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♯1080 母語を引き継ぐ

2018年05月31日 | アート・文化


 神戸女学院大学名誉教授で思想家の内田樹(うちだ・たつる)氏のブログ(「内田樹の研究室」3月28日)に、氏が2年前に大阪府の国語科教員たちに向けて行った「母語の生成と機能」に関する講演録が掲載されていました。

 内田氏はこの講演の中で、古語辞典が一冊あれば誰でも古典文学(などの先人の残した記録)に容易にアクセスできる言語環境にある国は、東アジアの中でも日本だけだと指摘しています。

 氏は、多くの東アジアの国では、特殊な専門教育を受けたわけでもない一般人が古典を理解することは既に困難になっていると説明しています。

 例えばベトナムでは、それまで使われていた(漢字とベトナム語の万葉仮名的な表記法である)「チュノム」のハイブリッド言語が、17世紀以降の西洋文化の流入とともにアルファベット表記の「クオック・グー(國語)」に表記法を変えてしまった。

 その結果、欧米の言語と同じ表記となって便利にはなった一方で、市井の人々は漢字・チュノム混じりで書かれたテクストを読むことができなくなったということです。

 古典どころか、祖父母が書いた日記も手紙も読めないし寺院の扁額も何を書いてあるのかがわからない。利便性の代償として、ベトナム人は世代として2代前以前の自国文化のアーカイブへのアクセス権をほぼ失ったと氏はしています。

 果たして、それは間尺に合う取引だったのかどうか。ベトナムばかりでなく、フィリピンやマレーシア、シンガポール、インドネシアなど多くの東南アジアの国々で(国民のアイデンティティに関わる)同様の問題を抱えているということです。
 
 隣国、韓国でも事情は似ていると内田氏はこの講演で述べています。

 韓国では1970年代に漢字廃止政策が採択されたことは日本でも広く知られています。

 その理由の一つには日本の植民地時代に日本語使用を強制されたことに対する反発があり、さらに漢字は習得が難しいので、漢字の読み書きができる階層とできない階層の間で文化的格差が生じるリスクがあるということで、ハングルに一元化されたということです。

 確かに私の記憶でも、70年代までの韓国の新聞や街の看板などには「漢字」が多用されており、日本人にも(何が書いてあるのかが)何となくわかりました。しかし、現在のソウルの街は、アルファベットと(韓国人以外には記号にしか見えない)ハングルの〇や□に溢れていると言っても過言ではないでしょう。

 ハングルへの一元化によって、韓国の教育の平準化は確かに進んだと内田氏は評価しています。しかし、ベトナムの場合と同様、そこに先行世代と使用言語が違うという事態が生じたのもまた事実だということです。

 一世代前の人が書いたものが読めない。今の韓国の若者たちは、漢字は(本来は漢字に由来するはずの)自分の名前くらいしか書けないのが普通だと氏は言います。

 例えば、氏が韓国の学生と(韓国江原道に)五台山月精寺という名刹を訪ねた時、扁額の「五台山月精寺」という文字を読めた学生は一行の中にひとりもいなかった。中高年ならまだしも、40代くらいになると、それくらいの漢字でも読むことが難しくなっているのが韓国の実情だということです。

 日本では、「韓国の英語教育はすごい」とよく言われますが、確かにそこには「必然性」があると内田氏はしています。

 韓国は、表意文字である漢字を捨てて表音文字であるハングルしかない。日本で言えば、ひらがなだけで暮らしているようなものだということです。

 そうした状況で学術論文を全部ひらがなで書くという手間を考えたら、外来のテクニカルタームなどはそのまま原綴りで表記した方が圧倒的に効率的に決まっている。だから、漢字が使えない以上、英語への切り替えは必然的だったというのが韓国の言語環境に関する内田氏の認識です。

 しかし、一方で氏は、母語では学問的な文章を書くことができないというのは、やはり大きなハンディになるのではないかと考えています。

 自然科学なら英語で(そこそこは)行けるかも知れませんが、英語でやったのでは、韓国オリジナルな社会科学や人文科学は出てこない。というのも、文系の学問は母語のアーカイブの中で熟成するものだからだということです。

 今の韓国の学術的環境では、1970年以前になされた知的営為へのアクセスが日々困難なものになっていると内田氏は指摘しています。

 韓国では、先行世代がその言語的能力を振り絞って書いたテクストを読むことが難しくなっている。このことはいずれある時点で、韓国の次世代の知的生産性、知的創造性にとっての大きなハンディになるだろうと氏は予想しています。

 内田氏によれば、今、韓国の大学で一番人気のない学科は、韓国文学科と韓国語学科と韓国史学科だということです。

 多くの優秀な学生が、実学的な専門を修めてアメリカに留学して学位を取ろうとする。それは、そういう人たちが韓国のこれからのリーダーになることを意味していると氏は言います。

 しかし、自国の言語にも文学にも歴史にも、特段の関心がないという人たちに韓国のこれからの国のかたちを決めさせるというので本当に大丈夫なのか。有史以来、東アジアに花開いた朝鮮民族の素晴らしい文化アイデンティティが、ここ数年で過去のものとなり、やがて失われてしまうのではないかという懸念がそこにはあります。

 翻って、日本でも、文系の学問に対する風当たりが強くなっているのは事実でしょう。古典や漢文などは一体なんの意味があるんだ、そんなものになんの有用性もないというようなことを言う人たちが多くなっていると内田氏も指摘しています。

 それでも、母語のうちにこそ文化的な生産力の源はあるというのが、この講演における氏の主張の要諦です。

 二千年前からこの言葉を使ってきた全ての先人たちと、私たちは文化的に「地続き」の場所にいる。そして、日本の場合は、ありがたいことに、言語を政治的な理由で大きくいじらなかったので、700年前の人が書いた文章を辞書一冊あれば、誰でもすらすらと読むことができるということです。

 内田氏は、それがどれほど例外的で、どれほど特権的な言語状況であるのか、日本人は知らな過ぎると指摘しています。

 グローバリストたちは、もう古文や漢文なんかいいから、英語をやれと言う。でも、それは自国語で書かれた古典のアーカイブへのアクセスの機会を失うということを意味していることを、私たちは忘れてはいけないということです。

 「言葉」なんてシンプルなストックフレーズを使い回せばいいと思っている人間が、日本の場合、政官財メディアの指導層のほとんどを占めていると内田氏は言います。なので、(日本のリーダーたちの間に)「生きた言葉」を使える人がほとんどいなくなってしまったという、痛ましい現実があるというのが、日本の現状に関する氏の認識です。

 母語を受け継ぎ、子どもたちを生きた日本語の使い手にしていくことは、次の世代に自分たちの歴史や文化を預けるということだと内田氏は考えています。

 東アジアが地政学的に大きく動いている現在、子供たちに、日本の文化や日本人のものの考え方、そして社会そのものを引き受けてもらえるように支援していことこそ、親世代の責任なのではないかと指摘する内田井の視点を、私も大変興味深く受け止めたところです。


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♯1079 政策は誰がつくるのか

2018年05月30日 | 国際・政治


 安倍政権の主要政策と言えば、言わずも知れた「アベノミクス」です。

 そして、それを実現するための「三本の矢」と言えば、第2次安倍内閣発足当初は「大胆な金融政策 (つまり金融緩和により市中に回るお金を増やすこと)」と「機動的な財政政策 (財政出動=公共投資により景気を回復させること)」、そして「民間投資を喚起する成長戦略(規制緩和などにより既得権益を排除すること)」の3つとされていました。

 しかし、2014年9月には、「ローカル・アベノミクス」としての「地方創生」が、さらに2015年の9月には「希望を生み出す強い経済」「夢を紡ぐ子育て支援」「安心につながる社会保障」の3つの政策からなる「新・三本の矢」が追加され、混迷の様相が次第に呈されるようになります。

 アベノミクスの本来の目標であった2%のインフレの実現を見ないまま、(加えて)最近ではそこに「人づくり革命」や「働き方改革」などが新たに追加され、(前の三本の矢との関係など)既に何が何だかよくわからなくなってきているのが現実です。

 こうして(経産官僚を中心とした側近たちから)次々と繰り出される「看板政策」は政権の「やってる感」を巧みに演出してはいますが、その一方で肝心の日本が抱える財政悪化や社会保障の収支逼迫といった重大な構造問題には何ら手がついていないと感じるのは私だけではないでしょう。

 消費税の税率アップが既に二度にわたり見送られる中、財政支出の膨張に歯止めはかからず、金融緩和の出口も未だに見えてこない。

 首相の夫人などが絡む「森友・加計問題」などに終始する最近の国会論争などを見ていると、日本の現状を見据えた長期的な視点からの政策議論は一体、政府のどこで誰がやっているのかという疑問を持たざるを得ないのも事実です。

 (多くの人が感じている)こうした停滞感を踏まえ、3月18日の日経新聞(日曜版)の連載コラム「風見鶏」に、同紙政治部次長の桃井裕理氏が「だれが政策をつくるのか」と題する論評を寄せているのが目に留まりました。

 「官僚主導」か、それとも「政治主導」か。時代が投げかけるこうした問いは、実際、日本の長年の課題でもあったとこの論評で桃井氏は指摘しています。

 橋本政権や小泉政権による行政改革を経て、本格的に公務員制度改革に取り組んだのが安倍晋三首相であることは間違いないと氏は言います。そして、幹部人事を内閣人事局に集約し、かつてない強力な官邸主導を実現したのが現在の安倍政権の姿だということです。

 一方、かつて55年体制の下で完成した「官僚依存」からの脱却とともに、政治の側の政策立案能力の向上を目指す動きも(確かに)あったと桃井氏は言います。しかし、結局のところ政策立案で政治のリーダーシップは発揮されず、ただ霞が関が劣化した(だけの)ように見えるというのが、昨今の政策形成の有り様に関する氏の認識です。

 桃井氏はこの論評で、「霞が関の根本的な問題は公務員の専門性が軽視され『政治化』していることにある」とする明治大学院の田中秀明教授の指摘を引いています。

 例えば、政治主導で知られる英国や公務員制度改革を進めてきたオーストラリアでは、官僚には政策立案のために問題を分析し、偏りのない助言をする専門性が求められる。幹部は公募が基本で、能力や実績が評価され人事への政治の関与は(極力)抑えられているということです。

 翻って、霞が関の官僚は若い頃から政治家や関係業界への根回しに駆けずり回り、族議員との親しさや調整力(そして権力への巧みな忖度)ばかりが評価される傾向にあると氏は指摘しています。

 こうした中、強固な年功序列もあり既存秩序を壊さない政策や組織防衛が優先されるため、官邸が人事を掌握すれば、官僚はますます政治への忖度と猟官運動に励まざるを得ないのは必然だと桃井氏はしています。

