2004-09-26 初出
なんちゅう馬鹿げたはなしじゃあ!!!
新選組にまつわる多くの悲劇の中でも、やりきれなさでは一二を争うのが、この河合耆三郎の死に方。その河合役をあの大倉孝二がやると知ったとき、私は頭を抱えたものだ。大倉くん演じる河合が予想をたがわず、どんどん周りに愛される存在になっていくのを見るにつけ、うがあああと喉元をかきむしりたい思いに襲われていた。
うがあああああ!
この河合の死を真正面から描いた三谷は、えらいと思う。誰に言い逃れさせることもなく、土方以下(あるいは近藤以下)全員、新選組っていう組織の愚かしさそのものを真正面から描いたのは、よくやったと思う(そもそもどういう経緯で誰に渡したどういう金の不始末なのかは、三谷オリジナルだと思う。そこに、武田始末のきっかけだけじゃなく、伊東一派と古参との軋轢や谷三十郎の不始末、平助のことや、おまけに左之助とおまさちゃんのきっかけまで一気につめこんで関連づけたのは、ひとつのエピソードの有効活用という感じで上手だ)。
しかし、えらければこそ! 全員があんまり必死に空回りしていて、必死であればあるほどひりひりするほど愚かで、いてもたってもいられず、だから、うがああああ!――――と喉元をかきむしるしかない、この怒りというかやりきれなさ。それは三谷がこのエピソードを真正面から描けば描くほど、増幅されたわけで。
無理に無理を重ねて誕生し、矛盾に矛盾を塗り重ねることで大きくなり、不合理を不合理で補強しながらかろうじて存続してきた新選組っていう組織そのものが、すさまじい金属音を軋ませながら崩壊し始める姿が、いよいよはっきり見えてきた。
(史実では実際どうだったかは、この際、別の話だ。法度にせよ禁令にせよ、規則違反の罰則がすべからく切腹だなんて、そんな馬鹿げた決まりが、実際の新選組でどれだけ徹底されていたかについては、諸説あるので。ここはあくまでも、ドラマの話)
河合は悪くないと誰もが知ってる、その重大な矛盾をさておいても尚、さらに真黒な矛盾がとぐろをまいてまかり通るなんて、こんな組織はおかしい。あらゆる違反行為に対する罰則は切腹しかないなんて、そんな馬鹿げた決まりがなければバラバラになってしまうような組織は、存在自体がそもそもおかしい。
山南の犠牲がどうだとか、近藤がいたらどうだとか、そんなのは前提が狂ったまま組み立てた歪んだ枠組みに、無理な論理展開をこじつけてのっけてるだけにすぎない。
土方がどんなに顔をぐしゃぐしゃに崩して柱に額を打ち付けたところで、だめなものはだめ。あれは、自分が作り上げた愚かしさの桎梏にがんじがらめになってる男の、どうしようもなく無残で滑稽な姿だ。ああ歳さん……とか感情移入して一緒に泣けばそれで済む段階では、もうなくなってる。
「こんなの絶対におかしいっ!」と、内部の人間がなんで言い出さないのか、外部の人間には分からない組織。自分たちのおかしさに内部の人間はなかなか気づかないか、気づいても言い出せない組織。言い出せないうちにとんでもない犠牲が出てしまう、そんな自己破綻した組織。(組織としての閉塞性や内部粛正の横行という側面において)ナチスドイツとかクメールルージュとか連合赤軍とかオウム真理教とか……もろもろの事例によく似ている、そんな側面をもつ新選組の最もイヤで駄目な部分が、くっきりすぎるほどあらわになった。
特に、平助。「飛脚はまだですか」との問いに、何度も首を横に振るしかできなかった平助には、新選組がどんなにおかしくなってしまったか、ひりひりと身にしみたんじゃないか。だから彼は………………。
誤解のないように。私は大河ドラマ「新選組!」に腹を立ててるわけでも、三谷の脚本に腹を立ててるわけでも、キャストスタッフに腹を立ててるわけでもない。救いのない辛いエピソードを、よく真正面からやったとむしろ評価している。そうではなくて、河合切腹のこのエピソードに描かれた、新選組っていう人間組織のあまりの愚かしさに腹を立ててるんだ。
なので、死の衣を青白くまとってしまった総司のぎりぎりな様子とか、それと対比を描くみたいにして、人斬りマシーンであることを自覚的にやめた斉藤とか、本当なら触れたいんだけど、今日はちょっとパスします。
++++++
でもちょっとだけ追記。「ここで河合を救えば山南の死が無駄になる。山南を死なせたということは、いっさいの例外を認めないということ」――だから河合を死なせるしかないだあ? どんなに辛くても、だあ? だあ?!
