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雪降る街 カムイラピットの楽園 こな雪 ぼた雪 あられ雪

けっぱれラピット、どろ亀さんに負けるな。ウサギとカメとの競走です。随想、旅行記、日記など、雪の降る街からのお便りです。

石狩映画の舞台 喜びも悲しみも幾歳月 これぞ魅力の風景

2014-11-10 22:25:31 | 歴史

喜びも悲しみも幾歳月

松竹映画の「喜びも悲しみも幾歳月」を年配の方は多く知ってられることでしょう。石狩灯台を舞台に物語は作られました。カムイラビットの心の中にもこの映画の画面の一部が焼きついて残っています。

楽しみの少ない年代にあってこの映画が強烈であったのでしょう。今この映画を再生して見てもむかし与えられた強烈さは感じなくなっています。

佐田啓二、高峰秀子主演の映画で、その時の様子の写真がハマナスの丘の建物に展示されています。掲示されている写真を見て、一枚、一枚の写真に当時を伝える貴重さに関心しています。

 子役に起用されていたのは地元の子供たちであったそうで、当時としては町を上げての最大の行事となったことが伺えます。

  

  

佐田啓二、高峰秀子さんのサインのコピーも飾られてあって、コピーであっも貴重なものをみせてもらったという思いに浸れます。 

 

そのあと、石狩での映画の撮影はありませんでしたが、10年も前になるでしょうか、石狩浜などをロケ地にした「天国の本屋・恋火」が作られました。石狩での映画ロケはこの二本ということでしょうか。

あるいきさつから、天国の本屋・恋火にラビ妻も、カムイラピットもエキストラに出ることになり、一カットの画面に映像として残りました。この時は沢山の人がエキストラとして集められ、大賑わいのロケでした。

 

 


万字炭山

2014-09-22 21:13:55 | 歴史

「万字炭山」の記事が道新(9月15日)に載りました。この記事でむかしのことを思い出したのです。

夕張市中心に高地研(北海道高等学校地理教育研究会)の大会があった時、カムイラピットは当時この会の事務局をしていたのですが、この大会のおり万字炭山に露天掘りの見学をさせていただきました。

企画して下さった夕張工業高校の先生が、炭鉱の中の見学も可能ですと交渉を進めていただいたのですが、もしも事故に遭つては大変な事になる。全道の地理の先生が居なくなるのではと気持ちの小さい自分があって万字炭山の露天掘りの見学だけにしてしまったのです。

今思うと、炭坑内の見学をしなかった事はおしい事をしてしまったと思うことしばしです。炭鉱の坑内の見学をしていれば深く万字炭山が印象に残ったことであろうと思うのです。

まだこの当時は、夕張市も勢いが残っていて炭住(炭鉱長屋も見られました)の見学もさせていただきました。結構ありましたね。

そして炭鉱がつぎつぎと閉山し、万字炭鉱も閉山しました。その一角に万字温泉が開設されたのでしたが、夕張から岩見沢に車で抜けたおり万字の地に立ち寄りその温泉に入りました。

この道筋にはりんごなどの果物が植えられていて、この道をフルーツ街道と言うらしいのですが、当時万字温泉の名物は湯にリンゴを浮かす珍しい温泉として営業していたのでした。多くのリンゴを浮かばせた温泉は私は初めてで終わりです。

多くの人には万字炭鉱の名は知らない人が多いのではないでしょうか。その中で手稲駅南口の「珈琲屋はな」のママさんが、くしくも万字炭鉱に住んでおられたそうで、その時も万字の名を思い出したのでした。

さあて道新で「万字炭山」(岩見沢市)を紹介していたのは、「炭産地の鉄道拠点として栄えた岩見沢にふさわしい黒いお菓子の発売がされます。このお菓子の紹介であったのです。

国鉄万字線は1985年に廃止されたのですが当時の名を思い返してもらうためのものにしようというもくろみの土産物発売がななされるということなのです。

 

 


教育勅語

2014-05-01 17:55:30 | 歴史

教育勅語

1891年(明治24年)1月、東京の第一中学校(第一高校の前身)では、前年の10月30日に発布された「教育勅語」の奉読式が行われた。校長が勅語を読み上げた後、教授、講師、学生が一人ずつ壇上で最敬礼する。▼職員で3番目に登壇した若い英語の教師は、キリスト者としての自己の良心に従って礼拝しなかった。学生たちから非難の声が上がり、新聞も書きたてた。青年は職を追われた▼世に知られる「内村鑑三不敬事件」。内村の家のガラスは投石で割られ、病身だった妻は。伊籐整は「日本文壇史」に記している。教育勅語は、その後50年以上、全国の学校と子どもの心を統べる。(26・5・1日北海道新聞「卓上四季」より)。

