■ Disc 2
01 戦争を知らない子供たち(ジローズ) 1971年(昭和46年)
1970年、第2次ジローズとして再結成。メンバーは杉田二郎と森下次郎の2人。
オリコンチャート最高11位、累計で30万枚以上[1]を売り上げるヒット曲となった。
ジローズはこの年の第13回日本レコード大賞新人賞を、北山修は作詞賞を受賞した。
世はベトナム戦争の真っ最中であり、日本国内でも、一部の文化人や学生を中心に、反戦平和運動は盛り上がりを見せていた。
そのような中で発表されたこの曲は、日本における代表的な反戦歌となった。
02 夜が明けたら(浅川マキ) 1969年(昭和44年)
浅川マキさんは、「渇いたブルースをうたわせたら右に出る者はいない」と言われ、ジャズ、ブルースやフォークソングを独自の解釈で歌唱した。
1968年、寺山修司に見出され新宿のアンダー・グラウンド・シアター「蠍座」で初のワンマン公演を三日間に渡り催行、口コミで徐々に知名度が上がる。
1969年に発表した「夜が明けたら」は、蠍座での実況録音。
歌の終わりには機関車の出発音、航空機の離陸音も入っている。
03 たどりついたらいつも雨ふり (モップス) 1972年(昭和47年)
1966年、埼玉で結成。
鈴木ヒロミツをボーカルとする五人組バンド。
サイケデリック・ロックの草分け的存在として知られている。
歌謡曲とフォークブームに追いやられ1974年に解散。
鈴木ヒロミツは俳優・タレントに転向して活躍したが、2007年に60歳で亡くなられている。
04 あの素晴らしい愛をもう一度(加藤和彦と北山修) 1971年(昭和46年)
1971年4月5日にレコード発売。
北山修が作詞、加藤和彦が作曲し2人の連名で発表した。
この曲はたくさんのカバーがある。
05 ぼくの好きな先生 (RCサクセション) 1972年(昭和47年)
忌野清志郎をリーダーとしたロックグループ。
1970年デビューし、この曲は3番目のシングル。
1991年無期限の活動停止に入り、2009年に忌野清志郎がガンで死去に伴い事実上の解散となった。
06 眠れぬ夜 (オフコース) 1975年(昭和50年)
高校に在学中に小田和正、鈴木康博、地主道夫らが結成し、1970年に「群衆の中で」でレコードデビューした。
しかし、長年ヒット曲に恵まれなかった。
そんな中で1975年に発売されたこの曲はスマッシュヒットをした。
ジャケットは、小田和正、鈴木康博の2人。
この曲は、同日発売されたアルバム「ワインの匂い」のシングルカットである。
07 さよなら(オフコース) 1980年(昭和55年)
1979年12月1日に発売されたオフコース通算17枚目のシングルで、結成10年目で初めてヒットした曲である。
オフコースとしては最大のヒット曲となる。
08 YES-NO (オフコース) 1980年(昭和55年)
「さよなら」の大ヒットの後に発売された通算19枚目のシングル。
09 私は泣いています (りりィ) 1974年(昭和49年)
父親は米空軍の将校でりりィさんはハーフ。
10歳で上京し東映の児童劇団に所属するが1年で辞める。
高校には行かず、17歳で母が亡くなり、生活のためスナックで弾き語りをする。
1972年20歳のとき、東芝EMIより歌手デビュー。
独特のハスキーヴォイスで一世を風靡。
1974年のシングル「私は泣いています」が97万枚を越える大ヒットを記録した。
その後結婚をし数年間は主婦業に専念したが、1997年頃から復帰した。
音楽のほか女優としても活躍しており、ドラマ・映画・CMに多数出演している。
長男は、ロックバンド・FUZZY CONTROLのJUON。
10 心の旅 (チューリップ) 1973年(昭和48年)
前身は1968年12月、田中孝二をリーダーとし、西南学院大学在学中に 福岡市で結成されたザ・フォーシンガーズ。
その後財津和夫が吉田彰、末広信幸と共に参加。
第3回全日本ライト・ミュージック・コンテスト(フォーク部門)に出場し、九州代表としてグランプリに進出する。
この時の第一位は「竹田の子守唄」の赤い鳥(関西・四国竹代表)、
第2位は小田和正在籍のジ・オフ?コース(東北地区代表)。
1972年、上京。「魔法の黄色い靴」でメジャーデビュー。
翌1973年に出した3枚目のシングル「心の旅」が5か月かけてレコード売り上げ1位を記録し、一躍有名となった。
11 銀の指環 (チューリップ) 1974年(昭和49年)
1974年1月20日に発売されたチューリップの通算5枚目のシングル。
「心の旅」から続く姫野ボーカル3作目。
これまでのシングルとは異なるアップテンポな仕上がりとなっている。
大磯ロングビーチ(神奈川県)での合宿中に短時間で作られ、海外(ロサンゼルス)でレコーディングされている。
この曲のリリース後、姫野は声帯にポリープが見つかり、手術などで休養していた時期があった。
その間、TV番組などに出演した際には、財津が代わりにボーカルを務めていた。
12 サボテンの花 (チューリップ) 1975年(昭和50年)
この曲が有名になったのは、1993年のフジテレビ系ドラマ「サボテンの花〜ひとつ屋根の下より〜」の主題歌として採用された事。
ドラマが高視聴率だったこともあり、60万枚以上の売り上げを記録した。
もっとも、この時は、財津和夫のシングルとしてであり、1975年版のセルフカバーであった。
13 港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ (ダウン・タウン・ブギウギ・バンド) 1975年(昭和50年)
自身の代表曲であるが、発売当初は「カッコマン・ブギ」のB面曲だった
…が、発売前に表題曲が有線チャートで急上昇したため、発売1か月後に「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」をA面に格上げして再発売した。
累計売上はミリオンセラーに達した。
阿木燿子の作詞家としてのデビュー曲である。
作曲は夫である宇崎竜童。
14 我が良き友よ (かまやつひろし) 1975年(昭和50年)
「ザ・スパイダース」の元メンバーでもある。
GSの衰退によりソロ活動する。
この曲はフォークソングであり吉田拓郎が作詞・作曲をしている。
音楽活動の傍ら、テレビドラマ『時間ですよ』や映画『戦国自衛隊』といった映像作品にも出演していましたが、覚えていますか?