 しかしその一方で、政治家が政策立案能力を磨く土壌も未だできていないと氏は言います。米国では上院議員なら1人に数十人の政策スタッフがつき、法案はすべて議員立法で提出される。英国では野党にも政策研究の予算が出るし、韓国では政党助成金の3割は政策研究に充てなければならない決まりがあるということです。

 併せて、多くの先進国には政策シンクタンクが多数存在し、場面場面で多様な政策提案を行っていることは広く知られています。

 米国であれば、ブルッキングスやヘリテージ財団、英国であれば国際戦略研究所など。政治家はこれらシンクタンクが示す選択肢を活用し、自らの政策を固めるのが一般的だということです。

 それでは、本邦では一体どのような仕組みの中から政策は生まれ、長期的な戦略の中に体系化されていくのか。

 さて、実際私も10代の半ばころまでは、実は(政治家とは別に)政府のどこかにIQ150位のものすごく頭の良い人たちが集まった組織があって、日本の未来に向けて様々な政策を考えているのではないかと漠然と考えていました。

 しかし、バブル経済やその崩壊、民主党への政権交代や失われた20年などの歳月を経て、それが現実ではないことは、高校生にも理解されるようになりました。

 そして、いくつもの政策が思い付きのように生まれては消えていく現在、政策は、誰かが作ってくれるものではなく、様々なセクターが「衆知」を募って作っていかなければならいものだと、国民も(いよいよ実感として)感じ始めているのではないでしょうか。

 桃井氏によれば、「経営の神様」と称される松下幸之助は、戦後の混乱する経済状況にあって「衆知を集める」という経営哲学を掲げたということです。

 安倍首相は今、「日本は国難に直面している」と訴えている。日本がそうした環境にあると本気で考えているのであれば、(政府には)一日も早く衆知を集め、この国難的な状況を乗り切る体制を作ってほしいと論評を結ぶ桃井氏の指摘を、私も重く受け止めたところです。
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♯1078 古い体質の組織はもう受け入れられない

2018年05月29日 | 日記・エッセイ・コラム


 アメリカンフットボールの試合での悪質なタックル問題で、当事者となった日大の対応に対する世論の批判が止まりません。

 メディアは、川に落ちた犬に石を投げつけるかのごとく「これでもか」と日大の会見対応の酷さをひとつひとつ論いますが、当の日大側はあまり堪えているように見えないことも、また不思議と言えば不思議な光景です。

 事件が大きく報道された後、何の反応も起こさない指導部の態度に業を煮やした(直接の加害者とされる)日大の学生は、単独で謝罪会見を行い反則行為が内田正人前監督と井上奨コーチの指示を受けてのものだったことを明らかにしました。

 その内容は、「1プレー目でクオーターバックをつぶせば(試合に)出してやる」「相手がけがをしたらこっちの得」といった(ある意味)衝撃的なものであり、聞いていた方も「これほどまでとは…」と半ば呆れるほどのショッキングなものでした。

 そして、「顔を出さない謝罪はない」と自ら語って(何十台という)メディアのカメラの放列の前で一人深々と頭を下げ、質問者の目を真っすぐに見ながら必死に言葉を選ぶその姿は、テレビを見ていた多くの国民に「真犯人は彼ではない」ことを確信させるだけのものがありました。

 一方、その後(「しぶしぶ」という感じで)行われた日大アメフト部を中心とした記者会見では、内田監督らはそろって反則行為への関与や指示を全否定しました。

 「“つぶせ”という言葉は、けがをさせる意味で言ったわけではない」「いつもと違うプレーをしてほしかったが、けがをさせる目的では言っていない」と、その意図したところは(少なくとも)選手が受け止めたものとはかけ離れたものだという主張です。

 世論は、こうした日大指導部側の態度に(卑怯な)「逃げ」の姿勢を見たのでしょう。あるいは、問題の所在を学生の誤解や独断と決めつけ、自らの責任を回避する大人の「汚さ」と言ってもよいかもしれません。

 さらに、そこに記者会見の司会を行った(共同通信の元敏腕記者とされる)広報責任者の対応の拙さなども加わって、事態はさらに(火に油を注ぐかのような)格好の話題をメディアに提供する形になりました。

 思えば、監督やコーチ、広報担当者や理事長など、大学サイドの関係者として登場して来る人物は、皆なかなかに個性的です。それぞれが、古き良き(そして少し暑苦しい)「大学体育会」の親分子分の関係を絵に描いたような雰囲気を持っていることに、意外な共通性を感じるのは私だけではないでしょう。

 確かに、大学の体育会は基本的に上下の関係が極めて厳しく、(たとえ多少の暴力や理不尽さがあっても)監督やコーチ、OBや先輩などに対する服従の精神を厳しく要求することも多いと聞きます。

 テレビの前の人々は、あの(「強引」な)会見の中にそうした(ある種)暴力的な組織が持つ「匂い」のようなものを嗅ぎ取り、抵抗感を強めたのかもしれません。

 それにしても、今回の騒動で学生の就職活動に支障が出ているとの報道までなされる中、日大はなぜ(依然として)監督を守る姿勢を崩さないのか。

 その後の「週刊文春」誌によれば、アメフト部の内田監督は日大の常務理事で、同大経営陣では田中英寿理事長に次ぐ実力者だったということです。田中理事長は同大相撲部出身で「アマ相撲界のドン」として知られており、田中氏は「内田氏を次期理事長、自分は名誉理事長として院政を敷く青写真を描いていた」と記事は伝えています。

 事の真偽はわかりませんが、少なくとも今回の事件の一連の経緯からは、日大の組織の中にそうした(表に出てこない)力関係や裏のルールが存在していることをうかがわせる何かがあるような気もします。

 さて、ことスポーツの分野に限らず、現代社会のプレーヤーには何よりも(公開されている)ルールに基づきフェアであることが求められるようになっています。

 そうした中、今回の問題にあっては、世間の目はラフプレーを行った選手の行為はもちろん(問題)ですが、むしろ結果のためならルールを無視し、場合によってはプレーヤーにルール破りを強制することもいとわないリーダーや組織の在り方に向いているように思われます。

 世論は、今回の日大側の対応に、組織としての倫理観の欠如ばかりでなく、組織の暴力性や強権的な体質(の匂い)を感じ取り、反省の色を見せないその傲慢さに苛立ちを募らせているのではないかと感じるところです。

 また、その組織内にはびこる(権力者に忖度するような)内向きの論理は、今国会で話題となっている「森友・加計問題」にも通じるものがあるような印象を持つ向きもあるでしょう。

 現代の日本人がこうした古い感覚に敏感に反応するようになったのは、力関係を忖度しなければ何も動かない組織の体質に、「もう十分だ」「いい加減にしてくれ」と拒絶反応を起こしていることの表れなのかもしれないと、今回の問題から(ふと)考えたところです。

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♯1077 アリ社会とダイバーシティ

2018年05月28日 | 社会・経済


 ダイバーシティが組織に与える影響(←「♯1076ダイバーシティのメリット」参照)に関する資料につらつらと当たっていところ、経営コンサルタント会社「アイディール・リーダーズ」代表取締役CEOの川本裕二氏が 3月26日のJBpressに寄せていた、「働かない働きアリが組織に必要な深いワケ」題するレポートが目に留まりました。

 「働きアリ」はその名前の通り、アリのコロニー(巣)の中で餌を採取してきたり卵の世話をしたりと、巣の外や中での様々な仕事をする役割を持つアリを指す言葉です。

 「働き」アリという名前が付いているぐらいですから、さぞかし働き者なのだろうと思いますが、実はアリのコロニーには「働かない働きアリ」がたくさんいると川本氏はこのレポートに記しています。

 氏はこのレポートで、(アリの巣穴観察セットなどで)アリのコロニーをじっくり観察してみると、大体7割の働きアリは、目的もなくフラフラしているのが判るとしています。自分の体を舐めているとかじっとして動かないとか、少なくとも彼らが働いていない(その素振りすら見せていない)のは確かだということです。

 1カ月間継続的に観察した人によれば、その間ほぼ何もしない働きアリが2割もいたということで、中には1~2年と言われる寿命の中で、生まれてから死ぬまでほとんど働かない強者もいるそうです。

 一方、氏によれば、活動時間のおよそ9割を「労働」に割いている(本当の意味での)働きアリも存在しているということです。

 同じアリにもかかわらず、なぜこのような違いが生まれるのか?アリは思考能力を持たないので、人間のように「バレなさそうだから手を抜いておこう」と考えているわけではなさそうだと氏はしています。

 さて、氏のレポートによれば、アリの生態を研究している北海道大学大学准教授の長谷川英祐氏の研究から、働くアリと働かないアリの違いはズバリ「腰の重さ」にあることがわかったということです。

 例えば、餌が見つかった際などの特定の刺激に対して、反応しやすい(腰が軽い)アリとしにくい(腰が重い)アリがいる。アリは個体ごとにこうした違いを(遺伝的に)持っていて、これを専門的には「反応閾値(はんのうしきいち)」と呼んでいるのだそうです。

 彼らの前に何らかの仕事が現れた時には、まず最も反応閾値が低い(腰が軽い)アリが動き出し、次の仕事が現れた時には次に閾値が低いアリが動くというかたちで仕事の分担がなされることになる。

 そのため、一定量以上に仕事が増えないかぎり、閾値が高い(腰が重い)アリは、いつまでたってもふらふらしたり、自分の体を舐めていたりしているということが起きているということです。

 ちょっと考えると、全ての働きアリが(一生懸命に)働いた方がコロニーの方が繁栄しそうな気もしますが、一見すると非効率に見えるこのようなアリの社会生態について川本氏は、(弱肉強食の世界における)生存戦略としては理にかなっていると説明しています。

 実際、全員が「働き過ぎの働きアリ」だと、種が存続していく上では不都合なことが起こると氏は指摘しています。

 例えば、全てのアリの反応閾値が同じだった場合、餌が発見されたら一斉にみんなでワーっと出て行ってしまう。すると次の餌が発見された時には(巣穴は空っぽで)対応できなくなるし、誰もいない間に外敵が現れるなんてことだってあるかも知れません。

 また、川本氏によれば、これまでの研究によってアリにも「過労死」があることが認められているということです。

 そうだとすれば、(何かがあって)全員が働き過ぎると、一気に働き手が死んでしまって気が付けば女王アリ独りといった事態も生じる可能性がある。もし、自分がそんな習性を持つアリの女王アリだったとしたら、(そんな部下たちが)心細すぎて夜も眠れないだろうと氏は言います。

 さらに氏は、実は反応の鈍い働きアリも、全ての刺激に反応しにくいわけではなかったりするとしています。

 実は、「餌の発見」という刺激には反応しにくいアリでも、「敵襲来」という刺激や「巣壊れた」「卵壊れた」といった別の刺激には反応しやすかったりするのだということです。

