見せられている数字はわかりやすく可視可されているだけに厳しい。'20年のように今年はやめとけまた来年できるよみたいな態勢ではなく、出るとこは出るぞウチも出るよね態勢なのは喜ばしいが、さすがにこの数字(ないしグラフ)にやばいかなと思わせられる8月下旬である。われわれが問題視すべきなのはワクチン接種者における感染者数(あるいは感染率)であると考えるのだが、そう理解していながら旗色が悪い、萎える。
われわれには期日がある。そこに照準を絞り、とれる行動はあるはずだ。公衆衛生的作戦としてのワクチン接種が祭りやタイコとは関係なく展開されていて(いろいろ評価はあろうが)一定の効果は上がっている。今日よりも明日、明日、来週、来月の方が抗体を持つ人々は増える。今ここよりも10月中旬の方が抗体ある人の数が絶対的に増加している、よろしい。相関して時間が進むにつれて感染する人が減らないわけはない。このワクチン武装をしたうえで(他に有効な手もなさそうな現在)感染にたいしてやれることがあると考えたので、以下に記す。
某店で某所で、クラスタが発生との報は聞くものの、それらは状況証拠であってまぁそこだろねえ的な推理にすぎないことはおわかりだろう。こんな時にこうすれば感染スイッチがオン、このラインを超えたらアウトという閾値があるわけではない。
昨今あまりいわれなくなったが密を避けろとの題目は人々のなかには残っていて、密は危うい忌避したいとの了解がある。しかし実際のところ、どれだけ危ういのかどの程度なら危ういのかは誰にもわかっていない。観客を増やしたり減したり手探りしている興業界でもよく見聞きするように。
タイコでなら一本の棒に何人寄ると危ういのか、何分間滞留するとそうなのか、どこまで歩いたら危険地帯なのか、タイヤを外すと超危険なのか----。おわかりのようにこれらは想像でしかない、だから、まぁ危なそうだからやめておきますか……な判断になってきたのが、悔しいながらも受け容れてきたこれまでである。ここで感染者数や重症者数を見て一喜一憂(さいきんは憂ばっかりだが)しても敗色が濃くなるだけかもしれず。立ち止まり、前向きな姿勢をとりながら、なにをしてはいけないのかを留意しつつ、できることを探していこう。
想像であれこれいっても、想像の域でしかない。試してみなきゃわからない、やってみよう♪♪というギャンブルはありと考える。いや違うな、そうじゃないな、ギャンブルじゃなくてだ。「社会実験」したらいい。
あるタイコを組んで動かして神社まで行ってみてクラスタ化するのか「実験」である。感染して症状が出るのに二週間というところらしいから、9月半ばに行なうといい。10月には実験結果を出せる。
ワクチン接種ずみ(今は高齢者ないし高校生になってしまうのは仕方ない)の担き夫等が通常運行程度の密で自治会館から神社まで往復してみるわけだ。データを求める実験なのだから声を出すことはむしろ必要、マスクは念のためかける方がよいだろうが、この道行きで二週間後にはたして感染者が出るのか、出るとしたら何人かを実験によって検証するのである。担き夫各人を後追いできるようにして二週間後に状況を聞き取る。100人の参加者に感染者は、果たして----。
こんな実験結果でタイコを運航させる行為が危険なのかどうかに対して、一定の解答を出せないだろうか。あぁやっぱりやっちゃいかんことだったんだ、という解答もあるだろうし、えぇ全然イケそうじゃないの、という解答もありえよう。実験したからには想像でイケる/イケないを勘案するよりも、判断のための強いエビデンスとなる、どちらにしても受け容れは容易であることは確かであると信じる。
そんな実験結果が10月初旬に明らかになれば。この結果を材料にして各自治会が出る出ない出せる出せないを判断する、のである。
そんな法螺話を聞くにはよくてもどこに実験させるんだ? そんな益すくなく危ない目に遭う可能性があり、暴走的先走り行為と叩かれそうなボランティア運航をどこがやるというのか、という問いはあるだろう、そこで。
いくつかの理由により新須賀が志願するといいと思う。まず自治会から堀江神社へ行くのは近距離で交通量も少ないので通行の邪魔になりにくいこと。境内で除車さえできるかもしれない。
次に、ちょっとした優越感を得られること。社会に奉仕するのは単純に気分がいいの否めない。直接に感謝する者はすくないかもしれないが、自分(あるいは自分たち)がしたことで他者が助かっているとしたら、疑いなく気分はいいものだ。
更に理由はある。'19年の一件で複数年休航の裁定だったのはご承知のとおりで、'21に至らんとして(またもや、そして「特例」すらないまま)ペナルティ有耶無耶になったしまったこともまたご承知のとおりであるが、新須賀がこの状況をどう捉えているのか。温情に対してこれ幸いと涼しい顔して出てしまってはいささかフゥが悪くないだろうか。筋を通したい向きはいないだろうか。そこでだ。実験に参加すればそんなもやもやをクリアできて、世間に対して謝罪(そうでなければ謝意)の意を表すことまで可能になるのだ。
司法取引というんではないが社会奉仕ともいえる、すすんでの実験台運航は検討に値するに違いない。場所が適していて、当惑感を払拭できる。自分に意義深く他者に有益、これほど条件がそろっているのは、新須賀をおいて他にない、と思う。
じゃあ西原でも可だろうに、との声もあろう。わたしも贔屓なのでそうしてほしい。だがしかし、ワクチン接種済みでなおかつ運航に参加できそうな人員がいったい何人いるかというと……。端的にいって数がいないのでは実験にならない、のである。