「闇夜の 満天の星」 胆振東部大地震
大地震の闇夜の中で
満天の星にこころ救われた人が居る
街の灯かりが全て消え 闇夜が襲った時の事
幾千万、幾百万の星 こんなに星空が綺麗なのか
いつもは見せない この自然
地震のあの夜を思い出す
流れ星の消えぬ間に
地震災害少なくしてと 願ったあの日の夜
「闇夜の 満天の星」 胆振東部大地震
大地震の闇夜の中で
満天の星にこころ救われた人が居る
街の灯かりが全て消え 闇夜が襲った時の事
幾千万、幾百万の星 こんなに星空が綺麗なのか
いつもは見せない この自然
地震のあの夜を思い出す
流れ星の消えぬ間に
地震災害少なくしてと 願ったあの日の夜
「芦別・赤平・夕張 どれもが有名な炭鉱都市でした」
カムイラビットは、昭和37年に道立の池田高校の教員になりました。
翌年、夕張北高校で地理の研究大会が開かれ、同教科の大会とあって研修に出させて戴きました。
当時、夕張は炭鉱も下火を迎えていましたが、それでも7万数千人が住んでいて、道東の1万5千人ほどの池田の町とは違い、街も飲み屋街もまだまだ活気がありました。
あの活気があった夕張市は今1万人たらずの人口になったとは驚きです。
私は、ずいぶんたってから赤平高校に勤めたことがありますが、当時石炭の時代の終わりで住友赤平炭鉱が閉山する時代でした。
赤平駅の裏手近くに、今でも当時の立坑やずり山を見ることが出来、炭鉱町であったのだなあと回想させられます。当時は石炭もまだまだ掘り出しており、高校の間口も一学年7クラスありました。赤平市も活気があった当時は、6万人以上の人口がありました。
赤平の石炭の鉱区は隣の町の歌志内市につながっていて、歌志内も結構な市として成長していました。
その後石炭の需要が減り、赤平も歌志内も市の勢いは極端に落ち、街はすたれる一方でした。赤平にあった赤平高校も、歌志内にあった歌志内高校も人口減少により生徒が集まらず、閉校に追いやられました。
赤平は隣の町の芦別市や滝川市にも近く生徒は両市の高校に吸収されてしまったのでした。
赤平に住んでいましたので、近くの炭鉱の市にも関心がありました。
昨日、カメラマンのFさんとお会いし話していましたら、なんと芦別(市)出身とのことで、話が盛り上がりました。彼の当時小学校へ通っていた時は一学年、14クラスはあってマンモス小学校であったと回想していました。石炭時代には芦別(市)も人口7万5千人は超していました。
〇 今、北海道の「炭鉱遺跡群」を「日本遺産」に登録しようという運動がされております。登録されると良いなあと思っています。
「歯舞群島、色丹島二島返還で済まされません」
安倍首相は、北方4島の中の歯舞群島、色丹島の二島変換を進め、日ロ平和条約締結交渉を加速させる考えでいます。
とんでもありません。北方領土は国後島、択捉島を合わせた四島で、第二次世界大戦の終戦直後ロシアが攻めてきて不法占拠したのです。
二島どころか四島は日本の領土です。二島返還で事を済まされては許されることではありません。
二島で幕引きは許されません。
内閣府が7日、北方領土問題に関する世論調査の結果を発表しました。ロシアが法的根拠なく北方四島を占領していることを知らない日本国民が32%もいるといいます。
国民が歴史的事実を学習し、北方四島に関心を持ちつづけ、四島返還を進めなくてはならないのです。
戦後73年も経っているのに何という事でしょう。よくもここまで引き延ばしされているのでしょう。
「日高線 大半廃止」
「国の隅々まで鉄道を!」、鉄道敷き設が日本国発展の手法として取られていました。
全国にくまなく鉄道がひかれて来たのですが、残念ながら北海道の近頃では地方線鉄道廃止の方向に向いています。
私は、「鉄道の維持困難の廃止は、蛸が自分の足を自分で食べてやせ細り死んで行く姿と似ている」と言っているのですが、地方鉄道線廃止は北海道の未来が明るくありません。
国が維持困難な路線を国の支援で持ちこたえて行かなくてはならないと思うのです。
「R日高線 地元7町長合意、日高門別ー様似 廃止容認」のニュースが道新の11月18日に報ぜられ、とうとうやられたかの感じです。
台風の被害で不通の箇所を放置したままのJR北海道の手法の勝ちとなったのです。許せません。
〇「さっぽろホワイトイルミネーション」
札幌市中央区の5会場で11月22日に開幕します。
大通り会場は12月25日まで。
駅前通り会場は来年2月11日まで。
南1条通り、札幌市北3条広場(アカプラ)、札幌駅南口駅前広場の3会場は来年3月14日まで。
おおむね、午後4時30分~10時。
となっています。
「稀勢の里 4連敗」
横綱は強くてあたりまえ、それがなんとだらしない負け方をするものだから・・・・。
稀勢の里は不名誉記録 進退に直面することになりました。
福岡場所 屈辱の4連敗・進退が云々されるまでになりました。
5日目から休場。稀勢の里の苦悩を思えば、可哀想です。