 つまり、反応閾値の違いは優劣ではなく個性・個体差であるいうこと。多様な個性・個体差がある(ダイバーシティがある)からこそ、状況や環境の様々な変化に適応し、種として存続する確率を高めることができているというのが、(進化の過程でアリが身に着けた)生存戦略に関する川本氏の認識です。

 さて、結局、こうしたことから言えるのは、「多様性は組織が生き残る確率を高める」ということに尽きると、このレポートで川本氏は説明しています。

 ダイバーシティ(多様性)のない一様な組織は、一時期的に繁栄することはできたとしても、急激な環境変化が起こった際には一気に崩壊する危険性が高まってしまう。

 企業などがマネジメントを行う際、業績へのプレッシャーからどうしても短期的な成果に結び付く特定の価値基準だけで人を評価判断しがちになりますが、その結果、組織から多様性が徐々に奪われ、長期的には生き残る確率が下がってしまう危険性を孕んでいるということです。

 そうしたことを考えれば、もしも、10年、20年、さらには100年と長く栄え続ける会社を創ろうとするのであれば、多様な価値基準を持ち、多様な人が活かされる組織にすることが重要なのは明らかです。

 アリ社会を見つめれば(嫌も応もなく)ダイバーシティの大切さが見えてくるとする川本氏の指摘を、私もこのレポートから興味深く受け止めたところです。


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♯1076 ダイバーシティのメリット

2018年05月27日 | 社会・経済


 日本の高度経済成長を支えてきた「長時間労働」の悪弊から脱却するべく、国を挙げた「働き方改革」が叫ばれています。

 「働きすぎは悪」とされ、「ワーク・ライフ・バランス」の確保などが強く求められる中、一方で、独立行政法人労働政策研究・研修機構が作成している「データブック国際労働比較2016」を見ると、2014年の週労働時間(製造業)で日本人はG7(先進7ヵ国)の中で労働時間がかなり短いほうであることもわかります。

 厚生労働省が調べた日本の週労働時間(製造業)は37.7時間。調査対象に各国で若干のバラツキはありますが、米国の42時間や英国の41.4時間、ドイツの40時間より少なく、フランスの37.8時間、カナダの37.1時間と変わらない水準にあるとされています。

 思えば、バブル直後には2000時間を超えていた日本人の年間総実労働時間について、内外から「日本人は働き過ぎ」との強い批判を受けていました。

 さらに、景気の低迷から来る人件費削減の必要も相まって(まずは1800時間を目標にと)労使協調して努力を続けてきた結果、2014年の労働時間は既に1729時間にまで減少している(OECD調べ)ということでしょう。

 一方、政府は現在でも、「日本人は働きすぎ」だと主張し、繁忙期の残業時間を月100時間未満にするなど長時間労働の規制を含む「働き方改革」を推進しようとしています。

 安倍晋三首相は昨年9月の「働き方改革実現推進室」の開所式で、「モーレツ社員の考え方が否定される日本にしていきたい」と明言しています。

 また今年、3月1日の記者会見において働き方改革関連法案等について問われ、「働き方改革は極めて重要。提出する法案においては、まず働き過ぎ、長時間労働の慣行を断ち切るために、時間外労働の罰則付きの上限規制を行いたい。」と話していたのが印象的でした。

 さて、これまでの日本人の「働き方」の何が問題だったかと言えば、皆が同じ方向を向き同じように(がむしゃらに)働いてきたこと、また、それが前提の社会であったことなどではないかと思います。

 今思えば、誰しも仕事に打ち込むべき時はあるし、生活に重きを置くべきときもあるでしょう。年がら年中残業をしているのではなくて、メリハリをつけた仕事の仕方というのがあるはずです。

 効率よく仕事をして、休むべき時は休む。また、生活を重視して一生をのんびり過ごしたい人もいれば、人と競争しながら少しでも前へ進みたい人もいるということです。

 世の中には、男・女性別や身体的特徴、さらには(仕事に対する)ものの考え方なども含めいろいろな人がいるのは言うまでもありません。

 近頃「ダイバーシティ」という言葉をよく耳にしますが、(労働時間の削減を一様に迫るばかりでなく)多様性を尊重して個人を生かすことのできる社会こそが、これからの日本が目指すべき姿ではないかと改めて感じるところです。

 20世紀の経済理論では、(基本的に)利益追求という一つの目的を目指す企業にとって「均一性」の高い組織ほど効率的とされ、様々な労働者の個性を認める「多様性」の高い組織では生産効率が損なわれると考えられてきました。

 しかし、最近の研究によると、個人や集団間に存在するさまざまな違い、すなわち「多様性」を競争優位の源泉として生かすダイバーシティ・マネジメントは、その柔軟性や環境の変化への対応力から企業の売り上げや発展に貢献し、競争力の源泉となるという考えに変わりつつあるようです。

 海外企業がダイバーシティの推進に積極的なのは、多様性が(経験的に)ビジネスでの競争優位性をもたらしてくれることが判ってきているからと言えるでしょう。

 ダイバーシティを効果的に進めた企業では、実際に多様な社員の違いを戦略的に活かすことで企業の競争力強化につなげた事例が数多く見られるということです。

 ダイバーシティが企業へもたらすメリットはいくつも考えられますが、最近では主として次の三つが挙げられることが多いようです。

 ひとつは「優秀な人材の確保と活用」というものです。

 21世紀の高度情報化社会では、企業パフォーマンス向上に大きく貢献してくれる高度な知識とスキルを持つ優秀な人材が常に求められ、世界レベルで有能な人材の争奪戦が起こっているのは事実です。

 そうした中、優秀で多様な人材にとって、ダイバーシティを真剣に取り組む企業は魅力的に映り、そのような人材が集まって来るということです。

 二つ目のメリットとしては、「現場での有利性の向上」が挙げられます。

 消費者のニーズが多様化する現代社会でダイバーシティが重要視されるのは、多様な社員がいれば、多様な顧客ニーズや要求に対して、営業、マーケティングや商品開発などで、迅速かつ的確に対応できるから。

 同じような年代、性別、学歴、そして価値観の人間ばかりが集まってマーケティングを考えても、社会が求める商品やサービスはつかみきれないということでしょう。

 さらに、三つ目のダイバーシティのメリットとして、「創造性や革新性の向上」を挙げる人も多いようです。

 創造性や革新性は、異なる視点や経験、立場、アイデアなどが刺激し合いその相乗効果の中から生まれることが多いと考えられます。同じような経歴の同じような考え方のオジサンたちが何人集まっても、そこからは同じような発想しか生まれないということでしょう。

 また、多様な考え方を内包する組織では、変化が激しく不確実な経済環境に柔軟に対応することも可能になると考えられています。

 実際米国のシリコンバレーでは、研究者やエンジニアたちの過半数以上が外国生まれという職場も少なくなく、そのような多様な人材の集まりから、今までにない多くの斬新的な製品やサービスが生み出されているということです。

 「ダイバーシティ」と言えば、ともすれば「いろいろな人がストレス無く生きられる社会」の実現という意味で、人権や福祉の問題として捉えられることも多いようです。

 しかし、この考え方自体、実は組織や社会を活性化させ具体的に大きなメリットを与えるものであることを、もう一度思い出してみる必要がありそうです。


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♯1075 動き出すシェアリングエコノミー

2018年05月25日 | 社会・経済


 住宅宿泊事業法(民泊新法)が6月15日に施行され、自宅の空き部屋などを旅行者に有料で貸し出す「民泊」がいよいよ本格的に解禁されます。

 新法は、民泊を営む事業者に対し自治体への届け出を義務づけており、安全管理や宿泊者名簿の作成などを求めています。

 このため、民泊のプラットフォーマー最大手のAirbnb(エア・ビーアンドビー)Japanでは、6月15日以降、ホームページに掲載されるすべてのリスティングにおいて民泊新法の届出番号、旅館業の営業許可、その他許認可を義務付けるとしており、届出番号などが確認できない場合は非掲載とする方針を発表しています。

 また、シェアリングエコノミーの本格的な幕開けとなる新法の施行を目前に、株式市場においても民泊関連銘柄への資金の流入が活発化しているということです。

 例えば、業界ナンバーワンの不動産情報検索サイト「ホームズ」を運営する東証1部上場の「LIFULL」では、国内で圧倒的な会員数を誇る楽天グループの基盤を活用し民泊市場の開拓を目指すとして市場の注目を集めています。

 また、ジャスダック上場の総合不動産デベロッパー「プロパスト」は、投資用不動産販売・管理のシノケングループと業務提携した民泊プロジェクトを立ち上げ話題を呼んでいます。

 さて、新法の施行に伴い生まれる新しいマーケットへの期待感からこうして沸き立つ関係業界ですが、先日、保険業界におけるシェアリングエコノミー普及の本格化にむけた取り組みの状況を、損保ジャパン日本興和㈱の企画開発部の方からうかがう機会がありました。

 改めて説明するまでもなく、現在、話題となっている「シェアリングエコノミー」とは、事業者が持つ遊休資産をインターネット上のプラットフォームを介して個人間で共有したり、交換したりして利用する経済の仕組みを指すものです。

 その領域としては、例えば土地や家などの空間であったり、道具や洋服などのモノであったり、自動車や自転車などの移動(配達)手段であったり、家事やITスキルなどの人材などであったりするほか、クラウドファンディングによる資金調達などを含む場合もあるようです。

 現在、こうした(シェアリングエコノミーの)のマーケットは急速に拡大しており、矢野経済研究所の推計によると2016年に503億円であった国内の市場規模は、2021年度には1071億円にまで拡大すると予測されています。

 勿論、国内ばかりでなく、シェアリングエコノミーの広がりは先進国をはじめとした世界各国に及んでいますが、サービス業態への規制が強くまた保守的な消費者が多いとされる日本では、諸外国に比べて普及が遅れているとの指摘もあります。

 そうした中、損保ジャパンでは、日本におけるシェアリングエコノミーの普及を阻害する要因の一つとして(事業者や消費者の間に)「事故やトラブルへの対応についての不安」が大きいことを挙げています。2016年の調査では(阻害要因として)この種の不安を挙げた人は米・英で概ね3割だったのに対し、日本では半数を超えていたということです。

 こうした状況を受け、政府ではシェアリングエコノミーの普及に対応する制度面での体制づくりに努めています。

 今回の民泊新法もその一つですが、新しいビジネスモデルの導入に当たりグレーゾーンとなっている部分を整理し制度を整えることによって、事業者やプラットフォーマー、さらには事業活動を受け入れる自治体などの不安を解消しようというものです。

