何故死んでしまったの…祥一郎の生きた証

私は2015年12月28日、20数年共に暮らした伴侶である祥一郎を突然喪いました。このブログは彼の生きた証です。

カミングアウト  祥一郎と私の誇りのため

2016年05月02日 | LGBT


あれは祥一郎と永訣してから数日経った頃だ。

錯乱状態で、何が起こったのかまだ理解できない状態に陥り、当然ながら祥一郎の死を受け入れてなどいなかった真っただ中。

けれども私はただ一つだけ、これだけは血縁や親族達に伝えておかねばならないという思いがあった。

ボロボロの精神状態でも、それだけはやらねばならないという信念があった。

それは、カミングアウトすること。


兄弟や従兄弟たち、たいして付き合いも無く別に会いたいとも思わないが、悲しいかな、私がもしひとりで死んだら後始末するのは彼等だと思い至ったのだ。

それは祥一郎の死に際して彼が荼毘に付された時、実の父親と弟が複雑な心境の中、後始末に来たということとも関係している。

私という伴侶が居たにしろ、結局ゲイのカップルにとって片方が死んでも、もう片方が色々な面で主人公にはなりえない社会構造だというのは現実なのだ。

葬式にしろ、墓の問題にしろ、仏事にしろ、血縁が取り仕切るようにこの社会はなっている。



その上で。

カミングアウトしようと思った理由はただ一つ。

祥一郎と私が紛れも無く家族だったことは誇りだからだ。

私がたった一人で死んだら、私の痕跡では無い、兄弟や従兄弟達から見れば誰か他の人の痕跡が後から後から明るみに出るだろう。
そう、祥一郎がそこで生きた証が次から次へと私の骸の傍から出るだろう。

その時に、私と祥一郎が確かにそこで暮らし、愛し合い、家族として過ごした年月があったのだと、彼等に知らしめるため、カミングアウトしたのだ。

要らぬ詮索を避け、祥一郎の痕跡をすぐ処分させることを防ぐため、私はゲイであり、祥一郎という伴侶が居たのだということを理解させるためなのだ。

別に私自身が楽になりたかったとか、ゲイを隠すのが嫌だったとか、そういう問題では無く、私と祥一郎が共に生きた証、それは誇りであって、なんら恥ずべきものではない、だからカミングアウトすることにした。

大阪に居る兄にカミングアウトした際、兄は黙って聞いていた。

私が、「俺には、愛し愛された同性の伴侶がいた。何が言いたいかはわかるよね?こんなこと言うのは、勇気のいることなんだよ。」と言ったら、

「・・・・・・・そうだろうな。」と呟いたのみ。
別に理解のある言葉を兄から聞きたかったわけでもなく、そんな関係でもないが、とにかく私が死んだら、祥一郎との人生があった事だけは伝えた。

従兄弟達は幼い頃、短期間一緒に暮らしたことがあり、その頃から何となく気付いていたようで、

「お前何をいまさら。お前、死んだオモニ(韓国語で母のこと。私にとっては伯母になる)にその人とのこと言ったのか?」と言われた。

正月の墓参りのときにちゃんと伝えたと言ったら、「そうか、お前、これからはゲイの権利向上をライフワークしたらどうだ?」とも言ってきた。

兄にカミングアウトしたときとは違ってやや拍子抜けした感があったが、私は東京で死ぬかもしれないので、近場の従兄弟たちにも伝えることは伝えた。



私はおそらく孤独死するかもしれない。悔しいが、世話になりたくないが、その時に後始末するのは彼等だ。

その時に祥一郎の遺影や位牌、あいつの遺品が何故あるのか、これで理解するだろう。


今もうひとつ考えていることがある。それは遺書の作成だ。

私が死んだら、祥一郎の遺品とともに葬って欲しい項をしたためた遺書を作成しておこうと思っている。

法律的なことも含めて、これから色々と自分の残す遺書のことを調べようと思っている。



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