの絵を登場させるわけにはいかないのも道理。だが、それは「そこまでの吹部さんの絵を見てみたいと」いう読者の希望と相反するわけで、そりゃエンタテイメントじゃないよなーという話だ。
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