 しかし、そうした制度面での補強だけで、シェアリングエコノミーへの心配が払しょくされたり、安定的な運営が確保されたりするものではありません。そこで、損保ジャパンを含めた損保業界では、そこに保険業務の(新しい)マーケットがあると見ているということです。

 基本的に、「リスク」と「保険」の間には高い親和性があると担当者は話しています。シェアリングエコノミーの導入によって発生する新しいリスクに対応した保険商品を提案し普及させることで、シェアリングエコノミーのプラットフォーマーや提供者、利用者の安心や安定的な利益の確保を担保できると考えているということです。

 損保ジャパンでは、既にそうした観点からAirbnb社との包括連携協定を締結し、苦情対応などのほか貸し手がこうむる可能性のある損害に対する保険商品の提案を行っているということです。

 さらに、メルカリ社が提供する自転車シェア事業「メルチャリ」に関しても、同社と協定を結び、安心安全なサービス提供にむけたモデルの構築に取り組んでいるとしています。

 さて、プラットフォーマーが核となって需要と供給をつなぐシェアリングエコノミーの市場は、(おそらく)今後も拡大の一途を辿ることでしょう。

 一方、マーケットの拡大によって生じるリスクやコストは、シェアされるコト・モノの利用者や提供者ばかりでなく、周辺の第三者や社会そのものに及ぶ可能性もあると考えられます。

 例えば、民泊であれば周辺地域の治安の悪化や環境の悪化による資産価値の低下、ライドシェアであれば交通渋滞の増加や事故の増加などもあるかもしれません。

 こうした(ある意味副次的な)コストを社会全体で負担していくことが果たして適切なのか。もしそうでなければ、誰が、どのような形で担っていくのか。

 規制によって参入のハードルを高くしていくことは簡単ですが、「規制緩和」の動きの中でそれがベストな「解」とも思えません。

 シェアリングエコノミーの在り方を研究する中で、こうしたリスクヘッジのシステムについてもさらに知恵を絞っていく必要があるのではないかと、今回の話を聞きながら私も改めて考えたところです。


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♯1074 「食べてはいけない」は本当か?

2018年05月24日 | うんちく・小ネタ


 「週刊新潮」の5月24日号が、国内で販売されている(国産)食品の健康リスクについて「食べてはいけない『国産食品』実名リスト」と題する特集を組み、話題となっているようです。

 記事では、(今の日本では「食品添加物など気にし始めたら食べるものがなくなる」としつつも)『なにを食べたらいいの?』(新潮文庫)の著者である加工食品診断士協会代表理事の安部司(あべ・つかさ)氏への取材をもとに、「危険食品(実名)リスト」なるものを公表しています。

 そこにリストアップされている商品には、例えばエースコックの「スーパーカップ1.5倍ブタキムチラーメン」があります。

 このカップラーメンには、食塩相当量が9.4グラム含まれていて、1つ食べるだけで厚生労働省の示した塩分の摂取基準(男性8g、女性7g)を超えてしまう。添加物によって味をまろやかにしているので多少しょっぱくても(おいしく)食べられるけれど、実は「旨味成分」として添加されているグルタミン酸はマウス実験で神経への影響が判明していて、アメリカで販売されているカップヌードルには「MSG(グルタミン酸ナトリウム)フリー」がうたわれているほどだと説明されています。

 グルタミン酸ナトリウムと言えばサトウキビなどから作られる「味の素」の主成分として知られています。(おせんべいの)ハッピーターンの「ハッピーパウダー」は、グルタミン酸ナトリウムに食塩、たんぱく質、加水分解物に砂糖を加えたものであり、人によっては知らずのうちに大量に摂取している可能性があるということです。

 また、ハムやウインナーなどの加工肉食品などに主に発色剤として添加されている亜硝酸ナトリウムには、「メトヘモグロピン血症」や「発がん性物質」であるニトロソ化合物の生成に関与する恐れがあることが一部で指摘されていると記事はしています。

 同様に、保存料として添加されているソルビン酸やソルビン酸カリウムには接触性蕁麻疹を起こすとの報告があり、乳酸に特に過敏な人には過敏性反応がでる可能性もあるということです。

 さらに、加工肉の肉質を保つために使われるリン酸塩は、過剰摂取すると成人病や腎臓疾患などの影響が出ることがあり、これらの添加物が組み合わされると「相乗毒性」で骨粗しょう症や高血圧になるリスクが上がるうえ、うつ病の発症リスクも高まる可能性があると記事はしています。

 記事の指摘はこれにとどまらず、例えば「サラダチキン」には腎臓疾患を招く危険性があるとか、チョコレートには主として虚血性心疾患のリスクを高める胡乱なトランス脂肪酸が多く含まれるとか、「カップ焼きそば」1個で「油分摂取基準」をオーバーするなど、健康にリスクのある商品がこれでもかと並べられています。

 これでは、本当に「何を食べたら…」という感じなのですが、こうした(ある意味)センセーショナルに食品添加物の危険性を煽り立てる今回の週刊文春の記事に対し、獣医師で「NPO法人食の安全と安心を科学する会(SFSS)」理事長の山崎 毅 氏が、同法人のHPに「週刊新潮さん、リスク学/栄養学を勉強してから記事にしませんか?」と題する興味深い論考を掲載しているので、紹介しておきたいと思います。

 氏はこのレポートにおいて、(単に食品業界の裏事情に詳しいからという理由だけで)消費者の不安を煽る非科学的書籍を出版している方々を「専門家」と取材源としているのであれば、「週刊新潮さん、大丈夫?」と言いたいと、厳しく「新潮」の取材姿勢を非難しています。

 例えば、記事では「亜硝酸Na(ソーセージ類・ハム類などに使用される食品添加物)は劇物指定を受けている物質です」「そのADI値(1日許容摂取量)は体重30kgの子供の場合2mg、ウインナーに換算すると30gでたった2本分ほどです」「亜硝酸Naとソルビン酸の組み合わせには相乗毒性があることがわかっている」などと書かれている。

 確かに「亜硝酸Na」は劇物指定されているが、それは暴露量が大きい場合に死亡する可能性があるからであり、食塩でも大量に摂取すれば死亡する。毒か安全かは摂取する量で決まるものであり、実際、「亜硝酸Na」や「ソルビン酸」は天然の植物や野菜にも含まれている物質だと山崎氏は説明しています。

 これらについては食品添加物として一定基準内の微量を使用することを厚生労働省が認可しており、古くから加工肉製造の際の「塩せき」に食塩とともに使用されていると氏は言います。加工肉製品でもっとも懸念されるリスクは、ボツリヌスによる食中毒であり、その死亡リスクを最大限下げたいがために、発色剤の亜硝酸Naや保存料のソルビン酸の使用が許されているということです。

 こうしたことは、食品安全・衛生上の基本であり、いわゆる「リスクのトレードオフ」を十分理解している方なら、食品添加物自体の健康リスクと食品添加物による食中毒のリスク低減効果のどちらが優先されるべきかは自明なはずだと氏は言います。

 今回、記事に(「危険」として)リストアップされた商品に配合されている「亜硝酸Na」や「ソルビン酸」の安全性は摂取量の観点から評価するとまったく健康影響の心配はなく、「劇物指定」「毒」などという用語により消費者の恐怖や不安を煽るのは当該商品の信用を著しく毀損する悪質な行為だということです。

 また、「インスタント麺の問題」として挙げられている食塩摂取量や脂質の摂取量の問題についても、氏は記事の書きぶりを(消費者の誤解を生むものとして)非難しています。

 山崎氏によれば、当該カップ麺の食品ラベルに記された栄養成分表示を見る限り、問題とされている食塩相当量・脂質量・グルタミン酸Naが当該製品に含まれることは事実だということです。ただし、これがヒトの生体に悪影響を及ぼすか否かについては、(こちらも)あくまで摂取量に依存すると氏は言います。

 まず食塩相当量と脂質量に関しては、カップ麺のスープを飲み干さなければ全量を摂取することにならない。また、「日本人の食事摂取基準(2015年版)」で規定している食塩相当量と脂質量はあくまで日ごろの食事摂取における「目標量」に過ぎず、血圧や血中脂質が高めで医師からの指示を受けている方でない限り、一時的にこの数値を超えたとしても(直ちに)健康への悪影響をもたらすようなものではないことを指摘しておきたいということです。

 また、記事では、グルタミン酸ナトリウム(MSG)について「アメリカなどではこれを摂取しないようにする風潮が広まっている」「マウス実験では神経への影響があることが判明している」とされていますが、山崎氏は、マウス実験での神経への影響を示唆する実験結果認められず頭痛や味覚障害が起こるとする言説は都市伝説である可能性が高いと説明しています。

 さて、こうして指摘の一つ一つを精査していくとわかるのは、結局、私たちが口に入れるすべてのモノには一定のリスクがあるということです。

 塩分も糖分も油脂も、そして水でさえ摂取しすぎれば人を殺すことすらある。一つはその程度問題であり、多量なら危険なものでも適量であれば問題ない(もしくは身体にメリットがある)場合がほとんどだということです。

 また、食品添加物など、たとえそれを摂取することに一定のリスクがあっても、その効用がリスクを上回れば必要な範囲において添加すべきなのは当然と言えば当然です。化学物質はあくまで化学物質であり、それが人工の物だから危険で自然のものだから安全だというような区別はありません。

 オーガニックを嗜好し、食品添加物はできるだけ摂りたくないと考える人がいるのは十分に理解できます。しかし、不確かな情報を基に(半ば確信犯的に)消費者の不安を煽る今回の記事の姿勢には、(山崎氏ではありませんが)私も確かに違和感を禁じえません。

 こと食品の安全性に関しては、これはいい、これはダメといった単純な判定は不可能であることを肝に銘じ、定量と比較のなかで総合的なリスクの大きさを把握する姿勢が重要であることを、私も氏の指摘から改めて感じたところです。


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♯1073 高齢者の高齢化

2018年05月22日 | 社会・経済


 内閣府が発表した「平成29年版高齢者白書」によると、日本における65歳以上の高齢者人口は3,459万人で、総人口(2016年10月1日現在)1億2,693万人に占める割合(高齢化率)は27.3%と、既に4人に1人を大きく超えています。

 いわゆる「団塊の世代」(昭和22(1947)~24(1949)年に生まれた人)が65歳以上となった2015年には3,387万人となり、その後も増加傾向をたどっているということです。

 なお、これを男女別にみると男性は約1,500万人、女性は1,959万人で、性比(女性人口100人に対する男性人口)は76.6と平均寿命の長い女性の方が3割近く多いことが判ります。

 高齢者人口自体は、(グロスでは)今後2042年に3,935万人でピークを打ち、その後は減少に転じると考えられていますが、総人口が急激に減少する中、高齢化率は引き続き上昇していくと推計されているところです。

