ボリショイ劇場 & シドニ-オペラハウス観劇記

元モスクワ、現在シドニ-赴任の元商社マンによるボリショイ劇場やシドニ-オペラハウスなどのバレエ、オペラ観劇記です

エレーナ・ゼレンスカヤーオペラ歌手-

2007年01月15日 | Weblog

ソプラノの世界の歌手」というタイトルでエレーナ・ゼレンスカヤのインタビュー記事がアエロフローとの機内誌に出ました。

ロシア国民アーチスト、ボリショイのソリスト

彼女はロシアより西側で人気が高い。西側でオペラはいつもエリートの芸術でした。今はエレーナはアメリカのメトロポリタン劇場で1年間歌っていつも満席でした。彼女の為に作ったオペラは題名が象徴的で「運命の力」という題名です。彼女の運命についてインタビューしました。

*あなたは歌うという芸術があなたの芸術になったのは何時ですか?

私が覚えている限り赤ん坊時代、子供時代から。赤ん坊時代から泣き声が大きかった。2歳の時におばあちゃんと曾おばあちゃんがクリスチャンの洗礼(そのころ国では禁止、両親は反対)を両親がいないときに連れて行きましたが大きな声で泣いたので牧師があなたは神様の歌手になると言われました。その言葉から全部が始まった。家族も音楽好きで父は立派な綺麗なバリトンの声を持っていて詩も作っていた。曾おじいちゃんの声は大きくて彼が話すと隣の家でも声が聞こえたほどでその声が私にも引き継いでいます。彼は立派なバスを持っていた。母はメゾソプラノの声を持っていたが音楽は勉強せず化学に興味持っていた。母が歌うと私も歌った。私の最初の舞台は「椅子」だった。みんなの拍手を貰って幸せだった。今メトロポリタンの舞台で感じるのも同じ。声が大きくてバクーの音楽専門学校には合格出来なかった。音楽の先生達は音感が無いと決め付けた。音感よりは政治の方が強かったからです。(注:ロシア人のElenaはアゼルバイジャンではアゼルバイジャン人優先で不利だった)私はこの失敗は大きな失望でパレエに入りたいと2年バレエをやった。送り迎えをする人がいなかったので辞めた。一番近くの算数専門学校に入れた。数学は嫌い。歳をとると色々趣味があったが歌いたいという希望が強くて住んでいる近くの子供の文化センターの歌手クラブに父が連れて行ってくれてそこに入ってそこで直ぐに注目され第2ソプラノの炉祖になった。只私は第2は嫌だった。私はいつも第一になりたい。父は同じようにいつも第一になるべきだ、君はプリマになるべきだと言っていた。彼は神像が弱かったが1984年にバクーの音楽院に連れて行った。当時はバクーの音楽院入学は19歳だったが私は17歳で申請した。入学させてくれなかったが大学院のDirectorに入れてください。大学院に金メダルを獲得させると迫って歌って入学させてくれた。大学院は満点だった。授業は難しく他の人は大学院の前に専門的に学んでいるが私はやっていなかった。音楽のハーモニー分析は難しかったが歌手の試験はとても良く出演するのは大好きだった。

*今舞台に出るときに心配しますか?

はい。心配します。舞台では心配しないというのは信じられない。芸能人は失敗の心配だけでなくもっと難しい問題で難しいプロセスで現れる。舞台では芸術の世界に入って活動するということと私はエレナ・ジェレンスカヤでなくトスカやマクベスなどオペラの役になりきります。私でなく私の役になる。役に入ると役になる為に心配が存在する。

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