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沖縄・勝連城、悲劇の王女・・・

2020-02-16 | おでかけ
沖縄の旅・・・
「日本100名城」スタンプ集めで、グスクを訪ねました。
本日は、勝連城(カツレンジョウ)のお話です。

前記事、中城(ナカグスク)でも触れましたが、琉球王国時代の
「護佐丸・阿麻和利(ゴサマル・アマワリ)の乱」。
中城が護佐丸なら、勝連城は阿麻和利の城でした。

勝連城も、世界文化遺産、国指定遺跡、そして「続日本100名城」の城です。

まずは、アタクシが胸キュンキュンとなる、
沖縄の城(グスク)のポイントから申しますと・・・



その1、海が見える!

眼下に海が眺められ、海外貿易が盛んだったことも納得でございます。
近代までは、城で行われる神事の最中に、
城下の漁村から、魚を売りに来たなんてこともあったとか。

その2、曲線を描く、石垣(城壁)が美しい!

その3、祭祀の場でもあったこと!



勝連城は、阿麻和利の敗北、落城で、廃城になります。
でも、その後も、17世紀頃までは祭祀の場として使われていたのだとか。
そのせいか、グスク内に御嶽(ウタキ)がたくさんあります。

首里城と同じく、政治的な施設である殿舎の前に、
儀式や祭祀が行われる、広場(御庭:ウナー)のある形式だとか。↑

・・・ということで、こちらも、アタクシのキュンキュン・ポイント三つを持つ、
見事なグスクでございます。



それに加え、「護佐丸・阿麻和利の乱」の阿麻和利の城ですから、
面白さも倍増でした。

勝連城は、アジア諸国との貿易で財政も豊か、
城の普請も見事です。

たとえば、石段。
これがやたらと急なんです。



曲輪と曲輪を結ぶ石段は、右旋回した、急傾斜・・・

急傾斜は登りにくく、スタミナを消耗します。
さらに、右旋回することで、敵方の機動力や攻撃力を削ぎ、
城方の攻撃が有利になるのだとか・・・

(これって、右利きが多いからっていうこと?)

さらに、一の曲輪へ向かう階段は、最終防衛ライン。↓
登るにつれ、階段の幅が狭くなっているのだとか・・・
攻め手の兵士の辛さを体感できましたw

おみ足に自信のない方は、お覚悟を!



阿麻和利は、ライバルの重臣・護佐丸を排除するため、
王に讒言、まんまと信じ込ませた後、護佐丸を滅ぼします。

次に狙うは、王位です。

ところが、護佐丸の妻は琉球王・尚泰久の娘、百度踏場(モモトフミアガリ)。
夫の企みを知ると、首里城の父に、これを知らせます。

百度踏場は、琉球王と護佐丸の娘である后との間に生まれた王女。
父と祖父を裏切った夫・阿麻和利が許せなかったのかもしれません・・・

それとも、大城賢雄に惹かれていたのか・・・
百度踏場は、注進のため、首里へ向かう間、
付き人である大城賢雄(オオシロケンユウ)に背負われていたとか。

この後、大城賢雄は、王府軍を率いて戦い、阿麻和利を滅ぼし・・・
百度踏場は、大城賢雄と再婚します。

もともと好感があったのか、それとも、危機に遭って助けてくれたからか
百度踏場は大城に惹かれていたと、思いたいのです。
だって、二度も政略結婚したのだとしたら、切ないではありませんか!

ところが、大城賢雄も、やがて王府の陰謀によって殺され、
百度踏場は再び夫を喪い・・・その後、寂しい隠居生活を送ったとか・・・



この「護佐丸・阿麻和利の乱」で一番、得したのはダ~レ?
実は、琉球国王・尚泰久なのです!

史実だけ見ると、阿麻和利は、とんでもない奴ですが・・・
現在の研究では、阿麻和利も、また名君であったと讃えられていたことが
明らかになったとか。

結局、「護佐丸・阿麻和利の乱」は、
二人の力を畏れた、琉球国王が仕組んだ陰謀だったのではないかとの説も
浮上しているそうです。

実際、この乱の後、琉球王家に対抗できる有力な家臣はなくなり
政権は盤石になるわけで・・・

勝連城には阿麻和利にまつわる伝説が残っています。



一の曲輪の「玉ノミウヂ御嶽」は、大きな石をご神体としています。
この石は、勝連城を守護するとされおり、グスク時代は建物の基礎だったと・・・

上の画像・霊石の、右にある洞窟に、ご注目。↑

これは、下にある、二の曲輪の「ウシヌジガマ」とつながっているとされます。
「ウシヌジ」とは身を隠すの意味で、
天災や戦のとき、このガマ(洞窟)に身を潜めたとか・・・↓

難攻不落の勝連城が落城する際、
阿麻和利は、、一の曲輪から二の曲輪へ、
そして現代の読谷へと逃げ延びたとか・・・

阿麻和利を慕う庶民が、名君を喪った嘆きが、
このような伝説につながったのでしょうか・・・
だとしたら、やっぱり、阿麻和利は簒奪を企んだ悪人ではなさそうです・・・

歴史は、強者の言い分だけが残るのが
世の習いでございますなぁ・・・

(大河ドラマ「麒麟がくる」の明智光秀だってねぇ・・・)




英雄ゆかりの城として、また祭祀の場として、歴史に名を刻んだ勝連城。
残念ながら、大正時代以後は海岸整備工事や建築用材として、
城の石が使われるようになり、石垣が消えてしまったのだとか・・・・


◆参考
上里隆史・山元正昭『沖縄の名城を歩く』 吉川弘文館
「勝連城」パンフレットおよび、説明板

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お読みいただき、どうもありがとうございました。
もう少し余裕ができるまで、コメント欄など非表示にさせてくださいね。
一方通行のブログでごめんなさい。

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