 具体的には、今からおよそ50年後の2065年には高齢化率は38.4%に達し、約2.6人に1人が65歳以上となる見込みです。

 一方これは、2015年現在、高齢者1人に対して現役世代(15~64歳)2.3人で支えている(「駕籠かき」状態の)社会保障が、およそ半世紀後の2065年には、高齢者1人に対して現役世代1.3人という、まさに「肩車」状態になるということを示しています。

 日本の高齢化に関してさらに特徴的なことは、「団塊の世代」が年齢別の人口構成に大きく影響を与えていることが挙げられます。

 実際、現在69~71歳となった1947~1949年生まれの(狭義の)団塊の世代だけでも、その出生数は毎年260万人を超えており、3年間の出生数は約806万人と、その後3年間の約648万人に比べて24.3%も多いものとなっています。

 現存する人口でみても、この世代は約678万人(2005年国勢調査)で全人口の約5.3%を占めており、さらにこれに続く3年間に生まれた人たちも加えた(広義の)団塊の世代では、実に約1084万人、人口比で8.5%を占めるなど、その特別なボリューム感が判ります。

 こうした状況を背景に、3月18日の日本経済新聞には『「重老齢社会」が来る』とのタイトルを冠された興味深い記事が掲載されていました。

 記事によれば、我が国の75歳以上の後期高齢者人口は、間もなく65~74歳の前期高齢者を上回るということです。高齢者の半数以上が75歳以上という(高齢者の高齢化による)「重老齢社会」が訪れ、日本の高齢化が新たな局面に入ると記事は指摘しています。

 定年退職後も元気なアクティブシニアが活躍する構図は次第に薄まり、今後は寝たきりや認知症など身体的な衰えが強まりがちな後期高齢者が急増する。高齢者をどう支えるのかが、社会にとってより深刻に問われる時代がやって来るということです。

 さて、現在の日本では医療の発展などにより65歳を超えても元気な高齢者は多いのは、私たちの周囲を見ればわかることです。個人消費の約半分は60歳以上の高齢者が占めており、中でも豊富な資産を持ち、積極的に旅行に出かけたり趣味に打ち込んだりするアクティブシニアは、むしろ個人消費のけん引役にもなっているようにも感じられます。

 一方、総務省の人口推計によると、現在、75歳以上の後期高齢者は平均月3万人ペースで増加しており、早ければ近く発表される3月1日時点の推計で前期高齢者を上回る可能性があると記事は説明しています。

 記事は、そうした過程で大きく変わっていくのが「介護」の問題だと指摘しています。

 前期高齢者で要介護認定されている人はおよそ3%に過ぎませんが、後期高齢者になるとこれが23%に跳ね上がる。高齢者が高齢者を介護する「老々介護」は、75歳以上になると自宅介護の3割を占めるようになるということです。

 また、(そうした「福祉」の問題ばかりでなく)加齢と共に増加する認知症患者の急増は、日本経済を回すお金の流れにも大きな影響を与える可能性があると記事は指摘しています。

 最近の研究によると、認知症と診断される人は60代後半で約2%、70代前半でも約5%なのに対し、70代後半になると約10%と急激に増加することが判っているということです。

 現在でも、株式などの有価証券の多くは70歳以上が保有しており、高齢化により持ち主が認知症などになれば、そうした資産運用が凍結される可能性が高いと記事はしています。

 2035年には最大150兆円の有価証券を認知症の高齢者が保有するようになるという試算もあることから、(市場関係者の間では)「生きたお金が回らなくなれば金融面からの成長が止まる」と懸念する声も既に上がっているということです。

 記事によれば、財政の持続性などを研究する慶応義塾大学の小林慶一郎教授は「これからは高齢者を支える負担が増す『重老齢社会』といえる局面に入る。金融や働き方、財政など様々な分野で社会課題からイノベーションを生み出す工夫が要る」と指摘しているということです。

 これまで社会を支えてきた大勢の後期高齢者が、近い将来(恐らくは不動産や金融資産を抱えたまま)人生の最終段階を迎えることになるでしょう。

 そうした際に思わぬ混乱が起きないよう、(今のうちから想像力を働かせ)後見制度の整備や相続など、制度面からの十分な準備をしておく必要があるとするこの記事の指摘を、私も興味深く読んだところです。


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♯1072 洞窟壁画の芸術性

2018年05月21日 | アート・文化


 NPO法人オール・アバウト・サイエンスジャパン代表理事の西川伸一氏が5月19日のYahoo newsに「自閉症の考古学」と題する興味深い論考を寄せています。

 西川氏はこの論評において、英国のヨーク大学で考古学教室の講師を務める女性研究者Penny Spikinsさんの、石器時代の遺物を通して現代の自閉症スペクトラム(ASD)の人たちを考察する最近の研究論文を紹介しています。

 氏によれば、Spikinsさんは自閉症をNeurodiversity(神経の多様性)と捉える最新の視点をさらに進め、自閉症傾向こそ人類の進化に欠かせない重要な性質として積極的に捉えるべきだという主張を展開しているということです。

 なぜ社会性に問題があるとされる自閉症が、今も淘汰されず1-2%という高い頻度で存在しているのか?

 この問いに対してSpikinsさんは、「自閉症的傾向を持つ人材は、一つのタイプとして社会に必要とされ尊敬されてきたことで、淘汰されることはなかった」という結論を導いていると西川氏はしています。

 Spikinsさんが今年オープンアクセスの雑誌Open Archeologyに発表した論文「ヨーロッパの旧石器時代の美術に見られる自閉症的特徴をどう説明すればいいのか」(262-279, 2018)では、アスペルガー症候群などの多くの自閉症スペクトラム(ASD)の子供達には、ASDではない子供たちと違う目で世界を見る能力があるとしています。

 ASDの人たちが示す特殊な視覚認知能力の背景には、llocal processing bias (部分的情報処理バイアス:LPB)と呼ばれる全体にとらわれることなく細部を表現する能力がある。なので、ASDの人が描いた絵には、一般人にはない高い空間認識能力に基づくリアリズムが表現されているということです。

 Spikinsさんはこの論文で、フランスのショーヴェ洞窟で発見された世界最古の壁画や、ドイツ・シュターデル洞窟で発見されたライオンマンのフィギャーのように、現代から見てもリアリズムの粋と言える作品群は、一体誰に作成し得たのかと問いかけています。

 そして、彼女にとってその答えは明白で、これらの壁画などに見られる先鋭的なリアリズムは決して旧石器時代の人類一般の特徴ではなく、(描くことができたのは)特殊な能力を支える遺伝子プールを持っていた一部の人に限られていたに違いないということです。

 確かに、現代のASDと3万年以上前の石器時代のアートを比べるというのはとてつもない発想ですが、言われてみると(この指摘には)高い説得力があるのではないかと西川氏はこの論評で述べています。

 常人の域を超えたASDの人たちが持つ(研ぎ澄まされた)能力は、石器時代の人々の生存と進化を支えてきた。そして、(人類が保ってきた)進化の早い時期から脳に生まれたneurodiversity(多様性)を大事に育む思いやりこそが、人類を成功に導くひとつのカギだったのではないかということです。

 ASDが持つ能力を理解しつつも、社会への適応性の欠如を理由に、合理性を重んじる現代社会は自閉症やアスペルガーの子供たちを排除してきました。

 それに対しSpikinsさんは、ASDの持つ可能性をもっと発掘し、石器時代の人類が行ったように、ASDの能力を活かせる社会を作ることこそ、21世紀の目指すべき社会だと主張しているということです。

 さて、今年の2月22日に学術誌『サイエンス』に発表された論文によると、スペインの3カ所の洞窟で見つかった10点以上の洞窟壁画は6万5000年以上前のものだということです。

 実は、ショーヴェ洞窟の壁画も3万6000年以上以前に描かれたものとされ、ともに現生人類であるホモ・サピエンスが最初にヨーロッパに到達する以前の最古のアート作品であるとする研究者も多いということです。

 つまり、もしもこれが事実なら、これらの壁画の作者はホモ・サピエンスではなくネアンデルタール人だということ。ネアンデルタール人は毛むくじゃらで粗野で知能も低いイメージがありますが、実はホモ・サピエンスと同等の認知能力をもっていたということでしょうか。

 実際、彼らは同じヒト属でもホモサイエンスより脳容量が大きく、人類史上最大の脳を持っていたことで知られています。このため、彼らが私たちホモ・サピエンスとは違う何かを考えたり、想像もつかない能力とか、現代人の物差しでは測れないものを持っていた可能性があると考える研究者も多いようです。

 さて、ネアンデルタール人とホモサピエンスの間には、過去のいずれかの時代において一定の交雑があったことが最近のDNA解析から明らかにされています。

 私たちの閃きや芸術的センス、そしてASD的な多様性は一体どこから来たものなのか?壮大な時間の流れの中に妄想は膨らみ、興味は絶えないというものです。


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♯1071 若者言葉とハイパーコンテクスト

2018年05月20日 | 社会・経済


 今年で31回目を迎える第一生命の「サラリーマン川柳」に『新人に メールで指示して 返事は「りょ」』(定年間近)というものがありました。

 確かに、若者などの間では、LINEなどで「了解」と書くのを「りょ」と省略するのはもはや定番で、「まいナビ」が昨年6月に行ったアンケート調査では大学生の約5割が「普通に使っている」と回答しているということです。

 中には「りょ」だけでは飽き足らず「り」だけで済ますなど、スマホの普及に伴って言葉の短縮化は驚異的な勢いで進んでいるようです。

 例えば、「MJK」は「マ(M)ジ(J)か(K)」の略で、「ありがとうございます」は「あざお」まで縮んでいます。さらに、チャットなどで「いやいや、お前はそれ言う資格ないやろ」とツッコむときには、「おまいう」と打てば通じるのだそうです。

 昔から若者言葉というのは、仲間内だけで通じる微妙なニュアンスを伝え「ウケる~」と広がっていくものだと思っていましたが、どうやら最近のLINEなどの普及によって、「短縮系」のものが主流になりつつあるようです。

 3月29日のWebメディア「citrus」を覗くと、コミュニケーション研究科の藤田尚弓氏が「ハイコンテクストすぎる若者言葉を前にオトナたちはどうすればいい?」と題する興味深いレポートが掲載されていました。

 氏によれば、若者の間では「コンビニで買ったプリン、ちょーヤバイ(語彙力)」のような言い回しが流行っているということです。

 これは「コンビニで買ったプリンがすごくおいしいんだけど、(残念ながら)それを伝える語彙力がない」というふうに読むのだとのこと。

 しばしば、若者の使う言葉から表現力の低下を嘆く(オジサンたちの)論評を目にしますが、こうした若者言葉を丁寧に拾ってみると、微妙なニュアンスを持たせる表現を生み出し使い分けるなど、むしろ彼らは高度なコミュニケーションをしているようにも見えると、藤田氏はこのレポートに記しています。

