もめん亭の部屋

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皆様との「一期一会」お待ち致しております。 

前田慶次・・・のこと

2009-02-11 13:05:38 | Weblog
そういえば・・・

この人の事は、「漫画「花の慶次」」で人気であるとか。。。

通称・前田慶次(本名は、前田慶次郎)名乗りは利益・利太など多数。
浪人時代は、穀蔵院飄戸斎と名乗った。

前田利家の兄の利久の養嫡子で、滝川一益の一族の滝川益氏の子であったという。
その後いろいろあるが・・・
上洛した慶次郎は、多数の文化人と交際し数年を過ごす。

・・「米澤人國記」には以下の記述がある・・

永禄十年(1567)から天正十年(1582)まで
慶次郎は京都の一隅にあって堂上貴顕(とうしょうきけん)の公家や
文人とも交わっていたという説がある。
そこで慶次郎は和漢古今の書と親しみ
分けても源氏物語、伊勢物語の秘伝を授けられたという。
連歌は当時第一人者紹巴(しょうは)に学び、
茶道は千利休の七哲の一人である
伊勢松坂城主古田織部正重然に皆伝を受けたともいわれている。
武術については弓馬はもちろんのこと、十八般に通じていた。

その後文武の道に己を凌ぐ人物として直江兼続と親交を深め
その主君である上杉景勝に心酔したと言う。

戦半ばにして関が原の敗戦により
撤退を余儀なくされた上杉軍は、最上勢の追撃を受けた。
この時に直江兼続と共に撤退の際に
 敵の追撃を受け持つ部隊「殿軍」を引き受けたのが前田慶次郎だった由。


通常は壊滅に近い被害を被る戦いだが
・この時の・兼続の撤退戦は・・・
旧日本軍参謀本部の「日本戦史」で取り上げられるほど見事なものであり
そしてこの撤退戦の慶次郎の働きは目を見張るものがあった。

その後、堂森山北東のほとりに「無苦庵」を結んで
風花吟月を友として悠々自適の生涯を終わったと言われている。
無苦庵で記述されたのが「無苦庵記」で
「生きるだけ生きたら死ぬるまでもあろうかと思ふ」という言葉で結ばれている。


多分、暖かくなったら・・・

直江兼続の「愛」と

慶次郎を訪ねて、米沢の地を訪ねるであろうと思われる私です。

伊達家・・・発祥の話

2009-02-10 23:08:08 | Weblog

今日、桑折町のお友達が飲みに寄ってくれました。
NHKの大河ドラマ「天地人」・・・の話から

マエダケイジ前田慶次なる人
  (前田利益まえだとします)のいた事を知りました。

 滝川益重の子(戦国一の傾奇者)で前田利家の兄(利久)の養子となる。
  槍を使えば天下無双、風雅の道にも造詣深かった。
  関ヶ原合戦では上杉家に属して戦った。
 

この話から・・・話題が広がり、
伊達氏の発祥の地は自分の住んでいる桑折町だったと。


・・・と言うので
チョイと気になり、どう言ったいわれがあるのか??と

すると・・・
鎌倉幕府の公式記録ともいえる「吾妻鏡吾妻鏡(あづまかがみ 東鑑)」による
ものである事が分かりました。

独眼流の異名で知られる伊達政宗。 
政宗を生んだ伊達氏の歴史は常陸入道念西の子息

伊佐為宗が「欧州合戦」で功をあげ

念西一族が奥州伊達郡を賜った事に始まる

・・・と記されていました。

そもそも、文治5年(1189年)源頼朝が藤原泰衡追討の為
奥州合戦(奥州征伐)を行った折、この合戦に常陸入道念西(ひたちにゅうどうねんさい)の子息である
常陸冠者為宗(ひたちのかじゃためむね)、同じく念西・子息の次郎為重(じろうためしげ)
三郎資綱(さぶろうすけつな)、四郎為家(しろうためいえ)が従軍した。

頼朝率いる鎌倉軍は・・・
阿津賀志山(あつかしやま・現・福島県伊達郡国見町)の麓に到着

この奥州合戦で
佐藤庄司(佐藤基治・・・源義経の忠臣である佐藤継信(さとうつぐのぶ)
忠信(ただのぶ)兄弟の父で、平泉の名門)など敵を倒した功績で伊達郡を拝領。


頼朝から伊達郡を賜った念西一族の一部の人たちが、後に伊達郡へと居を移した。

伊達郡に下った者たちは以後、伊達を名乗るようになったと思われる。
即ち、後に独眼竜政宗を生むことになる仙台藩伊達氏の始まりである・・・と


ちなみに、吾妻鏡の記述の中より

 ・文治2年(1186年)常陸介藤時長の女・大進局が、頼朝の子・若公(貞暁)を生む
 ・文治5年(1189年)常陸入道念西の子息・常陸冠者為宗兄弟が奥州合戦で戦功
 ・建久2年(1191年)伊達常陸入道念西の息女は、女房大進局

