『くに楽』  『日本民家集落博物館ボランティア日記』

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日本民家集落博物館ボランティアからのメッセージ

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之九拾四

2016-01-31 13:34:29 | はらだおさむ氏コーナー
SさんとKさんと・・・
 
二年ぶりに上海のSさんから電話があり、宝塚のホテルで会った。
かれとは30余年前からの知り合い、ひんぱんに電話やメールなどをしているわけではないが、会うとかれのはなしぶりに引き込まれ、いつまでもそのやりとりが脳裏に残る。
80年代の半ばであったか、かれが上海の貿易公司に勤めていたころ知り合ったのだが、90年のはじめに大阪で会ったときは、<「北京愛国」、「上海出国」、「広州売国」>のムードのなか、滑り込みの「就学生」になっていた。どんな辞め方であったのか、勤務先の公司から日本の顧客に「触れ状」が廻ったらしい。日本でもときおり退職者の動静について、「当方とは一切関係がない」旨の挨拶状が出されることもあるが、中国ではそういう習慣がない。俺って、日本語を勉強するために日本に来ただけなのに・・・生活のためには、アルバイトぐらいはしますよ、元の公司がおっとり刀で「触れ状」を出してくれるほどの“大物”でもないのに・・・とぼやいていたが、そこでニンマリ、日本の人は親切だな、この“触れ状”を見て、みなさん、いろいろと手を差し伸べてくださっている、とのことであった。
かれは愛煙家だが、酒は飲めない。
わたしが主管していた季刊の『上海経済交流』誌(97年6月号)に、かれの短編小説「濡れた煙草」が掲載されている。文革で雲南へ下放中の思い出を綴ったもの・・・「あれは1973年7月のことだった。・・・山津波がおこり・・・僕たち孤島に残された愛煙難民はもう十日も煙草を切らせていた」(『上海小説界』1989年第3期)。
 かれはビジネスマンであったが、文筆家でもあった。
 阪神・淡路の地震で倒壊家屋の下敷きで命を落とした衛紅さんの翻訳による「香米」は、94年12月号の前掲誌に掲載されている。同じく下放中の思い出を題材にしているが、「・・・私は兵団を離れて上海に戻ってからすでに十数年になった・・・数日前あるスーパーで、私はきれいに包装された香米をみつけた」という末尾の描写は、これを映画化するならこのシーンから、むかしの思い出に入りたいところである。
 かれが日本に来たときは、「就学生」であったことは、前にふれた。
 よくわたしの事務所に遊びに来て、かれの口にする下放中の話に引き込まれた。ビルマへ越境・脱走した友達のこと、「文革」終結後、兵団本部を仲間と襲撃、「証明書」を書かせて上海へ“凱旋した”ことなどなど、その語り口は「小説」より面白い。
 日本で大学を卒業して、起業し、社長になった。
 何年か経ったあるとき、数枚の不渡り手形(計千数百万円)を持って現れた。
 回収できたら、半分差し上げるとのことだが、これはむつかしい。
 そのころだったか、日本のテレビドラマ「東京ラブストーリー」の中国放映権を獲得、上海の東方テレビで放映された。これには何人かの友達が参画したようだ。話題沸騰・・・北京電視台をはじめ、中国の津津浦浦まで放映された由だが、中国人のかれが、中国ってどうなってるんだ!放映権収入は、上海だけしかないなんて・・・と、ボヤイタらしい。

 二年前に会ったとき、『上海文学』誌をかざして、上海のノーベル文学賞や、とご機嫌であった。
 この小説「冷たい河」(這条河好冷清)は1万数千華字の中篇、これを日本語に翻訳して日本で出版したい、とのはなしだったが、それは、どうなったのか・・・。
 宝塚のホテルではこの本のはなしはなかったが、「花の道」の喫茶店の喫煙ルームに入ると、かれの口調はなめらかになった。まるでチェインスモーカー、禁煙は数時間でもがまんできるとのことだが、わたしは煙に巻かれる。
 あるひとに日本語に翻訳してもらったが、気に入らない。わかるでしょう原田さん、翻訳はことばの置き換えではない。そう、小説の翻訳は、創作だよな、とわたし。かれは、やおらKさんは、いまどうしておられるかなぁ、と聞いてきた。前掲「濡れた煙草」の翻訳者だ。この『上海経済交流』にもKさん翻訳の短編小説は、ほかにも数編掲載されている。
 う~ん、Kさん、ねぇ・・・。

