何故死んでしまったの…祥一郎の生きた証

私は2015年12月28日、20数年共に暮らした伴侶である祥一郎を突然喪いました。このブログは彼の生きた証です。

ゲイコミュニティへの関与 祥一郎亡きあと

2016年05月16日 | LGBT


20数年間、二人で過ごしてきた。

当然ながら、孤独感や、人肌恋しい、誰かと触れ合いたいという感情とは無縁だった。

私にはいつも傍に祥一郎が居てくれる。

別にゲイの友人関係を広げる必要もつもりも無かった。
ましてや様々なゲイコミュニティへの参加など、考えた事も無かった。

親友や友達と呼べる人は数人居るが、その親友は大阪で数年前に亡くなり、もう一人東京にいる友人は色々忙しくて何年も逢う事ができない。

しかしそれでも私には伴侶と呼べるパートナーが居たので、ときおり友人はどうしてるかなと思うだけで、自分からあまり逢おうと働きかけることはなかった。

それが、今回の祥一郎の死によって、私の立っている地面が足元から崩れ、深い穴でもがきにもがいている。

気がつけば、誰もこの悲しみ、寂しさを共有できる人が居なかったのだ。

何人か、ゲイではないが私の今の状況を気遣ってくれる人は居る。慰めてくれる人も居る。それは大変有り難いことだ。

しかし、私にはゲイの同じような境遇の人との横の繋がりが殆ど無いのだ。


ゲイの友人関係をもっと広げておけば、何かのおりに私と似たような経験をした人と知り合えたかもしれない。
しかしそういうことを怠ったため、同じゲイ同志腹を割って言い難い事も言える友人知人が居ないのだ。

私が祥一郎にべったりだったからだろう。精神的に強く依存していたからだろう。

先日も書いたが、「TOKYO RAINBOW PRIDE」という団体の関係から、LGBTの人達で死別を体験し、その心のケアを行っていこうとしている団体がある事を知った。

幸いその団体の代表の方と逢う事ができ、先日電話で色々とお話しが出来た。

その方もゲイで死別を経験しており、死別した彼が存命の頃は交友関係を広げることをしなかったと言っていた。

彼さえいてくれればそれでいいと思っていたという。

そして彼と死別してから、同じ気持ちを共有する人達を繋げる為に立ちあがってくれたのだ。

藁をもすがるような日々を送っている私にとって、このような団体の存在は暗闇の中の一筋の光明のようにも思える。

ひと月に一回ほど日曜日に、LBGTの死別者の交流会があるそうだが、なかなか仕事の関係で行くことは難しいだろう。勿論機会が合えば行くつもりだが。

しかしその交流会で逢えなくとも、今度膝を突き合わせ語り合いましょうと言ってくれた。


皮肉なものだ。そして愚かなことだ。
祥一郎の死によって、私のゲイという属性が自ずとクローズアップされ、同じ属性同志の横の繋がりの脆弱さに気付き、今頃になってそれを是正しようとしているとは。

私はもう、そうそう友人が易々とできる年齢ではない。

しかし今回、その団体の存在を知ったことで、まずは同じ境遇の人達との心の交流を深め、そこからクローゼットにしまいこみがちだったゲイという属性を、もっと表に出して光をあてていけたらと思っている。

祥一郎を喪ってできた巨大な穴は、一生埋まる事はないだろう。

しかし、その穴に少しばかりの明かりを灯すことはできるかもしれない。

この願望が、願望で終らないように可能な事はしていこうと思っている。



祥一郎・・・・・おっちゃんはやっぱり腐ってもゲイなんだよ・・・・

お前が旅立ってしまったから、何かに縋りたいのはいけないことかい?

「おっちゃん、もっと友達増やして、うちがおっちゃんにしてあげられへんことを少しでもしてもろうてな。」

そんな事を言ってくれるかい?




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ふたり分の足跡

2016年05月16日 | ひとりぽっち


足跡が・・・・・

足跡が二人分、まったく違う方向から段々と近づいてくる。

そして、ある日同じ場所に二人分の足跡が向かい合っている。

その二人分の足跡は、行ったり来たりしながら、ときおり少し離れながらも、やがて同じ方向を向き、寄り添うようになっていく。

真っ直ぐの道を二人の足跡は続いて行く。

でも、ときおり曲がり路、坂道、砂利道、ぬかるんだ道などがあるが、それでもそのふたり分の足跡は寄り添いながら続いて行く。


やがて、一人分の足跡が遅れ始める。段々と足取りが重くなっていく。

もう一人分の足跡が、その周りをぐるぐる回り、あちこちの方向に少し行っては、また元の場所に戻ってくる。

そしてとうとう、一人分の足跡はもうまったく新しい足跡をつけなくなった。

もう一人の足跡は、やはりその場を小さくぐるぐる回り、動いてはいるようだが、先には進まない。

もう新しく増えなくなった足跡の周囲を、いつまでもよろけながらもう一人の足跡が同じ場所に増えて行くだけ。

まだ動いている足跡は、少し先に進もうとするが、半歩行っては増えなくなった足跡の元へまた戻ってくる。

足跡の周囲には、濡れたような跡も頻繁に見える。

うずくまっているような跡もある。

引き摺って歩いたような跡もある。

道はまだ続いている。

でも辛うじてまだ動いている足跡は、増えなくなった一人分の足跡の周囲から離れることはない。

いつまでもいつまでもほぼ同じ場所で、そこで立ちすくんでいるような、地団太を踏んでいるような跡が増えていくだけ。


祥一郎と私のつけてきた人生の足跡は、空から見たらこう見えるのかもしれない。

祥一郎・・・

そこからはお前と私がつけた人生の足跡は、どう見えるんだい?

おっちゃんは、これからどの方向に、どの道に足跡をつけていったらいいんだろう・・・・・・・。

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