映画版Tinker Tailor Soldier Spy(邦題「裏切りのサーカス」)について少し。以下、ネタバレありありです。
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日本の劇場版パンフレットを友人に見せてもらい、「これってそう思う?」と質問された。
「なになに?」と見るとそれは、原作の新訳を担当された翻訳者・村上博基氏の文章。
いわく「最後大詰め、プリドーがもぐらを狙撃するのは、カーラと通じて自分を半殺しの目にあわせたことへの意趣返しだが」と。
ええええええ??? そ、それだけですか???? 「意趣返し」って、それだけ? そんな、単色で塗りつぶせるような感情か???
パンフレットという性質上、ここでネタバレができなかったからこういう書き方なのかという気もしなくもないが、けれどもそういう配慮の上でこういう書き方になったとうかがわせる書き方でもない。
これは、口幅ったいですが、あまりにあんまりな、表面的すぎる解釈ではなかろうか。
どう解釈するかはもちろん各自の自由なので、以下は私の解釈。
あれは、自分を裏切った最愛の人に対する怒りと、悲しみと、そして愛のこもった行為だと思う。いまDVDで確認できないんだけど、たしかコメンタリーではアルフレッドソン監督もあの場面で、「彼は彼を愛してるんだよ」と言っていた。
少なくとも原作と映画では、あれが「愛の行為」だという部分が強く出ていたと思う。ドラマ版だと怒りの要素が強いけれども。
自分が誰よりも愛した相手が、誰よりも自分を裏切ってはいけなかった相手が、自分を裏切っていたという怒り。それは、もちろんある。
けれども一方でジムは、その彼を愛して熟知しているがゆえに、裏切り者がいるとなったら彼に違いないと真っ先に察し、そしてわざわざ警告にまで行っているのだ。
徹底的に裏切られた後、最後にああした行為に及んだジムを突き動かすもの。それが、意趣返しだけのはずはない。
一つの行為の動機となる感情や意図は、決して単一ではあり得ない。人は複数の矛盾する思い、相反する衝動を抱え、その狭間で苦しみながら動くのだ。ル・カレ文学では特に。というかほとんどの文学では。
もぐらがなぜああいう裏切りに及んだか、その理由を誰よりも承知しているのがジムだろう。ゆえに、最愛の人を「もぐら」にしてしまった世界への、憤りやあきらめや悲しみを誰よりも強く抱いているのもジムだと思う。
そして加えて、ジムは彼を愛していたのだ。その愛する人が、暴露された二重スパイとしてソ連に送還される。そこで「もぐら」がどういう扱いを受けるのか、原作の終盤で色々な人が色々な憶測をしている。誰にも本当のことなどわからない。英雄としてメダルをもらうのか。銃殺されるのか。メダルをもらったあとに拷問されて銃殺されるのか。どんな辱めを受けるのかも分からない。
そんな状況に愛する人を送り込みたくない。だから自分の手で殺した――そういう解釈だってあり得るではないか。
そうだ、と断定するつもりはない。けれどもジムがビルを愛していたことは、原作にも描かれている。二人がそういう関係だったことは、ドラマ版でも示唆されている。まして映画版では、二人の間にあった愛情はさらに明示的だ。
だから、彼のあの行為がただ「意趣返し」という言葉だけで説明されるものとは、私はとても思わない。
あれが愛の行為でなければ、原作を締めくくるジムの言葉、「We were new boys together」が、あれほど美しく悲しく哀惜に満ちて響くはずがないではないか。
以前書いた、Tinker Tailor Soldier Spyの原作とドラマ版と映画の比較はこちらです。
(追記・あまり翻訳者の方をことさらに批判するのもアレですが、パンフレットの文章によると、BBC版ドラマをご覧になっていないとのこと。そして、映画でスマイリーのメガネが過去と今を表現しているとお気づきにならなかったと。ふむ……)