 私たち日本人は、言葉の持つ意味だけでなく、雰囲気・表情・背景など、言葉以外の部分にも重きをおいて意味を理解するハイコンテクスト(High context:文脈の抽象度の高い)文化の中で生きていると藤田氏は指摘しています。

 例えば日本では、大きめの音で音楽を聴いているルームメイトに「明日は大事な試験なんだけど」と言えば、音を小さくしてほしいという意味であることは多くの人が理解します。

 しかし、同じ台詞をアメリカなどのローコンテクスト文化で育った人に言っても、「そうなんだ、頑張ってね」などと無邪気に励まされ意図を汲み取ってもらえない可能性が高いということです。

 藤田氏は、こうしたハイコンテクストなコミュニケーションに慣れている大人の日本人であっても、(さらにその上を行くハイパーコンテクストな)若者言葉はいかにも難解に聞こえるだろうとしています。

 例えば…ということで、氏はいくつかの若者言葉を挙げています。

 「先週からメンブレなんだよね」と言えば、「先週から(精神的に)参っていんるだよね」の意。「メンブレ」は「メンタルブレイク」の略で、ショックを受けた状態であることですが、でも深刻だとは思われたくなく、むしろかまってほしいニュアンスの状態を指すということです。

 次いで、「この服ぐうかわ」というものです。「ぐうかわ」はぐうの音も出ないほど可愛いの略で、「ヤバい」で表現される「すごい状態」よりも上の圧倒的な可愛いさを表現する言葉だとしています。

 さらに、「わかりみがある」という言葉はどうでしょう。これは、「わかる部分がある」というという意味で、「それわかる!」よりもマイルドな、「共感できる部分もある」といった程度のニュアンスを表現しているということです。

 日本語の乱れ云々という部分は置いておくとしても、このような若者のコミュニケーションはハイコンテクストに過ぎる部分があるとこのレポートで藤田氏は指摘しています。

 対人関係において常に相手との距離感を意識し、相手の内心に踏み込まないことを身上とするナイーブすぎる彼らの感性が、日本語をさらに細分化し様々に使い分けているということでしょうか。

 このレポートの作成に当たり、藤田氏は、若者世代(中学生、高校生、大学生、新社会人)へのヒアリングやツイッターの分析を通して、若者言葉を大きく5つにグルーピングしています。

 まずひとつ目が「ネット系」というもの。「フロリダ(風呂に入るからラインなどのチャットから離脱するね)」「うぽつ(アップロードお疲れさま)」など、主にSNSやYouTubeなどで使われる言葉だということです。

 次いで、ふたつ目が(先に述べた)「短縮系」のもの。「イキる(意気がるの略)」「マ?(マジ?の略)」など、元々ある言葉を短縮した言葉です。広く知られた「JK(女子高生の意味)」などもここに入るということです。

 三つ目は「人名系」というジャンル。「与謝野る(与謝野晶子の乱れ髪から、髪が乱れているの意味)」「小室る(小室哲哉から徹夜の意味)」など名前から転じて使われるものもあるということです。

 さらに四つ目が「ぼかし系」というもので、「~的な(~のような)」「~みがある(眠みがあるなど)」など、断言をさける言い方です。これは、使用場面を分析すると、責任回避だけでなく周囲への配慮も考慮されているように見えると氏は説明しています。

 そして最後が「程度系」というもの。「激おこ(かなり怒っている様子)」「なしよりのあり(なしに近いけどあり)」など、程度を細かく表しているのが特徴だということです。

 こうして見ると、しばしば“頭のよろしくない子の日本語の乱れ”と誤解されがちな若者言葉も、(平安時代の和歌ではありませんが)言葉遊びの要素が入っていたり、微妙なニュアンスを表すための使い分けがあったり、なかなか高度に使われていると藤田氏は指摘しています。

 実際に彼らの語彙力がどうかと言えば、2016年にベネッセコーポレーションが行った世代間の語彙力の差に関する調査では、(語彙力が)高い順に40~60代の社会人→大学生→20~30代の社会人→高校生の順になるとされているということです。

 一方、新語に絞った調査によると、若者世代は大人世代よりも当然ながら高い語彙力を有しており、一概に語彙力が少ないともいえないと藤田氏はしています。

 相手によっては敬語を使うなど、少なくとも現代の若者は(もしかしたら少し前の世代よりも)使用シーンについては理解しているので、大人世代は若者同士のコミュニケーションスタイルについてはそっと見守っていて良いのではないかというのが、この問題に対する藤田氏の見解です。

 とは言え、(先程の「りょ」の例ではありませんが)社会に出れば、様々な場面で大人のコミュニケーションが必要になるのも事実です。個人の持つ表現のバリエーションは、その人の教養や品格への評価にも影響することでしょう。

 (若者たちの新しいカルチャーを否定するばかりでなく)若者独自の言葉を見守りつつも、正しい日本語、大人社会を生き抜く語彙力をさりげなく見せてあげるのが、大人世代の責任ではないかとこのレポートを結ぶ藤田氏の指摘を、私も大変面白く読んだところです。


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♯1070 トランプ氏の評価

2018年05月19日 | 国際・政治


 ここ2か月ほどの間の出来事だけを見ても、トランプ大統領は金正恩委員長との米朝会談を独断で了承したほか、通商拡大法232条およびスーパー301条による輸入制限措置を一方的に提起し中国との貿易摩擦を表面化させました。

 また、最近では2015年に米欧など6カ国とイランとの間で締結された核合意からの離脱を単独で表明するなど、その政策は一貫性を欠くばかりか極めて独善的な解釈に基づく場当たり的なものと言わざるを得ません。

 当然、これらの決定に対しては(米国の内外を問わず)多くの識者が強い疑念を表明していますが、ホワイトハウス内部の政策運営は一段と混迷の度合いを深めており、政策自体ますます予想不可能なものとなっているとの見方が支配的だということです。

 実際、政権発足以来、ゲーリー・コーン国家経済会議(NEC)委員長(3月8日辞任)、レックス・ティラーソン国務長官(3月13日辞任)、ハーバート・マクマスター大統領補佐官(国家安全保障担当)(3月22日辞任)などの有力閣僚が次々とホワイトハウスを去り、代わって、元CIA長官のポンペイオ国務長官や超保守派で知られるボルトン大統領補佐官などの一癖、二癖ありそうな人物が新たに政権に加わっています。

 トランプ政権は、昨年1月の発足以来、内政、外交、人事、税制などのあらゆる面において(これまでのルールでは)予測不能な政策を次々と繰り出してきました。第2次大戦後半世紀以上にわたり世界秩序をリードしてきた米国の姿勢とは大きく異なるこれらの政策決定により、国際社会における米国の信頼は急速に低下していると言えるでしょう。

 しかしその一方で、米国におけるトランプ大統領の支持者たちはこうした政策運営上の深刻な問題点を殆ど気にしていないようです。トランプ大統領の支持率は、昨年4月以降、40%前後でほぼ安定的に推移しているとされています。

 こうした状況から判るのは、トランプ大統領は支離滅裂な政策運営に対する国内外の有識者からの批判や国際社会における米国の信頼低下は(恐らくは)ほぼ眼中にないということ。(いわゆる「ラストベルト」などの)共和党と民主党の支持が拮抗する選挙区のトランプ支持者層が喜ぶ政策を、短期的な視点で次々と打ち出し続けていると考えるのが合理的でしょう。

 こうしたトランプ大統領の政策運営に対し、4月21日の英経済紙「The Economist」は、「対トランプ、問われる共和党」と題する社説において、非常に厳しい批判の目を向けています。

 同紙は記事において、この政権のより重大かつ差し迫った問題は、(政策の内容というよりも、むしろ)トランプ氏の気性、そして政治家としての資質にあると指摘しています。

 自分への服従心や、人々の怒りをあおりその怒りを糧に自分の勢力拡大を図るトランプ氏の政治姿勢は、世界が民主主義のあるべき姿としてよく仰いできた米民主主義を脅かすものだと記事はしています。

 過去にも、米国の大統領には自分を過大評価し、嘘をついたり、女性を誘惑したり、いじめたり、大統領としての規範を逸脱する米大統領は確かにいたが、トランプ氏ほど露骨に好き勝手な振る舞いをする大統領はいなかったということです。

 彼の持つ力の根源は、基本的に「事実に対する軽視」にあると記事は説明しています。トランプ氏が昨年5月に解任したコミーFBI長官はその回顧録において、ホワイトハウスの状況を「重要なことから小さなことまで、とにかく嘘をつく。(トランプ氏への)忠誠心を第一にするという行動規範を貫くため、道徳も真実も重視しない組織となっている」と評しているということです。

 トランプ氏は、真実と嘘とを区別しようとしない。(もしかしたら)区別できないのかもしれないと記事はしています。
彼は実業家時代、そして大統領候補の時は、人が信じてくれそうなことはあたかも真実のように扱ってきた。そして大統領となった今では、(大統領としての権力によって)かなりのでっちあげをしても逃げ切れると思っているのだろうということです。

 そして、トランプ氏と同氏の支持基盤を何としても喜ばせようとするカルト的ともいえる動きは、少なくとも3つの面で今の政治に影響しているというのが記事の認識です。

 一つ目は「政策への悪影響」というもの。政府は一貫性のある政策を実施するのではなく、怒りや反移民主義、重商主義など、(あまりに単純なポピュリズムとも評すべき)衝動的な欲求に支配されており、過去の経験に基づく議論は考慮されていない。

 実際、選挙戦に当たっての彼の公約そのものが矛盾に満ちており、何かの目標を達成するというよりも(世界に)混乱ばかりを引き起こしているということです。

 二つ目は、過去の慣習により制限されて来た大統領の行動をないがしろにしているという点です。

 納税申告書の開示を拒否し、利益相反に関する規定を無視。営利目的の事業の経営や政権の上級職への家族を任命の自粛も無視して、利益誘導により家族の事業に利益をもたらしていると記事は指摘しています。

 さらにその三つ目として、記事は、自分を邪魔する者を「反対派」としてではなく邪悪な者、腐敗した者、裏切り者と断じて全否定する政権の姿勢を挙げています。

 トランプ氏とその支持層は、(例え共和党員であっても)トランプ氏を支持する善人と、そうでない悪人に分けて考える。メディアもトランプ氏を応援するのは熱烈な忠義者で、支持しないメディアは国民の敵という烙印を押され、「陰謀」だとか「フェイク」だとかいうことばで(省みることなく)切り捨てていくということです。