しかし、同情されてすむ問題ではありません。
相撲通の人から温かく見守りましょう。1月場所の成績で進退が決まるでしょうと言われています。
白鵬、鶴竜の休場の中、一人横綱の重みからか、勝たなければならないという気負いからか、多くの人の期待が重荷になったからか、身体がこちこちになり勝てなかったのです。
カムイラビットも見守って来たのに、取りかえしがつかなくなりました。
「えりも岬港のコンブ森への戦い」
戦時下にえりも町の浜近くの森は燃料や建材としてすべて伐採されてゆきました。当時としては止む得ないことではありましたが、後に大きなツケが待っていました。
木が伐採された結果、陸から流れ出た泥水によりえりも岬港側の海の水は赤く濁り、その以前に盛んに採れていたコンブは質が落ち、または採れなくなりました。
海岸では砂塵が舞い、荒れ地から海に流れ出た砂や泥が死の海へと変えていったのです。当時の海は赤く濁っていました。
陸地が荒れた結果、海も荒れ、コンブ森もひん死に追いやられたのです。
森を全滅させて後、悪であることを知ったのは浜に大異変が起きてからの事でした。
現在では「森が浜の幸を育てる」という事は常識となっていますが、当時はその知識も無く、まったく思ってもいない結果を生むことになりました。
えりもの植林に取り組んだ飯田常雄さん
どの様にすれば浜が前のようなコンブの浜にもどるのか、立ち上がった人がおりました。荒れた海岸の砂地に木を植えるしかないと飯田常雄さんと奥さんでした。
砂浜に木を植える運動を呼びかけ推し進めたのです。
はじめは砂地に蒔いた牧草の種子も強風に吹き飛ばされ芽も出ませんでした。
思案の中で思いついたのが、海藻が海岸に打ち上げられていたコンブのはし切れの「ゴダ」を海浜に敷き、そこに種子を蒔いて見ました。種は風から守られて草が生え、林が少しづつよみがえってきたのです。
「ゴタ」を運ぶのも人力でリヤカーでしたので、遅々として草地の範囲は広がりませんでした。そのうち浜の人たちも立ち上がりました。
砂浜にはもうひとつ大きな問題点がありました。土地の構造上から排水溝を掘ることでした。
この仕事も人力ではなかなか進まず苦労が重なりましたが、飯田常雄さんの息子の英雄さんが重機によって進める様になり、一気に林が蘇るようになったのです。今では松の木の他にブナ、ナラ、カシワの木が繁る様になりました。
土づくりに40年の歳月がかかり、飯田常雄さんの半生が森づくりについやされました。
一方、
浜の人たちの大きな望みは、流氷が来て海中の泥の汚れを一掃してくれることを願っていましたが、ある年流氷が襟裳岬までやって来て、海中の汚れを一掃したのです。
その後えりも岬港側もコンブの質も上がり、コンブで生活が経つようになりました。
今襟裳岬に行って見ると、コンブの季節には活動的で活気に満ちています。百人浜への道も森が豊かな地として目に入ってきますが、苦労の末になし得た賜物であったのです。
何時か、昔語りとなり先人の苦労にも感謝しない人たちが出てきますが、ここに記して忘れないようにと念じています。
森と浜とはいつも一体です。森を守ることは海を守ることに繋がっています。
「空襲で両親を亡くし、駅の子に! 戦争孤児の戦い」
餓死、盗み、友の自殺、終戦から始まった悲劇。私は駅の子だったと夫にも話せれなかった。
NHKスペシャル番組「戦争孤児の戦い」夜9時~を見て、身震いしました。大都市の大半は空襲を受けて焼け野原となり、多くの人が苦しみました。まもなく終戦を迎えるのですが、空襲で亡くなった大人が多く、子どもの多くが孤児になりました。
戦争で亡くなった人は310万人、戦争孤児は12万人に及んだと言います。両親を亡くした子供たちは悲惨な生活に追いやられ、上野駅などに集まり生活するのでした。
この孤児たちは「駅の子」と言われ食う物も食べれない生活を余儀なくされました。
上野駅では連日のように死者が出て「何人もの死体を見たか知れませんよ」と回顧する人が画面に出ていました。この人は90歳を超えていました。
戦争中は戦争孤児も「靖国の遺児 しゃとうの遺児」として大切に扱われましたが、終戦後はまったく逆転し、上野駅浮浪児、犬小屋浮浪児などといじめられ、ひとり孤独に陥りました。
戦地から引揚者が600万人、国内の生活は悪くなる一方です。親を亡くした子供たちは多くが死ぬしかないような生活で、ある施設のところでは2700人の土葬者名簿が見つかり、施設でも子供たちは粗雑に扱われたところもあると言います。
今生きられている人の中では、「学校でも、いじめられた。泣いても負けても学校は止めなかった」と話しています。「日本人は、人間は冷たさを持っている者なんだ」と回顧しています。
声もかけられなかったのも苦しいことでした。と言います。
一つ間違えばいじめている人と、いじめられている人が入れ替わっていたかも知れないのに!
