『紅色遊渦』(余良、明鏡出版社、2006年)も冷酷非情な中国共産党を激罵する。
著者は中華人民共和国建国の2年前に広東省の片田舎で生まれた。養母と2人の貧しくも心豊かな日々は、1958年の大躍進で終わりを告げる。
毛沢東による現実無視の苛政が原因で生活は困窮するばかり。義母は泣く泣く著者をプノンペンに住む両親の許に送った。
異境で必ずしも安穏とはいえない日々を必死に生きる両親からすれば、食い扶持が1人増えるだけでも家計は逼迫する。
そのうえ、毛沢東思想で育った息子は万事につけ親に反抗的だ。家庭の温もりは虚しくも消え果てる。
後に戦乱の渦中で知るのだが、伯母さんと呼んでいた南ヴェトナム在住の華人女性こそが実母だった。著者は中国、カンボジア、南ヴェトナムの3カ国に跨る複雑な家庭環境に生きる。これも一所不住を常とする華人の宿命だろうが、その上にイデオロギーの桎梏が絡まっているわけだから厄介このうえない。
殺伐とした家庭に嫌気がさしたことから、自活の道を求めて13歳で家を飛び出す。工場勤務の傍ら、「華運」の活動にのめり込んで行った。著者に拠れば、華運とは「華人を組織し現地人民の反米救国闘争を支持し、毛沢東思想を宣伝し、祖国の社会主義革命と建設を支援する」ことを目的に、中国共産党がカンボジアからヴェトナムに連なる華人社会に張り巡らせた革命地下組織とのことだ。
親米反共のロン・ノル政権時代の1970年代前半、著者は華運同志と共に反米救国・民族解放の闘争に身も心も捧げ尽くす。辛い農作業に積極的に参加したのも、身につけていた漢方医療技術で貧しい人々の命を懸命に救ったのも、全て「現地人民の反米救国闘争を支持し、毛沢東思想を宣伝し、祖国の社会主義革命と建設を支援する」ためであった。
毛沢東思想を宣伝しインドシナに根付かせることは、「毛沢東の良い子」が担う光栄ある大義。毛沢東からすれば、インドシナも我が版図だったに違いない。
ロン・ノル政権崩壊後にポル・ポト政権が登場するや、カンボジアには民族浄化の血腥い暴風が吹き荒れ、国土はキリング・フィールドへと激変し、華運の命運も尽きることになる。
矯激な民族主義を掲げるポル・ポト政権は中国共産党から物心両面の強力な支援を受けながらも、華人はカンボジア農民を搾取し続けたと断罪し仇敵視する。
中国共産党の影響下にある革命地下組織だが、華運も華人組織であればこそ、ポル・ポト政権は容赦しない。華運同志の多くは死地に送り込まれ、飢餓の果てに憤死・窮死、あるいは惨死。
ポル・ポト政権からの「華人の中国送還」との申し出を、毛沢東は「カンボジア革命に使ってくれ」と断った。その時、「カンボジア華人の将来は絶たれた」と、著者は苦々しげに綴る。
自らの過酷な運命に絶望した彼らにとって、進撃してきたヴェトナム軍によるポル・ポト政権打倒の戦争は、なによりの福音となったのである。
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和六年(2024年)10月28日(月曜日)
通巻第8478号 より
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ここまで読むとつい思ってしまう。
「結局一番悪いのは誰だ?毛沢東か?周恩来か?それとも鄧小平なのか?」
、と。
そうなると、この歪な「階級史観」を生み出し実行させたのは誰だ、スターリンか、レーニンか。いや、やっぱり総元締めはマルクスじゃないか。
となりそうだ。
そうなると、「いや、マルクスは批判的にせよヘーゲルから学んだのだから一番悪いのはワイワイガヤガヤ・・・・。」
でも、それを言って「一番!」が決まったからと言って何になる。要は同じ過ちを繰り返さないこと。
同じ過ち。それは他者を「人間扱いしない」「他者を認めない」「他者を虫けら扱いする」ことだ。
「構成分子」という言葉は虫けら扱いをしているようには見えないけど、少なくとも「血も涙もある人間」扱いではない。