上のリンクから飛んだ先にあるNational Theatreの映像は、ローリー・キニアがハムレットを演じたNTオリヴィエ劇場で、2011年1月に行なわれたインタビューセッション。「ハムレットを演じるとは」について語っているこれ、ものすごく面白い! なので以下、要点を抜粋してみました(大事だと私が思ったところを太字にしてます)。
・オリヴィエ劇場には7~8歳のころから芝居を観に来ているし、12歳のときにはイアン・チャールソンのハムレットをここで観た。
(それは! リチャード・エア演出ので、ダニエル・デイ=ルイスが途中降板したやつで、イアン・チャールソンの遺作となった、伝説の舞台!)
・稽古は、全員で本読みを始める2週間前にまず殺陣の稽古だけを先にやって、そのあと7週間かけて本読みから場面ごと、前半だけ、後半だけと作っていって、最後に通し稽古と積み上げていった。体力的にも大変だし、感情面でこれは重労働だと稽古中に自覚するようになった。この作品そのものの歴史的な重みと、この劇場の歴史的な重みと、そういうものも併せて。加えて7~8週間の稽古ではずっと壁に向かって独白を稽古してるわけだけど、プレビューが始まると1200人を前に、自分の演じる役の旅路を作り上げていくことになる。それは大変なことだった。
・カンパニーが揃って稽古が始まるまでは、あまりああしようこうしようと考えておくのが好きじゃない。稽古を始める1年半前から、(演出の)ニック・ハイトナーと、戯曲のテキストについて話し合いを始めた。でも実際に何をどうするか考え始めたのは、カンパニーが揃ってから。その前には独白を覚えたけど、それだけ。人と人が出会って役と役がぶつかりあって初めて、何をどうするかが決まっていくと思うので。
・大学入学資格試験A Levelと大学(彼はオックスフォード大学ベイリオル・コレッジ出身、英文学専攻)で「ハムレット」を勉強したので、けっこうよく知ってる作品だと思ってた。少なくとも、レポートの課題として出される論点は分かっていると思ってたと(——ゆえに、戯曲のテキストではこう書いてあるんだけど……という言及がすらすらと口をついて出てくる)。そういう分析は自分の演技に入れないようにしているとも。ただ、学問的にシェイクスピアを検討するのと演技するのは違う。レポートや論文なら、シェイクスピアのテキストが提供する多面性や柔軟性をあらゆる方向へ向かって思う存分探検できる。ここはこういうことかもしれないし、あるいは別のこうかもしれないと。でも演じる時にはどれか一つを選ばなきゃならない。なので、この場面では演技はこうすると選んでいく作業が、稽古中に一番楽しかった。
・たとえば、本当に狂ってるわけではなく狂ってる振りをしているんだというのは、意識的な選択だったと(これもハムレットが母に言う「But mad in craft」の台詞で明確だと)。そして父王の亡霊を目撃したことで打ちのめされ、恐怖に取り憑かれていると、そういう演技プランを自分で選んだのだと。
・ほかに演技プランで選んだのはたとえば、母ガートルードとの場面。「フロイトの要素を排除した」って(やっぱりね)。「90年来の二日酔いを追い払った」と。「あれは1920年代にフロイトがはやってたから、母と息子の関係をそういう風に描いて、それが以来ずっと定着してるけど、テキストにそういう解釈を支える要素はない。舞台にベッドを置いてガートルードに寝間着を着せれば、どたんばたんとやった方が面白いねってことになるけど、あれはCloset Sceneであって、ベッドルームの場面じゃない」。
(ちょっと解説すると、シェイクスピアの時代のclosetとは今の「押し入れ」的なものと違い、オフィス的な意味だったと別の解説本でも読んだ。だからこのプロダクションのCloset Sceneは客間のようなセットだったのね。そして、ハムレットとガートルードの関係にフロイト的な、エディプス・コンプレックス的な要素を最初に持ち込んだのは、確か俳優ジョン・バリモア)
・人生が壊れ始める前のハムレットがどういう男だったか見えないけれども、前はガートルードとの関係も、オフィーリアやローゼンクランツとギルデンスターンとの関係も、幸せで温かい関係だったんじゃないか。そういう片鱗を見せると面白いと。
・To be or not to beの独白の最中などハムレットが随所でタバコを吸うことについて聞かれて、「ハムレットは、亡霊を見てからタバコを吸うようになる。あれは僕自身が大学でストレスで落ち込んだときにタバコを吸い始めたことから来てる」と。「大学でのストレス」って部分、すごい共感したw。
・シェイクスピアを「現代版」にする難しさについて訊かれ。芝居の全ての要素が全て現代に置き換えられるわけではないけど、たとえばスマートホンを使うハムレットはどうだろう。だったらハムレットは海賊との顛末をホレイシオーに手紙じゃなく、メールすればいい。海の上だから通信状態が悪かったのかもしれないけど。現代の役者の感覚を1600年代に持っていくよりも、シェイクスピアの言葉を現代に持ってくる方が、距離はうんと近い。たとえば現代イギリスと限定した現代版は難しいと思う。特に劇中の宗教の扱いが今のイギリスみたいに無宗教な国だとしっくりこないと思うので。でも、ソ連の衛星国くらいなら(宗教の重要性も)大丈夫なんじゃないか。