上記を推察まとめると・・・
常陸介藤時長(藤原時長)と常陸入道念西(伊達常陸入道念西)は同一人物で、
時長が剃髪・入道して念西となり、奥州合戦を経て「伊達」を名乗ったと解釈できる・・・とあります。

阿津賀志山は国見町ですが
桑折町はそのすぐ隣・・・
麓の場所によっては、桑折町の説は・・・納得・・・した次第です。



緒方拳さんの・「帽子」の再放送

2009-02-09 13:19:04 | Weblog
昨日、タイトルの「帽子」を見ました。

緒方さん演ずる春平は、呉市で親の代(山本五十六の帽子を作ったのが自慢)
から続く帽子屋さん。 
帽子屋一筋、自慢の腕ですが、最近歳をとりボケ気味。
おまけに注文も少なくなり帽子屋を続ける自信をなくしかけている。

東京に住む息子が心配して、警備会社と契約している。
春平さん担当の吾朗(玉山鉄二さん)は度々の呼び出しにチョッと迷惑気味。

ある日・・・
「母は全身に癌が転移して長くない
   口にしないが息子のあなたに会いたがっていると思う。」・・・と言う、
吾朗が落としていった手紙(写真も入っていた)を見てしまう。

驚く春平・・・
それは昔・妹のように可愛がっていた・・・世津(田中裕子)だと知る。
世津は母を原爆で亡くした体内被曝者でした。

間違いなく世津だと確信した春平が息子に会うのを口実に
吾朗を世津に会わせるべく
自分に付き添って東京に行ってほしいと・・・

母に捨てられたと思っている吾朗は
初めて・父から「母が体内被曝者であった為、身内からの虐めにあい
家を出るなら息子を置いていけといわれたという事実を知る。

吾朗は、半ば強引に春平に連れられて一緒に東京に・・・

探し当てた世津は意外にも、実に幸せそうに暮らしていた。

職人としての「誇り」を失いかけた春平に、世津は、
40年前・別れの折に春平から貰った箱に入った、小さな「水兵帽」を見せ
辛い時悲しい時は、この「帽子を」心の支えに生きて来たと言う。

・・・だから「ずっと帽子屋を死ぬまで続けて」と言う。

そして吾朗と世津の再会、この場面は二人のシルエットのみで表現。

帰りの車中で、馬頭したのか・・・と問う春平に
「会って良かった」「春平の相手を出来るだけで凄い」
「警備の仕は向いてる」・・・と言われたと語る吾朗。

結局彼女は3ヶ月で病死してしまうのですが、
春平も吾朗も生きる意義を再発見します。

中学の制帽の注文が大量に入って、大忙しの春平。
相変わらず「ハサミがない」と警備会社のベルを押す。
ハサミを探しながらも、以前と違って和やかな雰囲気の吾朗。


田中裕子さんの演じる余命3月と宣告された世津の出番は多く無かったのですが、
昔、自分がいじめに遭っていた頃に教えて貰った「生きる誇り」「の~んびり」を
逆に”春平さん”に諭す場面はジ~ンとするものがありました。

緒方拳さんの自然体・・・の演技の光る見応えのある作品でした。


お店のショップラス情報です。
http://www.shoplus-fukushima.com/modules/mxdirectory/singlelink.php?lid=532


 「古典雅楽と現代曲」コンサート

2009-02-08 12:32:58 | Weblog
三浦先生の事

 日本の伝統音楽を海外に発信している音楽団体
「ミュージック・フロム・ジャパン」の
</font三浦先生が数日前にご来店。
(参考までに http://www.nsc.co.jp/csr/music/prize/06.html)
音楽堂で古典雅楽の会があるので
聴きに来ないか・・・とのお誘いがありました。



ご招待のチケットを戴き・・・ 
昨日、音楽堂へ出向きました。


初めに、各楽器・曲の成り立ちのの説明がありました。
◆古典雅楽曲の「越殿楽(えてんらく)」
 「西王楽(さいおうらく)」・二拍と四拍が交互に繰り返される拍子の珍しい曲
   
◆現代曲(笹本武志さん作曲)の
   ♪雅楽3管による「夜香(やか)」

初めての生の音の響きに・・・つい・・・

じっと目をつむり聞き入ると
いにしえ人になった気分、そして街の風景までが浮かんできます。

笙の音はまさに・・・天へのつながりを感じる宇宙の声のようでした。

・・・なのでチョッと雅楽のページを覗いてみたところ

龍笛 - 空を舞い立ち昇る龍
篳篥 - 地にこだまする人の声
鳳笙 - 天からさしこむ光 ・・・とありました。


龍笛・・・笹本武志さん

http://www.waternet-sound.com/artist/sasamoto_takeshi.html
篳篥・・・中村仁美さん
http://www.gagaku.jp/hitomi-hichiriki/
笙・・・三浦礼美さん
http://music.geocities.jp/miu_remi/top.html 


