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ことば咀嚼日記

日々読んだ活字を自分の頭でムシャクシャ、時にはゴックン、時には、サクサク咀嚼する日記

懐かしい友だち 吃音

2014-01-30 | 日記
吃音の話題をニュースで読みました。
吃音と言えば、私も小学校4年生ぐらいから中学校1年ぐらいにかけて、吃音だと言われていました。当てられて本を読むときや、何かを報告しなければならないときだけ、最初の言葉が出てこないのです。そのもどかしいことと言ったら、便秘で苦しいのより何倍もいらいらします。
小学生の時、母が一人でお医者さんかどこかに相談に行き、「吃音の子は賢い」と聞いてきたらしく、それを拡大解釈した私は「馬鹿な子はドモリになれないらしい」とクラスでポツリとつぶやいたため、中の良い友達の何人かが、吃音の真似をしはじめました。そのなかのK子ちゃんが、いつの間にか本物の吃音になってしまいました。その時、吃音のまねをすると吃音になるということがわかりました。そして私の吃音はいつの間にか消えていきました。今では吃音が懐かしいです。風の又三郎のように、どこからともなく現われて、去っていった友人のような感じです。その友人がいなくなくなった寂しさがあります。
吃音になるときの自分の感覚は、あまりに言葉がいっぺんにあふれてきて、順番に並べるのがもどかしい。ホーミーという1回に二つの音色を出せる歌歌いのように、全部思っていることを1回に言ってしまいたい、という感じがありました。そして不思議なことに中学校から外国語を習うようになって、外国語を読むときには、まったく吃音がでないことに気がつきました。
後に、人間の音声は一度に1つの音しか出せないということ、つまり言葉の線状性、ということを言語学の時間に勉強したとき、「まさにそのとおり!」と深く納得しました。
今は、いっぺんに何かを伝えたいというほど、感動することが少ないためか、ボキャ貧に苦しんでします。
子どもの頃、吃音になったのは、たぶん感動することが今より断然多かったからに違いありません。今は、よほど感動するものを見ない限りは、「何か言葉に表してみよ」と言われても「すごい!」「ふつう」「へん」しかありません。
昔の頃のみずみずしい感覚を取り戻すには、旅に出るしかありません。
ああ、仕事が終わったら早くどこか旅したい!そして旅から帰るなり、思いっきりどもって「アレが、すごいよくて、おいしくて」とボキャ貧ながら、家族に旅の感動を語ってみたいです。