・設定が現代だからだらしない姿勢をしたり、動きやすかったのでは?と質問され、演技にあたっては実際の現代の王子たちを意識していたと。イギリスの王子だけでなく欧州各国の。公式行事では王族らしく振る舞うだろうけれども、それ以外ではけっこうラフで楽な格好をしていたりすると。私も、彼の演技を観ながらあちこちで「服装といいたたずまいといい、現代の王族、現代の王子っぽいなあ」とすごく思っていたので、これには「やっぱり!」と膝打ち。
・2004年にOld Vicでベン・ウィショーが主演したトレヴァー・ナン演出のハムレットに、レアティーズとして出演。その時の作品解釈が今回に影響は?と訊かれ、「当時はOld Vicから歩いて10分のところに住んでたんで、(レアティーズがずっと登場しない中盤)いったん家に帰って、当時やってたサッカーの欧州選手権を一試合観てた」という有名な発言。だからベンのハムレットをほとんど観ていないので、影響されようがなかったとw ローリーは自分がハムレットをやると決まって以来、ほかの人のハムレットは影響受けたくないので観なかったそう。
・あと「A Levelで素晴らしい先生についてハムレットを勉強したし、大学でもやったし、英文学の学位をもってるので、最初の本読みでテキストが理解できなくても2度目、3度目には分かるだろうっていうそういう思いはある。シェイクスピアのテキストを恐れなくていいっていう、そういうのはある」とも。そしてハムレットを演じるのは、結局は彼がどういう人間で何を考えているか探ることなので、ほかの役と同じだと。
・奇妙なことに、ハムレットをやるとなったら周りから、「それはなんて大変な」と否定的なこととして言われることがとても多かったが、自分は否定的にとらえたことが全くない。長年の歴史が伝統が負担でしょうと言われたけれど、むしろい長年の歴史や伝統を知っているから、自分が何をやってもこれが最後のハムレットになるなどありえないと分かっているので、おかげでむしろ気が楽だった。とても自由な気持ちだった。まったくの新作を渡されて演じるよう言われる方が、よほどプレッシャーだ。自分次第でその作品の成否が決まってしまう、下手したら20年は上演されないかもしれないんだから。
稽古中に自分が何かをこうやろうと提案したら「それは198X年版のと一緒で」と言う人がいたので、「僕がここではこうしよう、あそこではそうしようと決める一つ一つは、過去にいつかどこかで別の誰かがやったはず。でも全体としてみれば、個々の選択を組み合わせた全体は、本邦初のものになるので」と言ったと。
・演出のニック・ハイトナーがローリーをはじめこの公演の役者たちが「考える速度で演技する」「決まった名台詞ではなくその時に浮かんだ言葉として演技している」のを褒めていると言われ、それはどうやるのかとの質問にローリー。「言葉をその都度その都度で受け止めて、歴史の鎖を振りほどくことです」と。「この役が、周りの状況にどう影響されているか考えながら言うこと。独白は極力、展開している物語そのものと結びつけること。一番大変な独白はTo be or not to beで、いっそ削っちゃおうかと思ったんだけど(笑)、でも観る人はこの独白を待ってるから切るわけにもいかなくて。なので、ハムレットはどういう状態であれを言うのか、特定する必要がある。シェイクスピアは大作で長時間の作品だから、急いで言っちゃいたくなるかもしれないけど、急いで言うわけにはいかない。人は何かを思ったからそれを言葉にすることが多いわけで、その2つがしっかり結びついてなきゃならない。たくさんいろんなことを考えてるんだから、それを言葉できちんと示すために時間をかけてもいいはずだ。それで最後には、こんなにいい作品でいい台詞なんだから、急いでやらなくても観る人は興味を持ってくれるだろうと信じるしかない。大作ですみませんとか思わなくていい。何をどう思っているからこの言葉が出てくるのかはっきり分かった上で、それを言葉と結びつけて言えば、客は興味をもってくれるはずだと、そういうつもりでやってた」
・「悲しいハムレット」とか「怒れるハムレット」とかハムレットの前に「○○」と形容詞をつけることがあるけど、自分はどういう一言がいい?と訊かれ、「一言で形容されるのが一番困る。ただひとつの形容詞にまとめられてしまうのが。だってすごくがんばってるのに」と。自分がシェイクスピアをやるときに一番大事なのは、観客がわかってくれること。役がどういう変遷をして、物語がどう変遷するのか、客がわかってくれることだと。そのために自分は「言葉」をきちんと伝えようとしている。シェイクスピアの言葉をきちんとお客さんと共有できれば、自分たち役者は芝居にとってさほど大事な存在じゃなくていい、自分たちは言葉を伝える道具だと思ってると。なので形容詞をひとことつけるなら自分はなにより、「理解されたハムレット(understood Hamlet)」になりたいと。
——ローリーのハムレットがなぜ、あれほどまでに「分かりやすい」のか、このインタビューを観て「なるほどなあ」と理解できたし、逆に「こういうつもりで演じてるんじゃないか」と私が想像していたことを本人も言っているので「やっぱりなあ」と嬉しくなった。そしてこの両方を合わせるとつまり、本人が「こうやろう」と思った演技プランがそのまま形となって観客(私)に届いているということになり、それは彼の表現者・演技者としての力量をそのまま表しているじゃないかと、感服した。「シェイクスピアの言葉を観客と共有したい」「理解されるハムレットになりたい」という、まさにその通りのことを実現できている。シェイクスピアの、しかもハムレットで、それができるというのは、改めてすごいことだと思った。