 彼は、合衆国憲法に基づく「大統領」という存在を、帝王のように(法を)超越したものとして認識しているのかもしれません。大統領の権限はあくまで法理に基づくものであり、子供のように理屈もなく威張り散らす「支配者」を、米国の「理性」はいつまで許しておくつもりなのか。

 記事は、米国ひいては世界の未来について、トランプ氏が望ましくない人物であることを認識している共和党議員や共和党員にも大きな責任があるとこの記事の最後に指摘してきしています。

 トランプ氏の自己中心主義を戒める最善の方法は、中間選挙を含め、選挙で共和党を敗北させることと、米大統領選へのロシア干渉疑惑捜査とそれを指揮するモラー特別検察官を妨害から守る法案を成立させることしかないと記事は言います。

 「最も不正義を働くことのできる人物を、正義を超越した存在にしてもよいのか?」という、アメリカ合衆国建国の父の一人とされる政治家ジョージ・メイソンが1787年の憲法制定会議で述べた言葉をもって共和党員の良心に訴える「The Economist」紙の指摘を、私も大変興味深く読んだところです。

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♯1069 トランプ外交と東アジア情勢

2018年05月17日 | 国際・政治


 気が付けば、北朝鮮の(唐突ともいえる)態度の軟化がもたらした朝鮮半島の南北融和、そして核・ミサイル問題に関する米朝の歩み寄りの動きが鮮明になりつつあります。

 注目されるシンガポールでの米朝首脳会談を6月12日に控え、北朝鮮は5月13日、先に表明した核実験場の廃棄について、5月23日から25日にかけて米国、韓国、中国、ロシアなどの報道機関を現地に招き坑道を爆破するなどして行うと発表しました。

 勿論、北朝鮮のこうした性急な動きの背景には、朝鮮半島の非核化に向けた姿勢をアピールする狙いに加え、隣国中国の強いプレッシャーがあることは想像に難くありません。事態の推移に合わせる形で(独裁国家ならではのスピードで)次々と揺さぶりをかけている印象です。

 一方、米国のトランプ大統領もこの動きに応え、ツイッターに「北朝鮮が6月12日の米朝首脳会談の前に核実験場を廃棄すると表明した。ありがとう。とても賢く、丁重な行動だ!」と書き込み、北朝鮮の発表を歓迎する意を早速表明しました。

 勿論、米国は独裁国家ではないはずですが、トランプ大統領自身、金正恩、習近平、プーチンなどの強権的、独裁的な各国の指導者たちを相手に、逆にいいように(彼らを)振り回しているようにも見て取れます。

 よく見れば、トランプ氏に振り回されているのは(あながち)各国の指導者ばかりとも言えません。米国内の主要セクターも同様で、ホワイトハウスのメンバーでさえその例外ではないようです。

 急展開する北朝鮮情勢を受け、新たに就任したポンペイオ国務長官は早速「北朝鮮が完全かつ検証可能で不可逆的な非核化に応じれば、制裁は解除され北朝鮮の経済発展を支援するアメリカからの投資を得ることになる」と米国の朝鮮半島戦略の方針転換を示唆しています。

 また、「(金政権には)安全の保証も与えなければならなくなる」と述べ、トランプ政権が北朝鮮の金体制を支持・保証する考も示したと伝えられています。

 一方、ボルトン大統領補佐官は15日、トランプ大統領が北朝鮮に望んでいるのは弾道ミサイルを含めた「全面的な核プログラムの廃棄」だと発言。核兵器(核弾頭とミサイル)と核物質(高濃縮ウランとプルトニウム)、核施設(濃縮・再処理施設)ばかりでなく、生物兵器、化学兵器も除去対象とする厳しい姿勢を強調したということです。

 こうして、性急さとともにバラバラ感も目立つ昨今の米国の動きですが、現在トランプ大統領が注力する全ての政策は11月の中間選挙に照準を合わせていると言われています。

 (それが事実だとすれば)共和党の苦戦が予想される中、支持基盤を固めるためトランプ氏の外交による得点の積み上げや保護主義への傾注は、今後もエスカレートするばかりと言えるでしょう。

 確かに北朝鮮問題では、融和ムードを醸し出し(多少無理をしてでも)できるだけ早く成果を上げたいとスケジュールを繰り上げています。一方、中東政策でも、イラン核合意の一方的な破棄など、国内保守派を意識した動きが顕著になっています。

 経済的な「アメリカンファースト」の思想も以前にもまして(厳しい言葉で)強く打ち出されており、安全保障を理由に鉄鋼やアルミニウムの輸入制限を持ち出したり、知的財産権保護を盾にして「米中貿易戦争」を仕掛けたりしています。

 さて、こうした状況の中、日本の外務省や安倍首相が、中朝、南北朝鮮、そして米朝と続く多角的な首脳会談の大展開に取り残され、一方の経済交渉、貿易交渉でも後手に回っていると見ているのは私だけではないでしょう。

 予想しえなかった対話の状況が目の前で生まれているにもかかわらず、近隣国の政府として、ただ「圧力を最大限まで高めていく」と繰り返すだけでは戦略性にも柔軟性にも欠けるというものです。

 また、鉄鋼・アルミの輸入制限措置に関しても、多くの同盟国が対象から除外される中、日本は何の手も打てない状況置かれたままと言えます。

 ここで改めて言えるのは、何でもかんでも「米国追従」という主体性に欠ける従来の日本の外交方針では、もはや(縦横無尽に暴れまわる)トランプ政権や各国の首脳たちのスピードには到底太刀打ちできないということでしょう。

 その場その場で敵と味方を区別し、あくまで相対のディールにこだわる現在のトランプ大統領には、交渉によって手にできる目の前の短期的な成果しか眼に入っていないようです。

 今後、来月の米朝首脳会談を経て北朝鮮情勢がどのように動くかはわかりませんが、(トランプ大統領に加え)交渉技術に長けた金正恩委員長や老獪な習近平委員長、捨て身の交渉を繰り広げる文在寅大統領などを相手に安倍政権はどのような対応を見せるのか。

 一緒にゴルフをして、「仲良くなった」と強調しているばかりでは済みません。大きく動く東アジア情勢を前に、主権国家としての日本の外交交渉力が今、改めて問われているということでしょう。


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♯1068 銀行の生き残り戦略

2018年05月16日 | 社会・経済


 三大メガバンクを含む大手銀行5グループ(三菱UFJ、三井住友、みずほ、りそな、三井住友トラスト)の2018年3月期連結決算が、5月18日に出そろったということです。

 報道では、合計の純利益は前期比7%増の2兆6908億円と4期ぶりの増益で、(堅調な株式市場を背景に)保有株式の売却益が伸びたことや過去に積み上げた貸倒引当金の戻り益などが(増益に)貢献したとされています。

 しかし、この数字はあくまで最終収益であり、事業環境の厳しさは各銀行に共通したものがあるようです。実際、本業の利益を示す実質業務純益は5行合計で2兆394億円と2割近く(19%)減少しており、3期連続の減益となっています。

 銀行業務の利益構造の根幹をなす貸出金利から調達金利を引いた預金利回りの差は(5行の)単純平均で0.83%に過ぎず、さらにこの1年間で0.04ポイント低下しているなど、日銀によるゼロ金利政策が続く中、金利差による収益は困難な状況が続いています。

 一方、これを補っているのが保有株の売却益で、連結で5434億円と18%増加しました。また、貸し倒れなどの備える与信関係費が貸出先の業績改善などによって縮小し、前期だけで336億円の戻り益を計上しているということです。

 こうして、堅調な株式市場や好調な経済状況に(何とか)支えられた感のある銀行決算ですが、5月16日の日経新聞によると、三大メガバンクは決算の発表に当たり、今後の金融インフラの軽量化を急ぐ方針を(そろって)明らかにしたということです。

 現金決済を伴わない(いわゆる)キャッシュレス化が進む中で、銀行の店舗やATMを利用する顧客は減少の一途を辿っているということです。

 低金利に苦しむ銀行にとってコスト削減は急務であり、各行はいかに顧客の利便性を落とさずに構造改革を進めるかで知恵を絞っていると記事は説明しています。

 各行では、高機能ATMを使って窓口業務の大半を自動化するセルフ型や対面でのコンサルティングなどの特定に機能に特化した店舗など、新型店舗を交えた店舗構成の再編などを計画しているとされています。

 例えば、MUFGでは店舗来店者数がこの10年で4割減少していることを踏まえ、2023年度までに窓口で行員が接客する従来型の銀行店舗を現在の515店舗から半減させ、新型店舗に切り替えることで全体の店舗数を2割削減する計画だということです。

 また、ATMやシステムの共同利用なども含め、グループの枠を超えた共通化によるコスト削減なども検討されていると記事はしています。

 いずれにしても、ゼロ金利政策のものとで金利差による利益が望めず、資金需要も少ない中で、メガバンクとしては手数料収入で(ちまちまと)儲ける一方でコストダウンに精を出すという生き残り戦略を取らざるを得ないのが現状と言えるでしょう。

 一方、こうしたメガバンクの取り組みに対抗し、少し違った戦略で生き残りを図る地方銀行もあるようです。

 オリックスグループの信託銀行であるオリックス銀行は、基本的に店舗をもたず金融サービスを提供するユニークな銀行として知られています。取扱商品を高水準な金利のインターネット取引専用預金やカードローン、投資用不動産に特化した住宅ローンなどに特化することで窓口業務をなくし、支店運営のコストをほぼ負担しないことで利益を上げようとしています。

 一方、東京の城南信用金庫の懸賞金付き定期預金『スーパードリーム』や高知銀行のネット支店「よさこいおきゃく支店」が展開する『土佐からの便り定期』などの商品は、(ある意味地方銀行らしく)預貯金額に応じて最高100万円の賞金や観劇チケット、地元の名産品などが当たることから人気商品となっているということです。

 また、女性専用シェアハウス「かぼちゃの馬車」をめぐるずさんな融資問題で一躍その名を知られるようになったスルガ銀行は、貸し出しによる純利益率やその伸び率か突出して高いことで知られています。

 貸金利回りは3.6%超で、1%強の地銀や0%代のメガバンクと比較して圧倒的に高く、他行が手を出さないリスクを取った融資を進めることにより利益を上げようという姿勢が見て取れます。

 現在、日本の銀行の低収益体質の構造的な要因としては、信用度に見合った利益を期待できない(信用格付けによる利回りの差が少ない)「低クレジットスプレッド」状態にあることに加え、金融機関同士の横並び意識が強いことや、リスクの高い投資先には融資しないという(安定志向の)経営姿勢などが挙げられることが多いようです。

