MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯1687 「有罪率99%」が意味するもの

2020年07月29日 | 社会・経済


 正義のために戦う裁判官や弁護士などの法律家の活躍を描いた(いわゆる)「法廷物」に属する数々のテレビドラマが、ゴールデンタイムのラテ欄を賑わしています。

 (最近では女性が主人公の作品も多くなりましたが)格好の良いスーツに身を固めた中堅の俳優さんたちが経験豊富な「やり手法律家」を演じ、あの手この手で事件の真相を暴いていく。

 そこに、若い司法修習を終えたての(正義感の強い)イケメン新人が絡み、多少のラブロマンスなどを織り交ぜながら、次第に一人前の法律家として成長していく…といったストーリー仕立てのものが多いようです。

 最終回に近くなると、大概、政治がらみの「巨悪」や大物警察官僚などが登場し、真実を捻じ曲げようと彼らのチームにプレッシャーをかけてきます。

 しかし、最終的にはそれらに屈することなくチームワークでピンチを切り抜け、ラストシーンの法廷の緊迫したやりとりでクライマックスを迎えるというのが「定番」というところでしょうか。

 以前は、こうしたドラマの主役は大抵「強きを挫き、弱きを助ける」弁護士で、(無精髭などをはやし)多少アウトローな雰囲気を漂わせている場合が多かったのですが、今ではそんな設定では視聴率は稼げません。

 彼らが戦場とするのも、都心の高層ビルにオフィスを構える企業法務を中心とした大手ファームなどに設定され、立ち振る舞いも極めてスマート。都会的な雰囲気の中で交わされるウイットに富んだやり取りが、視聴者を惹きつけて放しません。

 さて、そうした中、SMAPの木村拓哉が主演した2001年の月9ドラマ「HERO」のヒット以降、以前は「ヒール」の役柄を与えられることが多かった検事が一躍脚光を浴び、「検事物」と呼ばれるジャンルが生まれています。

 現在でも(その流れを受けた)多くの検事ドラマがヒットしており、吉高由里子だとか東出昌大だとか松本潤だとか、数々のイケメン俳優たちがさっそうと(そして少しコミカルに)人間味あふれる検事役を演じています。

 さて、そうした検察庁を舞台としたドラマの中で、しばしば(法廷における弁護士との丁々発止のやり取りとともに)ストーリーを盛り上げるのが、「被疑者を起訴できるかどうか」のギリギリのタイミングの場面です。

 一般的に、刑事事件の容疑者は警察に逮捕されると身柄を警察署内の「留置所」に留め置かれ、逮捕後48時間以内に検察官の元に送致(送検)されます。

 送検されると、検察官は24時間以内に裁判所に対し勾留請求を行いますが、検察官自身が勾留請求しない場合や、裁判官が勾留を決定しない場合には被疑者は釈放されることになります。

 さらに拘留期間は原則10日間、最大でも20日間と厳密に定められているので、その期間内に裁判に耐えられるだけの供述や証拠が得られなければ、裁判所に訴えを起こすことができません。

 どんなに怪しい容疑者でも、(証拠不十分の)「不起訴処分」として釈放され、同じ犯罪事実によって再び逮捕されることはなくなるというわけです。

 このため、検察組織としても「起訴・不起訴」の判断については極めて慎重で、有罪にできる(それなりの)自信がなければ起訴に持ち込まない。逆に言えば、検察サイドとしては「起訴するからには、メンツにかけても有罪にするしかない」ということになり、「日本の刑事訴訟の99%は有罪となる」という現実が生まれているとされています。

 一方、99%という有罪率はもはや「裁判」とは言えないのではないか…という指摘や、検察が「起訴するかどうか」を決めることで、実質的に有罪・無罪の判断権限を握っているという指摘などもあり、日本の刑事裁判の在り方に疑問を投げかける海外メディアなども近年多く見かけます。

 日本の司法制度を巡るこのような状況に関し、6月26日の日本経済新聞の投稿コラム「私見卓見」に、米ニューヨーク大学法科大学院米国アジア法研究所研究員のブルース・アロンソン氏が「有罪率99%の独り歩き」と題する興味深い論考を寄せています。

 日産自動車元会長のカルロス・ゴーン被告が保釈中に海外逃亡した事件により、日本の刑事司法制度に注目が集まった。その際、海外メディアでは、他の先進国に比べ圧倒的に高い「有罪率99%」の状況ばかりが強調され、日本の刑事裁判の在り方への不信感を示す声も多かったとアロンソン氏はこの論考に綴っています。

 しかし、こうした主張を唱えるのであれば、比較する他国と条件をそろえる必要があるし、日本文化のステレオタイプに理由を求めるのは無意味なのではないかというのが、この論考で氏の指摘するところです。

 例えば、米国の事情と比べれば、日米ともに、多くの刑事事件は正式な裁判から除外する手続きにより処理される。しかし、除外の手続きは両国でかなり異なるとアロンソン氏は言います。

 米国では、自分の罪を認めることで刑を軽くする司法取引が既に一般化している。検察官に送致された事件の多くは起訴されるが、起訴された事件の大多数は司法取引によって得られた有罪答弁によって決することとなり、残されたわずかの案件が正式裁判に移行するということです。

 一方、日本では、大部分の事件は検察官の幅広い不起訴裁量により起訴されずに終結する。地方裁判所に起訴された事案のうち90%もの事件で被告人が罪を認め、主に量刑を争う裁判になって、残りの10%程度が有罪か無罪かを争う否認事件になるとアロンソン氏は説明しています。

 日本の99%を超える有罪率は、起訴された全ての事件についての比率であって、否認事件に限ったものではない(つまり、「日本では刑事事件のほとんどの案件が有罪となっている」とういうわけではない)というのが氏の見解です。

 米国と「有罪率」の数字に大きな隔たりがあるのは、被告人が有罪を認めている(量刑を決める)裁判も「有罪」として計算しているからであり、裁判にかかれば日本ではすべて有罪にされてしまうという主張は、(国際的に)誤解を招くものだと氏は指摘しています。

 取り調べ時の弁護士立ち会いを認めないなど、日本の刑事司法に問題はないとは言わないが、例えばカルロス・ゴーン氏が外国人であることを理由として不当な取り扱いを受けていた証拠はない。日本の刑事司法がゴーン氏の不正に対処しようと奮闘する中、裕福で権力を持っていた者として勾留に憤慨したゴーン氏が、(検察の不意を突いて)保釈中に日本から逃亡したというのが現実だろうということです。

 民主主義国家では治安と個人の権利のバランスを目指す中、刑事司法の働きは議論の対象となる。刑事司法の理想と刑事手続きの実務の現実には、隔たりもあるというのが、この論考でアロンソン氏の指摘するところです。

 しかし、だからと言って、単純に日本の制度を「間違っている」「不公正」と非難するのは適切ではない。いかなる国の刑事司法であれ、改革への提唱をためらうべきではないが、それと同時に、正しく改革するためには公平な議論を行う必要があると考えるアロンソン氏の見解を、私も興味深く受け止めたところです。



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