大江は前72年に出した平和運行宣言をこの年は出してこない。宣言し実現したからあらためて出さなくてもよかったか、それとも中須賀が休場開けで出てきたから相手にするつもりだったのか謎。そんな73年。
一宮まではあまり記憶できていない。船御幸もない年だったが特に波乱なく来たのだったろう、好天に恵まれた18日午後となって。
一宮への当時の運行としてはまず江口新田が大鳥居前で待ち合わせる。そして西にならば共同石油あたりへ(あるいは東ならば愛媛新聞あたりへ)進んで一方のある種防御柵となるべく動く。続き北進してきた久保田が交差点を右折し中央公園を目指して大江東町を待つ。西方が宮へ向かう--というものが基本設定だった。
この年は西が先に入る順。江口新田が東へ向かったのに付いて行くと大江が消防署あたりでもうやる気まんまん、下半身は脱いでいた。台車も着けていることだしこのまま行てしまえだの来るまでもうちょっと待てだとかで騒いでいた、まだ相手は見えていなかったのだ。その場は納まって一旦下がり中央公園まで戻って、脱いでいた幕も着けた模様。
西方はこの状況を知ってか知らずか、事もなげに境内入りして本殿廻り後に定位置で待機した。久保田東町大江も入ってきた。中須賀-大江、西町-東町で何回かつっかけ合うが交戦には至らない状況。
大江、出ようとして参道へ向かう。手水舎を越えたあたりまで行くが何故か引き返してまた行ったり来たりを中須賀とやり始め、それは夕刻まで続いた。
後にしばらく続いていく平和運行時代へのターニングポイントとなったのがこの年でありこの瞬間であったと考えている。大江が出ようとしたのが正確ではないが4時にはなってない頃、陽は全く高い。大江は外に出て車を着けてやるつもりだ、中須賀も続いて出るだろうと周りの大人達はそう見なしていた。それがこれまでの新居浜の、祭りの、18日午後の作法に則った進行だったのだろう。だが、大江はそこで出てしまわず、境内中央へと戻ったのである。18日午後に一宮へ入っていざりで時間を費消させておくとやがて日没を迎え平和運行の蓋然性が上がっていき平和運行が成る、という法則が確立したとも言えようか。
江口が出て帰落すると、西原が大鳥居をくぐって右折してそこで止まった。もう陽は沈んでしまって夜となっている、東の方向を向いてなにか挑発しはじめた。大江はまだ帰っていない、まだ見えるところに居たのだ、おそらくは郵便局あたりか、台車は着けているはず。続いて中須賀は道を超えて南の参道へ入る、これまた東側を意識しながらだ。最後に西町が参道を出てしまわずに据えた。つまり3台は大江を呼び寄せ挟み撃つ位置に陣取った。
そこから、西原は前に出ては下がる。中須賀が出て東を向いては戻る。西町が出て揺すって大鳥居まで下がる。出て揺する太鼓に対して動いていない2台は大きなエールを贈っている、軍団としての挑発というものか。3台はこれを何度か繰り返したが果たして大江はそこまでは来ず、3台は帰途につく時間となったのであった。
この年のHT:甲子園でのG最終戦で勝っていたら優勝だったのに。いやぁその前に名古屋でDに勝ってたら優勝だったのに。名古屋で上田、甲子園で江夏にしておけば優勝だったのに。え?フロントは優勝したくなかったんだって?だからだって?そんなぁ・・・・なんてことも当時は知らなかった。