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水川青話 by Yuko Kato

時事ネタやエンタテインメントなどの話題を。タイトルは勝海舟の「氷川清話」のもじりです。

幸田文「きもの」より こんなおばばさまに私はなりたい

2004-06-27 01:26:28 | きものばなし
背筋がぴっと伸びててしゃっきりしてて、でも窮屈じゃなくゆったりしてる気持の良さ。そんな空気をまとった女性というのは、どこかには確かにいるんだと思う。江戸っ子に多かったんじゃないかと思いたがるのは、自分が江戸っ子の端くれのそのまた端くれだという思いからくる、完全な牽強付会だが、少なくとも、この本の東京・下町には確かにいた。それが作中では「西垣ばば」としか名前の出てこない「おばあさん」。

幸田文の小説「きもの」は、着物にはまった女の多くが通過する「定本」みたいなものらしく、確かにその中の着物の描写や、着物を選ぶ・作る・着る──という行為への洞察の深さは圧倒的だ。なにせ、一人の少女の成長を、ありとあらゆる種類の着物を通じて描いた末に、「肌をかくせればそれでいい、寒さをしのげればそれでいい、なおその上に洗い替えの予備がひと揃いあればこの上ないのである。ここが着るものの一番はじめの出発点ともいうべきところ、これ以下では苦になり、これ以上なら楽と考えなければちがう」というすごい域に、主人公の認識を到達させてしまうのだ。

しかしさらに、着物についての洞察以上に、私は幸田文の文章力に圧倒された。着物という(かなり厄介な)趣味のおかげで、こうして好きな作家がまたひとり増えたのは、それは嬉しい出会いだ。

そしてさらにさらに嬉しかったのは、前述の「西垣のおばあさん」に出会えたこと。私はこれまで、「樹木希林さんみたいなおばさん・おばあさんになりたい」と思ってきた(もちろん、希林さんご本人を知るわけではないので、希林さんのパブリックイメージから勝手にそう思っている)。さらにそこに新たに、「西垣のおばあさんみたいになりたい」が加わった。

西垣のおばあさんは、ともかく物知りでしっかりもので、慌てず騒がずあらゆる事態に準備万端、準備しきれないことは機転でなんとかして、それでもどうしようもなくなったら笑っておくに限るよと言える、それは素晴らしい人。。他人の想いを察し同調することに慧眼で、でも決してでしゃばらず、強引に立ち入ったりしない。自分と他人の境界線をきっちり測ることの出来る、熟練した一流の大人、とでも言える人。短いスペースではおばあさんの、涼風がすうっと吹いてるような鮮やかさを描写しきれないので、かっこいいお年寄りのロールモデルを探している人がいたら、ぜひご一読をお勧めする。

おばあさんは、孫娘のるっちゃん(るつ子)に、例えばこんな風に、着付けの極意を伝えてあげる。

「あたしはね、るっちゃんに一生、かわいい紐を身に付けていてもらいたいよ。よごれないうちにとりかえてねえ」
「なぜ? なぜそんなにとりかえるの。紐なんか何でもいいのに」
「いやだねえ、しみったれたことをいうんじゃないよ」

 おばあさんはしきりに、からだで覚えなさい、といった。踵にさわる感じで、着丈のちょうどよさがわかる。ふくらはぎへ纏いつく感じをおぼえれば、裾のしまり具合がわかる。腰の何処へ紐をわたせば、きりりと軽快に感じるか。どんな強さにしめればいいか。みんなからだで覚えてしまえ、という。


あるいは、家格の高い相手との縁談に浮かれる長女と妻を、父が「追従で着る着物はいやしい」「さもしい気になられたんじゃ、やりきれない」と一通り叱ったところで──

 おばあさんがすっと一膝出た。舟が動いたように、すっと浮いて前へ出た。手をきちんと膝に組んでいる。改まっていた。
「もうここで止めにしておくれでないかね。あたしもつらい。二人だけが考え足りなかったんじゃない。あたしももっと気をつけてやればよかったのに、年甲斐もないことだった」


──と言って取りなす。なんて恰好の良い。しかも「すっと一膝出た。舟が動いたように、すっと浮いて前へ出た」ですよ。幸田文の、なんていう描写力だろう。

るっちゃんが誤って姉さんの婚礼衣装を濡らしてしまうと、おばあさんは──

「大丈夫でなければないで、ちゃんと打つ手はあるから、さわがなくてもいいんだよ」

──と、さっと対処してくれる。なんて頼もしさだ。ほかにも、

「なにをどう滅入ったのかしらないけど、とにかくまあご飯の仕度は早くしてしまおうよ。そんなくよくよには、区切りをおつけ。気持は気持、ご飯はご飯、さらっとおやり」

「ものはすらりといく時も、いかない時もあって、思うようなもんじゃない。あたしは逆らわないほうがいいと思ったね」

「おこるんじゃないよ。腹をたてるのは知恵がないからさ」


──などなどと珠玉の名言がめじろ押しだ。

 関東大震災に襲われれば、

「こりゃどうも、まごまごしていられない様子だね。仕度だけはしておこうよ」
「仕度って、なんの仕度するの」
「だって、この火事を消せると思うかい。ここからじゃ見えないけれど、高いところから見ればこれはきっと、一つや二つの火じゃあるまいに(中略)早いところ見切りをつけないと、いけないかも知れないね」
とか、

「どうしてこんなふうにするの。あたし一人で持てるわよ、これんぽっち」
「だっておまえ、どうはぐれないものでもないじゃないか。こんな際は、一人を元にして考えなければだめだろう」
 はぐれる、一人を基準にして考える──それはどっちが死ぬことじゃないか。ぞっとするようなことばかりおばあさんは言う、と思う。


──とか、なんて冷静でたのもしいのか。るっちゃんが羨ましくさえなる。

 そして着の身着のままでなんとか上野まで避難したものの、下町の家は一切合財全部燃えてしまったって状況でおばあさんは言う。

「取り越し苦労なんか、しけたはなしは大禁物だ」

 そしてさらに、着たきり雀を洗濯しようにも着替えさえなくなってしまった状況で、おばあさんは「アッパッパ」と呼ばれる貫頭衣を着て晴れやかに笑っている。

「ないほど強いことはないねえ。このとしになって、風呂敷を洋服仕立にして着ようとはねえ」
「あら、おばあさんこれ(アッパッパ)着たの」
「ああ、着たさ。ゆかたが乾くうちを裸じゃいられないもの。下のおかみさんやなんかと、涙の出るほど笑ってね。おもしろかったよ。めったに拝めない、地震ゆえの晴着だっていってね」
 これはまた、なんというおばあさんなのだろう。想像しても、ほんとはみじめな事柄なのだ。青唐草の袋みたいなものを着て、細く痩せた手足を出している老婆なのである。気がふれたような格好というほかない。それでもきっとおばあさんは、敢然として着たのだろうし、決してしょぼくれるというようなことはなく、誰より先に自分がおかしがっていたに相違ない。思いついたとなると、明るく、こだわりがなく、けろりとしている人柄だった。


すごい、素晴らしい、そんな賛嘆の言葉が読んでる間中、ぐるぐる頭の中を渦巻いた。こんなおばあさんに、私はなりたい。すごく、なりたい。