「私が死ぬことで隊としての結束が固まる。それが新選組総長としての最後の仕事」って言い残した山南の遺言が、そんな風に土方に伝わってたの? そんな意味で? いいのかそんなんで。こんな馬鹿げた顛末で河合を死なせることの正当化に、自分の切腹が使われて、山南はそれでいいのか???
山南の死から新選組のメンツが受け取ったメッセージといえば、女を大事に思う気持ちだった。龍馬が託されて受け取ったものとの違いを寂しく思いつつ、どっちも大事なことだと納得できる部分もあったけど、土方のこれは、誤解というか曲解というか……。山南さん、伝わってない、伝わってないと思うよ。
++++++
さらにつけたし。今回みたいな土方を見させられると、山本の土方でぜひ箱館まで見せてくれい見せてくれたまへよ、お願いだから!と誰かに土下座したくなる(榎本役が誰かはともかくとして)。
こういう無残で愚かな鬼副長の姿は、いろんな桎梏から解放されて北へ向かう土方の姿があればこそ、最終的にバランスがとれるものだと思うから。
******
27日追記: 日本の戦後民主主義ってものには色々と問題はあるんだろうけど、少なくともわたくし如き一般市民のオナゴでも、こんなことを考えられるようになるだけの教育を受けさせてもらえるって意味では、ありがたいものだ。
つまり「河合が切腹させられちゃうよお!」って場面になって、どうせ右往左往するんなら、「罰則の弾力的運用を可能にするため、法度改正の必要があるのではないかあ!」と運動すればいいのにぃ!――という発想をもてるのは、それ自体が戦後って時代と教育のおかげだよな、と。
とはいえ、江戸後期の封建制度は、パブリックイメージで思われてるほどがんじがらめじゃなかったって話はよく見るから、そうだったんだろうな。自分の意見を言ったり話し合いで物事を決めたり、いわゆる「民主的な」ことが全くできない時代ではなかったはずなので、新選組のあの状態を、ただ単に時代のせいにすることもできない。
それにそもそも、新選組は封建的な主従関係じゃないんだから。家臣じゃない同志の集まりだ……って思うのはいいけど、その永倉にしたって、目を剥いて怒ったり殿様に直訴するだけじゃなくて、自分たちで話し合って有効な組織改革に取り組もう――って発想はもてないところが、これはやっぱり教育だったり時代だったりするんだろうか……と話が堂々巡り。
なんちゅう馬鹿げたはなしじゃあ!!!
新選組にまつわる多くの悲劇の中でも、やりきれなさでは一二を争うのが、この河合耆三郎の死に方。その河合役をあの大倉孝二がやると知ったとき、私は頭を抱えたものだ。大倉くん演じる河合が予想をたがわず、どんどん周りに愛される存在になっていくのを見るにつけ、うがあああと喉元をかきむしりたい思いに襲われていた。
うがあああああ!
この河合の死を真正面から描いた三谷は、えらいと思う。誰に言い逃れさせることもなく、土方以下(あるいは近藤以下)全員、新選組っていう組織の愚かしさそのものを真正面から描いたのは、よくやったと思う(そもそもどういう経緯で誰に渡したどういう金の不始末なのかは、三谷オリジナルだと思う。そこに、武田始末のきっかけだけじゃなく、伊東一派と古参との軋轢や谷三十郎の不始末、平助のことや、おまけに左之助とおまさちゃんのきっかけまで一気につめこんで関連づけたのは、ひとつのエピソードの有効活用という感じで上手だ)。
しかし、えらければこそ! 全員があんまり必死に空回りしていて、必死であればあるほどひりひりするほど愚かで、いてもたってもいられず、だから、うがああああ!――――と喉元をかきむしるしかない、この怒りというかやりきれなさ。それは三谷がこのエピソードを真正面から描けば描くほど、増幅されたわけで。
無理に無理を重ねて誕生し、矛盾に矛盾を塗り重ねることで大きくなり、不合理を不合理で補強しながらかろうじて存続してきた新選組っていう組織そのものが、すさまじい金属音を軋ませながら崩壊し始める姿が、いよいよはっきり見えてきた。
(史実では実際どうだったかは、この際、別の話だ。法度にせよ禁令にせよ、規則違反の罰則がすべからく切腹だなんて、そんな馬鹿げた決まりが、実際の新選組でどれだけ徹底されていたかについては、諸説あるので。ここはあくまでも、ドラマの話)
河合は悪くないと誰もが知ってる、その重大な矛盾をさておいても尚、さらに真黒な矛盾がとぐろをまいてまかり通るなんて、こんな組織はおかしい。あらゆる違反行為に対する罰則は切腹しかないなんて、そんな馬鹿げた決まりがなければバラバラになってしまうような組織は、存在自体がそもそもおかしい。