父は、日本に初めてジャズを紹介し広めた、日本ジャズ界の草分け的存在であるジャズシンガーのティーブ・釜萢。
長男のTAROかまやつこと、かまやつ太郎はアーティスト。
ジャズシンガーの浅田陽子は母方の叔母、
ジャズ・トランペッターの森山久は義理の叔父(浅田の夫)。
フォーク歌手の森山良子は従妹、
元歌手の森山奈歩(おぎやはぎの小木博明の妻)は従姪、
シンガーソングライターの森山直太朗は従甥にあたる。
…と、まさに音楽一家。
15 冬の稲妻 (アリス) 1978年(昭和53年)
1972年「走っておいで恋人よ」でデビュー。
プロデビュー当時はヒット曲に恵まれず、メンバー三人とマネージャーの合計四人で運搬できる楽器として、矢沢は本来ドラマーなのに手荷物として持ち運びが可能なコンガを持って、谷村、堀内のフォークギター二本とともにツアーやライブに明け暮れる毎日だった。
しかし、「特急の停まる市の市民会館にはほとんど行った」(谷村)と語るほどの地道なツアー活動をすることで潜在的ファンを増やしていった。
1974年には年間303ステージという無茶苦茶な記録が残っている。
その中には知名度向上だけを目的にしたノーギャラ・交通費事務所側負担の赤字ツアーもあったという。
ツアーの成果と、谷村の『MBSヤングタウン』や文化放送『セイ!ヤング』のDJ、そして関西カレッジフォーク界で有名だった立命館大学と同志社大学のOB三人組ウッディ・ウーの「今はもうだれも」のカバーヒットを契機に徐々に売れていった。
この曲は、通算11枚目のシングルでスマッシュヒットした。
この年には日本人アーティストとして初めて日本武道館3日間公演を成功させるなど、一時代を築いた。
16 チャンピオン(アリス) 1979年(昭和54年)
自身最大のヒット曲であり、初のオリコン1位を獲得した。
ボクシングのベテランチャンピオンが若き挑戦者に敗れゆく姿を表現した曲。
曲に出て来るディフェンダーのモデルは、当時活動していたプロボクサー選手のカシアス内藤。
なお、エクシングの子会社BMBのカラオケUGA(旧U-kara)には、本物のプロボクシング世界王者である内山高志が出演している。
17 君のひとみは10000ボルト (堀内孝雄) 1978年(昭和53年)
アリスの堀内孝雄がソロとしてリリースしたシングルである。
1978年の年間第4位に輝くなど、90万枚を越す大ヒットとなった。
この曲はよく100万ボルトと間違えられるが、正しくは1万ボルトである。
この曲は始めから資生堂のCMソング前提として作られた曲であり、タイトルも資生堂が決めたものである。
CMのモデルはルーシー島田さん。
18 マイ・ピュア・レディ(尾崎亜美) 1977年(昭和52年)
シンガーソングライターであり、
松田聖子「天使のウィンク」「ボーイの季節」、杏里「オリビアを聴きながら」、観月ありさ 「伝説の少女」など、他のアーティストへの楽曲提供も多数手掛けている。
この曲は、シングル3曲目であり自身最大のヒット曲である。
資生堂のCMに起用されヒットした。
モデルは、小林麻美さん。
そして驚くことに、
昨日のニュースで、25年の沈黙を破ってまずはファッション誌「Kunel」の表紙を飾り、そして連載も開始という話題が発表されていました。
19 HERO~ヒーローになる時、それは今 (甲斐バンド) 1978年(昭和53年)
1974年、シングル『バス通り』でデビュー、1986年に解散した日本のロックバンド。
但し、2009年に再結成しています。
この曲は自身初のオリコン1位を獲得し、爆発的な人気となった。
服部時計店のCMソングに起用され、バンド・メンバーが登場するCMが1979年1月1日の0時ちょうどに、民放各局から一斉に放送されたのである。。
ややしゃがれた声のリードボーカル、甲斐よしひろが「HERO ヒーローになる時、アハーそれは今…」とゾクッとするようなフレーズをシャウトした。
デビュー2年目からテレビ出演をせず、年間100本のステージをこなし続けてきたライブにこだわるバンドが新年早々、時計の「SEIKO」のCMを通して、あけましておめでとう代わりに強烈なインパクトのあいさつを全国に届けた。
このCMの反響は大きかった。
正月からテレビ局をはじめ、SEIKO本社の電話は鳴りっ放し。
歌謡曲、演歌、時々ニューミュージックの歌手がテレビの歌番組に出演する主流とすれば、ロックバンドはまだ正当に評価されてはいない時代。
それでもリスナーの感度は敏感。サビを聞いただけで、魂を揺さぶられた。
20 安奈(甲斐バンド) 1979年(昭和54年)
『裏切りの街角』『HERO(ヒーローになる時、それは今)』に続く、甲斐バンドで3枚目のベスト10入りを果たした楽曲である。
イントロのギターは、浜田省吾が弾いている。
これも、たまたまレコーディングに来ていた浜田に直接頼んだという。
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