道新のこの記事を読み父の話を思い出した。父は長い事小・中学校の校長をしていて、一番大変だったこととして話してくれたのが次の話です。

▼式典には校長が壇上で教育勅語を来賓、生徒、父兄の前で読み上げるのですが、この時、うやうやしく教育勅語を持って壇上に届けるのが教頭の仕事でした。父はおもむろに開いて見ると、教育勅語は逆さまに運ばれてきていたというのです。当時一字でも読み違えたりすると官憲が聞き耳を立ていて、何かがあると校長職を追われる時代でしたから、大変だったと言います。壇上で持ちかえるのは字を読み違える以上に許されるものではなく、同じく職を追われますので、やむなく逆さまのまま読んだと言います。冷や汗ものです。日ごろ空んじていたので、なんとかその場を切り抜けたといいます。

▼この話はいつ聞いたのか思い出せませんが、奇異な話として記憶は新しいのです。終戦を迎えたのはカムイラビットの小学校2年生の時で、小学校は尋常小学校といっていました。その時、教育勅語、御真影を保管していた場所が奉安殿(校舎の正面通路の横に入ったところにあった)で、その前を通る際はお辞儀をして通過したのでした。二宮金次郎の銅像も校庭にありました。

終戦とともに奉安殿は廃棄され、御真影、教育勅語も処分させられました。父はその時御真影も教育勅語もこっそり自分が預かって居るうちに、その学校を去りました。家には仏壇がありましたが、それが奉安殿に置かれていた御真影、教育勅語の入れもの(扉付きの棚)だったのです。父の老後を世話した兄の所にあったのですが、仏壇を立派な物にした時、奉安殿の棚は偶然にもカムイラビットの家に来ることになったのです。我が家の仏壇として今でも使われています。

▼教育勅語には実物と練習用とがあり、二つとも兄の元(北見市在住、兄は3年前に亡くなりました)に今でもあります。教育勅語は父が亡くなってから、兄の所に保管されてあることを知ったのです。父は教育勅語のことについて家に持ってきているとは一言も話してくれませんでした。貴重なものなので、後世に残されるべきものとなるでしょう。

▼父はどの様な実績を持ったのかよく聞いてはおりませんが、カムイラビットが生まれた年に勲章を戴いたとの事で、そのことがカムイラビットの名前となっております。勲章の勲を取り「勲(いさお)」と名付けられました。カムイラビットの名は三好勲です。

▼いつものブログとは様子が違いますが、カムイラビットの記録としてしたためました。

 


十勝開拓時代の道具 「どんころ」

2013-10-30 17:15:48 | 歴史
10日(10月)、所属している会の巡検で帯広市中心に多くの事を見聞きして来ました。最初に訪れたのは「帯広百年記念館」です。
池田町に10年間住んでいたのですが、同、美術館には行った事はあるものの、歴史関係の展示室には入っていませんでした。
見事に展示がされていて、帯広開発の流れがよく分かるのでした。
 

今日はその中のひとつ「どんころ」というものを紹介します。皆さんは「どんころ」と言われても、どのような物か、何に使用した物かわかる人はおられないのではと思います。
カムイラピットも、頭の中に「どんころ」なる物の名と、何に使っていたものなのか、うる覚えながら頭の中で渦巻いていました。
 
  どんころ                        種蒔き道具 奥はどんころ 
一緒に行っている会員が「でこぼこ道の地ならしに馬に引かせた物だろう」と言います。「そうだったかな、まてよ別に使っていた開拓当時の道具だろう」と思いだせずにいました。「どんころ」の名だけは確実に覚えていたのですが。
案内の学芸員が、「このどんころは、収穫した豆殻の上を馬に引かせて回り、ドンコロの重みで豆を剥くための道具です」と説明があり、「そうそう豆の殻剥きの時に使うものだった」と思いだしたのです。
「どんころ」の展示がある博物館って、他になかなかみつかりません。

終戦当時、農家ではありませんでしたが、わが家でも大豆を植えていました。むしろを敷いてその上に豆殻をのせ、竹ざおではたき、豆を落としたものですが、子供のころなので竹ざおが思うように先の方で回らず、先のとめてあるところ(木製)を壊したことがよくありました。豆は、作付、除草、豆抜き、豆殻を積み重ねる、そして豆殻の豆落としとなかなか手間のかかるものでした。

