久しぶりの友人と久しぶりのランチをした。実家に帰った友人は両親と回転寿司に行ったが、みな食が細くなっていて、ひとり当たり4皿~5皿しか食べられなかったそうだ。
「若い頃のようにはたべられなくなってねぇ。それに特にこのごろ食べたいっていうものもなくなってきたわねえ」と言う。
「私は今でもすごく鰻が食べたいなあ」とつぶやいた。鰻貯金の話はしなかったが、鰻本位制度は、金本位制より確実かもしれないと思い始めている。少なくとも私の中では。
クルーグマンコラムいうコラムをプリンストン大学教授でノーベル賞をとった経済学者が新聞に書いているが、いつも読んだことはなかった。ノーベル賞学者の話はどうせわからんだろうから。
しかし、昨日「仮想通貨の教訓」というタイトルでこの人が何か書いていたので、まさかこの人も「鰻通貨」を発明したのではないか?!と思いわくわくしながら読んでみた。
それはビットコインの話だった。
ビットコインとは、ネット上の通貨でドルとも交換可能な通貨らしい。発明したのはアメリカ人で、2010年に「だれか私の発明したビットコインとピザ何枚かを交換しませんか。私のコインはビットコインという名前でね、4000円分ビットコインで(何ビットか知らないけど)払うから、それと交換でピザを私にくれませんか。でも変な魚のトッピングは要らないからね」と冗談まで言ったらしい。これが歴史上有名な「ピザ交換」というエピソードということになっている。
今、そのビットコインの価値が、1ヶ月の間に3倍になったかと思うと、数時間のうちに半分になったりしているらしい。話がそれるが「変な魚のトッピング」というのは「しらす干し」のことだろうか・・・まさか「デンプ」ではあるまい。
さて、クルーグマン教授は、このピットコインの発明は、根本的に間違っていると言い切っている。その間違いの原因は、「通貨は社会のためにあるのに、通貨の価値を社会から切り離したいという願望」だそう。
ビットコインの信奉者は、映画「ソーシャルネットワーク」で一躍有名になった、何とか兄弟で、その兄弟は「政府や中央銀行に左右されない独自の通貨こそ、人間の弱さに左右されない原始的な本位制度」と思っているらしい。しかし、教授の考えは、通貨は「社会的に作り上げられたもの」であって、その社会の人が、「これを支払いの手段として受け入れてくれるだろう」という了解のもとに、成り立っている。貨幣はある意味SNSのようなもの。つまり、そこに入っている人たちが、それを使用する範囲においてのみ有用なだけ。入っていない人はそんなことしったこっちゃない。今、別に新しい通貨を必要としていない、ドルだって円だってユーロだってあるじゃない。いま新たにビット通貨なんて発明しなくても、今の通貨で十分じゃないのかい、というのが教授の意見である。
そうですね。私だって、鰻通貨は、私の中だけで有用なのであって、家族にすら共用するつもりはない。「ああ、これを我慢すれば鰻が一回食べられる」と生唾を飲むことによって、その喜びが想像できるような通貨、それこそが、本来の通貨なのではないか。ビット通貨といい、金といい、(金は入れ歯の詰め物や宝石になるからマシと教授は言っているが)、私からすれば、何の匂いも歯ざわりもしないつまらない通貨である。かぐわしい匂いと歯ざわりこそが、バーチャルな鰻硬貨をビビッドな硬貨にさせる重要なポイントである。そしてそのポイントは、他の人には理解できないでしょう。それでもいいのだ。これは私の中だけで有効な硬貨だから。
ビットコインの発明者だってオタク内で流通させているだけだから、そこに素人が入り込む必要はないのである。教授もそんなことほおっておけばよいのである、というのが私のこの論文に対するコメントだ。
私はこれからも鰻本位制で、貯金をして来年のマルタ旅行に備えたいとますます目的意識をはっきりさせることが出来た。
「若い頃のようにはたべられなくなってねぇ。それに特にこのごろ食べたいっていうものもなくなってきたわねえ」と言う。
「私は今でもすごく鰻が食べたいなあ」とつぶやいた。鰻貯金の話はしなかったが、鰻本位制度は、金本位制より確実かもしれないと思い始めている。少なくとも私の中では。
クルーグマンコラムいうコラムをプリンストン大学教授でノーベル賞をとった経済学者が新聞に書いているが、いつも読んだことはなかった。ノーベル賞学者の話はどうせわからんだろうから。
しかし、昨日「仮想通貨の教訓」というタイトルでこの人が何か書いていたので、まさかこの人も「鰻通貨」を発明したのではないか?!と思いわくわくしながら読んでみた。
それはビットコインの話だった。
ビットコインとは、ネット上の通貨でドルとも交換可能な通貨らしい。発明したのはアメリカ人で、2010年に「だれか私の発明したビットコインとピザ何枚かを交換しませんか。私のコインはビットコインという名前でね、4000円分ビットコインで(何ビットか知らないけど)払うから、それと交換でピザを私にくれませんか。でも変な魚のトッピングは要らないからね」と冗談まで言ったらしい。これが歴史上有名な「ピザ交換」というエピソードということになっている。
今、そのビットコインの価値が、1ヶ月の間に3倍になったかと思うと、数時間のうちに半分になったりしているらしい。話がそれるが「変な魚のトッピング」というのは「しらす干し」のことだろうか・・・まさか「デンプ」ではあるまい。
さて、クルーグマン教授は、このピットコインの発明は、根本的に間違っていると言い切っている。その間違いの原因は、「通貨は社会のためにあるのに、通貨の価値を社会から切り離したいという願望」だそう。
ビットコインの信奉者は、映画「ソーシャルネットワーク」で一躍有名になった、何とか兄弟で、その兄弟は「政府や中央銀行に左右されない独自の通貨こそ、人間の弱さに左右されない原始的な本位制度」と思っているらしい。しかし、教授の考えは、通貨は「社会的に作り上げられたもの」であって、その社会の人が、「これを支払いの手段として受け入れてくれるだろう」という了解のもとに、成り立っている。貨幣はある意味SNSのようなもの。つまり、そこに入っている人たちが、それを使用する範囲においてのみ有用なだけ。入っていない人はそんなことしったこっちゃない。今、別に新しい通貨を必要としていない、ドルだって円だってユーロだってあるじゃない。いま新たにビット通貨なんて発明しなくても、今の通貨で十分じゃないのかい、というのが教授の意見である。
そうですね。私だって、鰻通貨は、私の中だけで有用なのであって、家族にすら共用するつもりはない。「ああ、これを我慢すれば鰻が一回食べられる」と生唾を飲むことによって、その喜びが想像できるような通貨、それこそが、本来の通貨なのではないか。ビット通貨といい、金といい、(金は入れ歯の詰め物や宝石になるからマシと教授は言っているが)、私からすれば、何の匂いも歯ざわりもしないつまらない通貨である。かぐわしい匂いと歯ざわりこそが、バーチャルな鰻硬貨をビビッドな硬貨にさせる重要なポイントである。そしてそのポイントは、他の人には理解できないでしょう。それでもいいのだ。これは私の中だけで有効な硬貨だから。
ビットコインの発明者だってオタク内で流通させているだけだから、そこに素人が入り込む必要はないのである。教授もそんなことほおっておけばよいのである、というのが私のこの論文に対するコメントだ。
私はこれからも鰻本位制で、貯金をして来年のマルタ旅行に備えたいとますます目的意識をはっきりさせることが出来た。