 雅楽http://www.gagaku.net/


思いがけない、心に響く素晴らしい時間を戴いた・・・と言うご報告でした。

日々の事

2009-02-06 23:56:33 | Weblog
本日
  健康と歯・・・の関係・・・をチョッと

私たち人間の歯は・・・

  野菜などを噛み切る門歯(前歯)が「8本」

  肉や魚を食いちぎる犬歯(糸きり歯)が「2本」

  残りの「18本(親知らずも入れたら20本)」は全て・・・
        穀物や野菜などを磨り潰すための臼歯だそうです。


私は、健康診断のように毎年・・・歯の定期健診を受けていました。

ところが、ここ1~2年・・・気にはしながら健診を受けていませんでした。

・・・と言う訳で
    今・歯医者さんにかかっています。

チョッと虫歯になりかけていたのが1本
歯石をとって、後のお手入れをすれば終わりです。


驚いたことがあります。
丁寧に歯磨きをしているのに・・・下の歯ぐきが「ウズウズ」

先生曰く・・・「上の歯との噛み合わせが強すぎるのかも!」

・と言う訳で・下の歯を少し削りました。

するとどうでしょう・・・その症状は全く出なくなりました。

信じられない・・・嘘のような思いでした。


また、首の牽引で歯の噛み合わせが正常になったという経験もあります。


人間の体の「マカ不思議」はまだまだ経験している私ですが
本日は「歯」・・・のお話でした。



吾妻山の雪ウサギ・・・伝説

2009-02-05 15:33:58 | Weblog
今日・ある方のブログの記事で

  吾妻山の雪ウサギ伝説・・・のある事を知りました。(ゆうゆう大王さん、勝手に使用することをお許し下さい。)


福島に春を告げる

浄土平のすぐ近く、福島市内から見ると西部に位置する吾妻小富士。
この名前は福島市内から眺めた形が富士山に似ていることから呼ばれている。
早春、福島に桃の花が咲く頃・・・山の積雪も少しずつ解け始め
北方斜面に「種まきウサギ」又は「雪ウサギ」と呼ばれる雪形が残るようになる。

昔から地元の農民はこの「ウサギ」を見ることによって春の訪れを知り
苗代に種まきを始めたともいわれ、
現在では福島地方の早春のシンボルとして一般に親しまれている。

また、吾妻小富士の下の残雪がうさぎ形に見られる頃になると
晩霜の心配がないという福島市飯坂地区に伝わる天気ことわざもあって
吾妻小富士の麓にうさぎ形の残雪が見られるようになると
晩霜の心配はしなくとも良いと言う言い伝え。

これは吾妻小富士は海抜1700メートルくらいなので、雪が解け出すために
10℃以上の気温になったとすれば、福島市では20℃以上の気温になるためと言われています。


種まきウサギ伝説
  ① 雪ウサギ」が…昔、日照りが続いて困っていたとき
   トンビが可愛がっていたウサギを掴んで西へと飛んでいった。
   行き先を見れば吾妻山に雪うさぎが現れていた。
   そこで吾妻山に登り雨乞い祈願して戻ったところ、
   家の岩室より水が湧き出していた。
   この水を田に引いて種子を蒔くことができたので
   秋には豊作となった…こんな民話も語られています。


 
   ②昔、田沢村(現在の福島市蓬莱町田沢)の兎田(うさぎでん)に身なし子がいたど、
   山の奥さ小さな田畑を作って暮らしていた。
   ある日、山で親子の兎を拾って可愛がっていた。
  このころ、このあたりでは、日照りが続いて田植えができないひどい不作の年だった。
   村人は田沢の貝沼(皆沼)は、西山の雷沼(東屋沼)の底とつながっていて、
   吾妻権現がまつられていたので、ここで雨乞いしたが、さっぱりききめがなかった。
   そこで村人は山伏の先達(あんない)で大勢雨笠、蓑着て
  吾妻山さ登って雷沼に「雨たもんたれ龍王やーい」といったが、一粒の雨も降らなかった。

  身なし子も裏山さ登って拝んでいると、二羽のトンビが天高く飛んでいた。

   「トンビ ぴいひょろろ目まわしてみせろ」と言うと、
  トンビは急に谷へおりていって白いものをわしづかみにかっさらって西山の方さとんでいってしまったど。
  飛んでいった先をみると、たまげた。
  吾妻小富士の横はらに、親子うさぎの雪形がありありとあらわれていた。
  トンビにさらわれた親子うさぎは実は山神になっていたんだと。

  そこで小富士の神に「雨たもんたれ龍王やーい」
  ・・・と拝んで山を降りてみると、びっくりした。
  家の前の岩室から、水がこんこんわいて川さ流れていたど。
  「これはありがたい」と田んぼに水をひき、種をまいた。
  村人にも教えたら、秋になって村中、万年豊作になって、
  みんなも福しく(裕福)なり、その子は大きくなると長者様になったど。


それから、その田を「兎田」(うさぎでん)・・・と 
    吾妻山の雪形を「種まき兎」と呼ぶようになり

以来種まき、蚕の掃立(はきたて)の目安となって村は栄えもうしたど。
(福島市蓬莱町にある種まき兎伝説発祥の地・説明板より抜粋)

  ・・・とありました。