「どんころ」を考えた農家は豆の作付面積も多く、どうすれば手っ取り早く収穫出来るか考えた末の考案だったのでしょう。「どんころ」はよく考案したものです。
「どんころ」の丸い部分は丸太を使い、使用に便利な長さに切り、道具に作り、馬に引かせた物です。自然素材の道具でした。

幸福駅 カムイラピットはついている

2013-09-02 23:25:41 | 歴史
 
  
幸福駅 現駅舎にお別れ

駅舎一面に名刺や写真 名残を乗せて取り除かれる

「えりも野草植物撮影」の帰路、十勝回りの道で、かの有名な「帯広豚丼」を食べてさあ札幌に帰ろうと、高速道路の「ICの幸福」の入口をさがしておりました。どう導きがあったのかカーナビの間違いか我が車は「幸福駅」に迷い込みました。
駅舎に貼られている掲示によれば9月2日からこの駅舎は解体されるとのこと、今日は9月1日ではないですか。幸運にも最後の「幸福駅」を見とどけることになったのです。幸福なカムイラビット夫婦でした。
駅舎一面に名刺や写真が貼られ、観光客の中には以前貼った名刺や写真の確認に訪れた人もいるようでした。ある女性に「今日でこの駅舎は解体されるのですよ」と声を掛けると、「知りませんでした解体されてしまって、駅舎の無い時に来なくてよかった」と話しておりました。大阪育ち今は長野に住んでおられる方でした。
駅舎は改築されるのですが、老朽化した駅舎の改築事業費は周辺の整備費を含め約3千万円。帯広市は新駅舎には古民家の建材などを再活用し、現駅舎の趣を残して建て替えるとの事です。新しい駅舎に生まれ変わっても名刺などの貼り付けは良いようで、また新しい歴史が幸福駅には待っているのです。






食事を頂く時 どう言いますか? 今はただ「頂きます」ですかね。

2013-02-20 18:54:48 | 歴史
「君と親とのご恩を味わえ 頂きます」 君とは天皇陛下のことです。
カムイラピットは終戦時は小学校2年生でした。家では戦争の色濃い中での生活でした。
防空頭巾を子供ながらに被り、ゲートルの巻き方も練習しました。夜は灯火管制であかりが外にもれないようにしていました。奉安殿の前を通る時はお辞儀をして通りぬけました。空襲時の避難訓練や火災に遭った時の連携水運びも大人に混ざってしました。防空壕に避難練習もしました。
食事はカボチャやジャガイモとご飯に混ざったオジヤや団子イモでした。
戦時下にあって我が家の長兄、と次男の二人が戦死しました。
生活はどの家でも苦しくなりましたが、それでも田舎に生活していたので食べる物はなんとかあって、空腹の生活はしていませんでした。いま思うと北海道に生活していたことが幸いしました。
どう教えられたのか、食事の時は手を合わせて、「君と親とのご恩を味わえ」と唱え「頂きます」と言って食べ始めました。君とは天皇を指していたのだと思います。
親も絶対的存在で、食卓の座る位置も定められ、食事も少し上等でした。さて今では「頂きます」とも言わないで食べだす人も多くなり、感謝の対称もなくなってしまった人がいるのです。心から感謝して食事は頂きたいものです。

蛇と鏡餅

2013-01-08 20:03:30 | 歴史
「鏡餅」を <どくろを巻く蛇の造形> と説く人(吉野裕子著「蛇 日本の蛇信仰」)がいる。
古代日本には、脱皮を繰り返し新生するする蛇を畏(おそ)れ、信仰の対象としていたと言うのです。鏡餅は「蛇神信仰の変わり身」ということらしい。
正月に入り、鏡餅にヘビの頭部を付けて、さらに尾をつけた鏡餅の造形を見たが、鏡餅の部分がろくろを巻いた部分にぴったりで、上手に作ったもの(ヘビ)だと思ったが、蛇の姿が鏡餅に変身した姿であった。
十二支の中に蛇が入ってるのはなぜかなどと考えるとさっぱり理解できなかったが、「蛇神としての信仰」があったとしたら十二支に含まれるのも理解が進むのであった。
ヘビに「再生と不死」を祈る週間は世界各地にあるという。縁起の良いヘビ年を今年も有意義に過ごしたいと思うものである。


