ことば咀嚼日記

日々読んだ活字を自分の頭でムシャクシャ、時にはゴックン、時には、サクサク咀嚼する日記

行く春

2011-04-22 | 日記
行く春に わかの浦にて 追い付けり    芭蕉

若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る  山部赤人


「行く春」を詠った芭蕉の句をひとつ挙げて、解釈しなさいという宿題があって、私は上の句を挙げた。
芭蕉の春を惜しむ句には、「行く春を近江の人と惜しみけり」なんて、もっと素敵な句もたくさんあるのだが、故郷つながりということで、上の句を挙げてみた。

「それまで万葉集・古今集・新古今集はじめ、和歌が国の韻文文学として第一の座を誇ってきたが、わしも頑張って俳諧をここまで
ひきあげたんじゃよ」と芭蕉さんは自負をこめていっているのかな・・・?と解釈したのは、写生を詠う俳句としてはよい俳句には思えなかったから。

和歌浦は、子供たちが小学生の頃、毎年海水浴をさせたきれいな白浜だ。その入り口に、山部の赤人の和歌の看板があって、和歌浦せんべいの缶にもたしかこの歌が書いてあったような記憶がある。

でもこの歌の場合、芭蕉と赤人の歌を比べると、わたしは赤人の方が遥かに優れていると思う。
実写の風景がぱっと思い浮かぶし、何と言っても歌の調べの美しさ!

俳句には和歌や連歌や中国の漢文や詩などの伝統が積み重なった層が幾十にもあるのだとわかってきた。
最近、万葉集をパラパラと意味もわからず音読して、これは素敵!と思った歌の作者を見ると、今のところ大体、山部赤人と柿本人麻呂と大伴家持さんになるのが不思議だ。三人とも詠みやすい自然な流れ、1300年後の人間にも全然難しくない。
万葉の文法についてもまったく門外漢だが、詠んでいるうちに、何となくわかってくるのは日本人としてのDNAなんだろうか。
古典文法の学習法は、文法書は最低限にして、とにかく和歌をたくさん詠むと自然にルールがわかってくるのではないだろうか。