 情報通信技術の発達やフィンテックの拡大、仮想通貨の導入やキャシュレス社会の到来など、銀行業務を巡る環境は大きく変化しようとしています。そうした中、(世界的な)余剰資金の増加に立ち向かい、大きな利益を上げている銀行が世界各国に(数多く)あるのも事実です。

 そう考えれば、(少なくとも)日本の銀行の現状を見る限り、収益力を高めるための余地と余力がまだまだ残されていると言えるでしょう。

 経済が堅調で何とか利益を上けられる今こそが、各行が生き残りをかけて業務を見直し、独自の生き残り戦略を立てていく最後のチャンスなのではないかと、今期の連結決算から改めて感じられるところです。


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♯1067 負担に変わりはないのだけれど

2018年05月15日 | 日記・エッセイ・コラム


 今日の話題は、「税収」という少し面倒くさく(かつ)ややこしい話なので、覚悟しておつきあいいただきたいと思います。

 財務省が4月27日に発表した3月の税収状況(一般会計ベース)によると、前年同月比4.5%増の2兆9145億円と、日本の税収は近年になく(滑り出しから)好調に推移しているようです。

 もう少し細かく見てみると、個人の事業所得やアパート経営の収入など確定申告に伴う所得税収が4017億円と前年同月比で1割以上(10.6%)伸びているほか、大口相続の増加や株価の上昇などがあり、贈与税を含む相続税収も3200億円と前年同月比で3%の増加を見ているということです。

 さらに、税率アップを来年に控え注目の消費税についても8724億円と前年同月比で5.5%伸びており、(輸入も含めた)消費の拡大局面が続いている状況が見て取れます。

 昨年末の予算編成に当たり、1991年度の59兆8000億円に次ぐ58兆円台の税収を見込んだ財務省に「バブル期並み」の強気予算と揶揄する声も上がりましたが、少なくとも現在のところ、米国の景気拡大に伴う株高や人手不足による賃金上昇などを背景に税収は順調に推移しているようです。

 税金というのは不思議なもので、新しく「取られる」となると急にもったいなくなるのですが、給料から皆と同じ割合で天引きされている所得税などは(金額自体あまり覚えていないし)それほど気になることもありません。

 しかし、いったんお財布に入ったお金が目の前で出ていく消費税などに関しては、普段の買い物などでは2パーセントの上昇ぐらいはどうとも思わなくても、車や家などの大きな買い物をする人には(まさに)「余計な負担」に映ることでしょう。

 5月3日の日本経済新聞紙面のコラム「大機小機」では、こうして堅調に推移する収税状況を踏まえ「伸びる税と課する税」と題する興味深い論評記事を掲載しています。

 2017年度の国の税収総額について、財務省は(昨年12月時点で)57.7兆円と見積もっています。この見積り額は2017年初当初予算の段階で想定した水準をほぼ据え置いたもので、前年度(2016年度)の税収実績である55.5兆円に対して4%増となっています。

 一方、記事は、最も新しい集計によれば、税収の状況は2018年3月までの累計で前年同期比6.3%増と予想を上2.4ポイントも上回る勢いで伸びているとしています。

 好調な企業業績を受けて法人税収が16.0%と大幅に伸びたほか、給与所得や配当所得の増加で所得税収は8.2%、消費税収も3.5%増加しているということです。

 企業は3月期決算が多く、2017年度の税収が(ある程度)固まるのは5月の実績を待ってということになるでしょう。とはいえ上場企業の決算発表の状況を見る限り、昨年度の企業業績は相当に好調だったようだと記事は指摘しています。

 そして、2018年も4月、5月と3月までのペースで伸び、17年度の税収が16年度の実績を6.3%上回って確定したとすれば…「55.5兆円×1.063」、つまり2017年度の税収は59.0兆円となる計算で、財務省の見積もりを1.3兆円上回ることになるというのが今回の記事の皮算用です。

 さらに、こうしてもしも2017年度の税収が59.0兆円まで増えるなら、財務省の掲げる2018年度の見通し59.1兆円では税収は横ばいとなり整合が取れなくなる。例えば2018年度の税収が名目成長率並みに増えるとすれば、60.5兆円程度にはなるはずだと記事は見込んでいます。

 さて、2018年度予算案の一般会計(歳出)総額は、前年度の97兆4547億円を上回る97兆7128億円と6年連続で過去最大を更新しています。このため歳入においては33兆6922億円の公債金収入(つまり国債の新規発行)を計上していて、財政の健全度合いを示す基礎的財政収支(PB)も10兆円超の赤字が見込まれているのが実態です。

 そういう目で見れば、ここで(概ね)1.5兆円の財源が加わってもある意味「焼け石に水」と言えるかもしれません。しかし、それでもこの増収は、政府(財務省)にとっては国民があまり負担感を感じなくて済む貴重な「ボーナス」と言えるでしょう。

 2019年10月に予定されている消費の10%への再増税により日銀の試算では税収は5.6兆円増えるとされています。しかし、軽減税率や教育無償化などにより政府がお金を戻した結果、家計の負担増はネットで年2.2兆円にとどまるということです。

 つまり、見方を変えれば、政府は再増税で差し引き2.2兆円の実入りを増やすために消費者心理の下振れリスクを背負うことになるということ。国民の反感を買うばかりの消費税の増税は、政府与党にとって「割に合わない」選択だということもよくわかるというものです。

 記事によれば、来年の消費税の増税による家計の実質的な負担増は、1997年度の増税時の8.5兆円や2014年度の8.0兆円より格段に小さいものだということです。

 (安定した高級財源の確保という視点から避けては通れない道ではあるものの)こうして考えれば、「景気回復に伴う自然な税収増の大切さが身に染みよう」と結ばれた記事の指摘を、私も大変興味深く読んだところです。

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♯1066 セクハラ言動と「サイコパス」

2018年05月13日 | 社会・経済


 福田淳一前事務次官がセクハラ問題で辞任したことを受け、財務省が幹部ら約80人を対象にセクハラ(防止)研修を開いたと5月9日の朝日新聞が報じています。

 研修では、講師を務めた谷貴子弁護士が財務省の一連の対応について「財務省の感覚と世の中の常識が非常にズレている。大きく乖離がある。」などと厳しく指摘。主計局長らをはじめエリート中のエリートである財務省のキャリア官僚らが、神妙な面持ちで聴き入ったということです。

 報道によれば、非公開の研修は1時間半にわたり、「女性と1対1での会食を避けることは再発防止策として適当ではない」「私的な場と思っていても公の人間とみられている意識が必要」などとの指摘があったということです。

 財務省では、今後も対象者を広げて研修を続けるとともに、省内で働く女性職員らからのヒアリングなども検討しているとしています。

 さて、いわゆる「セクハラ」が、個人のセクシャリティに対する感覚や立場の違い、所属する集団の文化的・社会的な環境の違いなどから(ある意味)構造的に生まれ得るものであることは広く知られています。

 従って、特に(恐らくその多くが)開成や灘高などの進学校から東大法学部をトップクラスで卒業し、公務員試験の難関を上位で突破した(均一性の高い)キャリア官僚の彼らにはそうしたリスクが高いことが予見され、何時間かの研修をしたからといってすぐに体質が変わるというものでもないでしょう。

 しかし、それにしてもインターネット上に公開された「胸触っていい?」とか「手縛っていい?」とか、(こちらもインテリの)若い女性記者を相手に普通の会話の中に脈絡もなく極めて品のない言葉を盛り込む福田氏の感覚は、例え酒に酔っていたとしても常識として普通でないのは誰にでもわかります。

 (別に福田氏個人を誹謗するつもりはないのですが)これは「研修」によって修正できるような「モラル」とか「マナー」とか以前の部分で、福田氏の人格の問題として「何かが変」と感じたのは私だけではないはずです。

 知人とそんな話をしていたところ、「週刊プレイボーイ」誌の5月1日発売号に、作家の橘玲(たちばな・あきら)氏が、「あの人はサイコパス?」と題する興味深い一文を寄せているのが目に留まりました。

 橘氏はこのコラムにおいて、一連の経緯で不思議なのは(福田氏が)「女性記者との間でこのようなやりとりをしたことはない」と事実関係を否定したばかりか、辞任の際も「全体を見ればセクハラに該当しない」と強弁したところだとしています。

 そして、(ある意味一貫した)この態度からわかるのは、彼が、「セクラハなどやっていない」と本心から思っていること。そして、自分の発言が世間からどのように受け取られるかをまったく理解できていないことだということです。

 橘氏は、こうした言動をとること自体が、「共感能力」の欠如した人物に特有の態度だと指摘しています。

 氏によれば、欧米の研究では大企業のCEOの多くは「サイコパス」だと指摘されているということです。無論これは犯罪者のことではなく、「知能が高く、共感能力が著しく低い」という(類型としての)人格障害を持った人のことを指すものです。

 「賢いサイコパス」がなぜ出世するかというと、どんな時も常に合理的な決断ができるから。大規模なリストラをしなければ会社がつぶれてしまうのに、解雇される従業員の家族の心配をしているようではトップリーダーとして役に立たない。多くの将兵の生死を預かる軍の指揮官と同様に、いまでは企業経営者にも極限状況での大胆さと冷酷さが求められているということです。

 共感能力が欠落している人には他人の気持ちが分かりようはずがないのですが、「賢いサイコパス」はその高い知能を使って社会的な振る舞いを学習できると氏は言います。自分の言動が相手にどのような影響を与えるかを冷静に分析すれば、組織のなかで「できる部下」や「頼りがいのある上司」を演じることは(そんなに)難しくないということです。

 そして、彼らは女性との関係でも、「スケベだけど面白いおじさん」というキャラをつくることでナンパ成功率を挙げる戦略を編み出すかもしれないというのが、(福田氏個人の人格的な問題として)橘氏が感じるところです。

 一方、氏は、共感性が欠落しているこのタイプの人物は、(物事を交わされる言葉の内容のみで判断するため)そのキャラを面白がっている女性と、セクハラだと感じて嫌がっている女性を区別できないと説明しています。

 これでは事態が公になってからも、何を批判されているか理解できなくても確かに不思議はないでしょう。福田氏も今頃(世間が何を騒いでいるか判らず)、女性記者に「裏切られた感」「はめられた感」満載でいるかもしれません。

記者「キスする記者に、何かいい情報あげようとは思わない?」
福田氏「そりゃ思うよ」
記者「ええ?本当ですか?」
福田氏「好きだからキスしたい。キスは簡単。好きだから情報」
記者「へえ…」

 深夜のバーの片隅で交わされた、こうした(言葉だけで見れば)ある意味「大人の」やり取りに、福田氏は何を感じていたのか。

 公開された会話や福田氏の態度に、(一般的な「セクハラ」とは少し違った)彼の人格的な問題の片鱗を見る橘氏の指摘を、私も興味深く受け止めたところです。

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