銀色の道 「鴻紋軌道」のこと

2012-07-18 10:40:54 | 歴史
「鴻ノ舞(こうのまい)金山」を知る人は多いと思います。鴻ノ舞はオホーツクの紋別市にあった金山の名です。
佐渡の相川金山は誰もが知る江戸時代の金山で有名ですが、鴻ノ舞金山は戦前、金の生産量が多く全国に知られるようになり「東洋一の金山」と言われる様になりました。教科書の地図にも鴻ノ舞の地名が記され、廃坑になった今でも地図帳にその地名が書かれております。
当時の鉱山に必要な物資を運ぶ必要から「鴻ノ舞(金山)」と「紋別市街」とを結ぶ「鴻紋軌道(こうもんきどう)」が作られました。今や金山も廃坑となり、14500余人も住んでいた住民は今や皆無です。
もう11年前ほど前に「鴻紋軌道跡」を調べるべく、軌道を探して全線を某大学のY教授と調査に入りました。最初は写真撮影の助っ人に頼まれたのでしたが、鴻ノ舞金山を調べていく内にはまってしまい。最後には「過ぎ去りて今鴻ノ舞」という本まで作ってしまいました。
ところで、7月13日(金)夜のカルチャーナイトの日に道庁赤レンガ庁舎に出向いたおり、道庁職員男声コーラスの歌に、なんとこの「銀色の道」の歌がうたわれました。作詞家の宮川泰さん(宇宙戦艦ヤマトの作曲家で知られる)が小学校時代に鴻ノ舞にて過ごし、昔の鴻紋軌道の機関車の姿を描きながら「銀色の道」の歌が作詞作曲されたものです。
紋別市で鴻ノ舞の回顧の式典が行われた際、招かれていた宮川泰さんともお話で出来、大変光栄で思い出になっております。今はすでに宮川さんもお亡くなりになりました。
コーラスの銀色の道の歌を聞きながら、紋別での「鴻紋軌道」調査の当時を思い出し、汽車が走っていた鴻紋軌道の姿を頭に描いておりました。
銀色の道はダークダックス、ザピーナツがかつて唄っており、カラオケに行ってもこの曲が入っています。

バチバチ 大木運ぶ馬の橇

2012-04-29 12:51:30 | 歴史
戦時下、終戦真近の年に、カムイラビットは遠軽(えんがる)町瀬戸瀬(オホーツク管内)に住んでいました。尋常小学校1年の頃でした。
これは冬の季節の話しですが、家の前(瀬戸瀬小学校横)の坂道を馬が「バチバチ」に大木を乗せて引いて下って来ます。6頭のつながりであったり、8頭、10頭のつながりであったりと、夕方になると毎日この光景を見ました。当時はまだトラックはなく、馬が大事な力となっていたのです。馬も大事に育てられていました。
「バチバチ」(「大辞泉」にも載っていませんでした)とは今では珍しい言葉ですが、孤立した橇が二つということでしょうか、このバチとバチに丸太(まるた)をまたがせて乗せ一つの運搬橇とし馬に引かせ、木材を山から瀬戸瀬駅(JR石北線)の木場まで下ろすのです。
バチバチについて言葉ではなかなか説明が出来ませんが、むかしの写真を見たり、開拓当時の資料を集めた博物館でようやく見る事ができるのです。
孤立したバチバチの馬が来ると、子供はスキーをはいて「バチバチ」につかまり駅近くまで引っ張ってもらいます。距離は2㎞ぐらいでしたでしょうか。見知らぬ馬主ばかりでしたが「やめなさい、事故が起きる」などといっさい云いませんでした。いま思うとありがたいことであったと思います。
駅からの帰りバチにバチを積んで馬も軽い足どりで家に戻りますが、。この時も子供たちはストックを馬橇にひっかけ、スキーにのったままひいてもらい家近くまで帰ります。日課の様にバチバチについてスキーをしたのでした。
家近くの坂を下りたところに、馬を沢山飼っていた建物があり、興味半分恐ろしさ半分で時たま覗きましたが、馬の気性も荒いためか、馬の動き、いななきが恐ろしく思われました。青、栗毛の肌つやの良い評判の馬が飼われていて、その馬を見たいと覗きましたが、子供心の興味を満たしてくれました。
終戦の年頃からトラックが使われるようになり、山からトラックに積んで木場に運ばれるようになります。沢山丸太を積んだ上に何人もの従業員を乗せて下りてくるのでした。ある時私が住む街角で一人がトラックから落ちて、頭をタイヤに敷かれてしまいました。即死でした。母親が抱きついて嘆き悲しんでいましたが、子供心に心に焼き付いています。当時は安全興業とはほど遠かったのでした。