山南の犠牲がどうだとか、近藤がいたらどうだとか、そんなのは前提が狂ったまま組み立てた歪んだ枠組みに、無理な論理展開をこじつけてのっけてるだけにすぎない。
土方がどんなに顔をぐしゃぐしゃに崩して柱に額を打ち付けたところで、だめなものはだめ。あれは、自分が作り上げた愚かしさの桎梏にがんじがらめになってる男の、どうしようもなく無残で滑稽な姿だ。ああ歳さん……とか感情移入して一緒に泣けばそれで済む段階では、もうなくなってる。
「こんなの絶対におかしいっ!」と、内部の人間がなんで言い出さないのか、外部の人間には分からない組織。自分たちのおかしさに内部の人間はなかなか気づかないか、気づいても言い出せない組織。言い出せないうちにとんでもない犠牲が出てしまう、そんな自己破綻した組織。(組織としての閉塞性や内部粛正の横行という側面において)ナチスドイツとかクメールルージュとか連合赤軍とかオウム真理教とか……もろもろの事例によく似ている、そんな側面をもつ新選組の最もイヤで駄目な部分が、くっきりすぎるほどあらわになった。
特に、平助。「飛脚はまだですか」との問いに、何度も首を横に振るしかできなかった平助には、新選組がどんなにおかしくなってしまったか、ひりひりと身にしみたんじゃないか。だから彼は………………。
誤解のないように。私は大河ドラマ「新選組!」に腹を立ててるわけでも、三谷の脚本に腹を立ててるわけでも、キャストスタッフに腹を立ててるわけでもない。救いのない辛いエピソードを、よく真正面からやったとむしろ評価している。そうではなくて、河合切腹のこのエピソードに描かれた、新選組っていう人間組織のあまりの愚かしさに腹を立ててるんだ。
なので、死の衣を青白くまとってしまった総司のぎりぎりな様子とか、それと対比を描くみたいにして、人斬りマシーンであることを自覚的にやめた斉藤とか、本当なら触れたいんだけど、今日はちょっとパスします。
++++++
でもちょっとだけ追記。「ここで河合を救えば山南の死が無駄になる。山南を死なせたということは、いっさいの例外を認めないということ」――だから河合を死なせるしかないだあ? どんなに辛くても、だあ? だあ?!
「私が死ぬことで隊としての結束が固まる。それが新選組総長としての最後の仕事」って言い残した山南の遺言が、そんな風に土方に伝わってたの? そんな意味で? いいのかそんなんで。こんな馬鹿げた顛末で河合を死なせることの正当化に、自分の切腹が使われて、山南はそれでいいのか???
山南の死から新選組のメンツが受け取ったメッセージといえば、女を大事に思う気持ちだった。龍馬が託されて受け取ったものとの違いを寂しく思いつつ、どっちも大事なことだと納得できる部分もあったけど、土方のこれは、誤解というか曲解というか……。山南さん、伝わってない、伝わってないと思うよ。
++++++
さらにつけたし。今回みたいな土方を見させられると、山本の土方でぜひ箱館まで見せてくれい見せてくれたまへよ、お願いだから!と誰かに土下座したくなる(榎本役が誰かはともかくとして)。
こういう無残で愚かな鬼副長の姿は、いろんな桎梏から解放されて北へ向かう土方の姿があればこそ、最終的にバランスがとれるものだと思うから。
******
27日追記: 日本の戦後民主主義ってものには色々と問題はあるんだろうけど、少なくともわたくし如き一般市民のオナゴでも、こんなことを考えられるようになるだけの教育を受けさせてもらえるって意味では、ありがたいものだ。
つまり「河合が切腹させられちゃうよお!」って場面になって、どうせ右往左往するんなら、「罰則の弾力的運用を可能にするため、法度改正の必要があるのではないかあ!」と運動すればいいのにぃ!――という発想をもてるのは、それ自体が戦後って時代と教育のおかげだよな、と。
とはいえ、江戸後期の封建制度は、パブリックイメージで思われてるほどがんじがらめじゃなかったって話はよく見るから、そうだったんだろうな。自分の意見を言ったり話し合いで物事を決めたり、いわゆる「民主的な」ことが全くできない時代ではなかったはずなので、新選組のあの状態を、ただ単に時代のせいにすることもできない。
それにそもそも、新選組は封建的な主従関係じゃないんだから。家臣じゃない同志の集まりだ……って思うのはいいけど、その永倉にしたって、目を剥いて怒ったり殿様に直訴するだけじゃなくて、自分たちで話し合って有効な組織改革に取り組もう――って発想はもてないところが、これはやっぱり教育だったり時代だったりするんだろうか……と話が堂々巡り。