「戦争は絶対してはいけない!」の声は切実でした。
〇勉強不足でした「駅の子」と言う話はこの番組で初めて知りました。戦争孤児の苦労は、北海道で戦後生活していた私には想像できない悲惨な状況だったのです。
「忘れもしない 3・11。 当時、津波の惨状をテレビで見ていて、涙が出ました」
7年前の「東日本大震災」では、岩手県、宮城県、福島県の3県を中心に、死者1万5895人、行方不明者2539人とされています。
なお、今でも避難生活者は7万3千人という大変な惨事であった。
自然の脅威には勝てないと思わせる大惨事で、とてつもない被害がを受けたものである。
先日来から、連日、テレビではいろいろな面から取り組まれた特集番組が放送されて、震災の当時を呼び起こさせています。
★東区の画廊喫茶「法邑」さんで、地震地区に3度訪れて絵を描きつづけた絵画展を開いてる伊藤さんの展示会が3月11日(今日)まで開かれており、東日本大震災の様子を伝えています。震災の様子を描いている、作者ともお話しいただき、トークショウにも出向きました。
「インパール作戦」(ビルマ)
イギリス軍と日本軍の戦い。
インパール作戦は、食量補給なく 無謀な作戦であった。
戦死者 3万人 傷病死 4万人という。マラリヤや疫病、飢えで死んだ。
第15司令部 牟田口中将による無謀な作戦。これが裏目に出る。 牟田口は死ぬまでこの戦いの正当性を唱えていた。77歳でこの世を去った。
NHK BSテレビ 12月10日 夜10時から「戦慄の作戦 インパール」が、2時間にわたり放送されました。
進軍の時は乾季でしたが、戦況不利となり撤退する時は雨季の季節、撤退する中で飢えと病で多くの兵士が亡くなった。多くの死者が出て、撤退した路は「白骨街道」といわれているのです。
友軍の死人の肉を切って物々交換をしたという話も、当時戦地に出向いていた軍人の証言もあり、戦いはよほど悲惨であったようです。
三方向から進軍していたのですが、北の31佐藤師団長が独断で撤退を命ずるほど勝ち目は見つからなく、まったく異例ですが、それほどひどい戦いだったのです。
我が家の長男(三好正一)はこの戦いで戦死したのです。
歴史的に検証されたこの放送は印象深い放送でした。
★ 今日、12月10日の午後二時から開かれた「藻岩山の森の音楽会」に出掛けました。
「全国高校野球」
「花咲徳栄高校」が全国制覇を果たしました。おめでとうございます。
埼玉県勢では初となります。
6戦した中で61点を取りましたが この数字に驚きます。よほど打撃練習を工面したのでしょう
準優勝は広島県の『広陵高校』でした。
どの試合も激戦に次ぐ激戦で、目を離せれません。テレビ放送で全国をわかせました。
決勝に近づくと試合の合間がみじかくなり、選手の体調管理が勝利に関係します。
特に投手は連投となり、よほどの体力がなければ優勝はできません。
勝ち進むためには、実力と運が付いていなくてはなりません。
それにしても、花咲徳栄の決勝では良く打ちました。「14対4」とは驚きでした。
★昨日の私は高校野球の時間に合わせ、午前中にフジフォトギャラリー(札幌)の写真展を見て、急いで家に戻り、テレビで高校野球決勝の観戦でした。