 わたしがはじめてKさんにお会いしたのは、会社をやめて対中投資諮詢の仕事をはじめたときであった。それまでは中国語のよくできる仲間がいたので、出張ベースのわたしはオンブにダッコですごしていたが、「対中投資諮詢」の仕事は、イチからのスタート。はじめて「中国語」の勉強をはじめた。その講座でお会いしたのが、Kさんであった。わたしより10歳以上年上、多分60歳は越えておられたか。土曜日の午後、上海から来ておられた講師の、2時間余の授業のあと、“老師”を囲んでティータイム、それからもう一杯がアルコールになり、Kさんとはよくお話をさせていただいた。
 なぜ、中国語をはじめたのか・・・そこにはKさんの青春の思い出があった。
 旧制高校で、すこし漢語を勉強し、学徒動員で戦地に赴いた。肩書きだけの少尉で、それでも一隊の長であった。部下はほとんどが年長者、少尉殿とはいってくれるが、なにひとつできない。桂林での戦闘のとき、掃討戦で民家をしらみつぶしにしていた部下が、少尉殿、この本にこんな紙切れが入っていました、なにか秘密文書でしょうか、と持ってきたそれには「あなた、わたしはこれから延安に行きます、お大事に」と書かれていた。延安は中国共産党の革命根拠地、Kさんはこの本の作者とその愛人の別れを、戦塵のなかで胸に蔵った。
 M電器の中南米担当部長であったKさんは、55歳で定年退職した。上司や得意先の方々は引き続き他の部署で仕事を継続して欲しいと望んだが、Kさんはこの桂林での作家とその愛人との行方を調べることに後半生を託した。この作家は中華人民共和国成立後しばらくして、右派として消されていた。延安に行くと置手紙した彼女の行方はつかめなかった。
 Kさんは、このふたりのことはあきらめ、新生中国の若い作家の紹介をと、中国語の再学習に取り組み、北京に三年ほど語学留学のあと、翻訳をはじめられた。わたしが主管の『上海経済交流』にも数編の短編を翻訳、掲載していただいた。Sさんの「濡れた煙草」もそのひとつであった。

 Kさん、ねぇ・・・。
 10余年ほど前、Kさんから80歳を迎え、これから年賀状を欠礼します、との挨拶状をいただいた。わたしもいまその歳を越えて、その気持ちはわかるが、バカ正直に音信不通を続けていた。Sさんに、Kさんはいま、どうされていますかと聞かれても、返答に詰まる。お元気かもしれないが、でも、もうお願いは出来ないよね、と答えるしかない。
 そうですよねと、うなずいたSさんは突然、先日上海で、渡辺淳一さんの娘さんとお会いしました、ぼくが彼の作品を三篇ほど翻訳して、その出版記念の会合で、上海に来ていただいたんです、と話し出した。貿易の仕事はまだ少しはしているらしいが、Sさんはやはり文筆家。60歳を越えてきているが、日本の小説も中国語に翻訳・出版、自分の作品も日本の人に読んで欲しいのだ。
 「1968年5月下旬のある日・・・」の書き出しではじまるこの小説「冷たい河」は、Sさん15歳のときの出来ごと。「文革」がはじまって2年、元実業家のおじさんが、自殺をほのめかすメモを残して家出、先祖の墓地のある蘇州では死にきれずに、むかしよく訪れた牧歌的な金山(浦東)から家族に手紙を出して、河に身を沈めていった。Sさんは、当事者としてかかわったその事件を、「少年の目」で描ききっている。

 いまの中国で、「文革」はまだまだ人々の心のそこに生きている。いさましい話ばかりが、中国の「いま」ではない。
 わたしはSさんに、あなたのつながりのある人から出版社を通じて、優秀な翻訳者を探してもらうようにしたらと、アドバイスした。翻訳は、ことばの置き換えではない、こころとこころの、交流であり「創造」であろうから、と。
                   
((2016年1月16日 記)




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