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ヴァイログ (vol.1)

Vitamin Log(ヴァイタミン ログ)略して「ヴァイ ログ」。日々の生活のヒントに。『読む栄養素』

現世利益(げんぜりやく)

2008-06-18 16:10:19 | 学(まなび)
浅草と神田明神へ月参り。特に今日(6/18)浅草寺へ行くと、400日参詣したのと同じご利益があるそうだ。
ところで、なぜ飽きもせず月参りするのだろう?諸災難除け、商売繁盛、心願成就。すべて現世利益。すばらしく下世話な輩だ(笑)。しかし、この下世話な欲求=現世利益こそ、ヒトと宗教とのかかわりを理解するキーポイント。
ここで少し極端な場面をイメージしてみる。ある幼児が原因不明の高熱のため生死の淵にいる。「どうか我が子を助けて下さい」とワラをもすがる思いで手を合わせる両親。この両親の行動を一言「下世話な現世利益」とバッサリいけるかどうか?
ここにシャバ(実生活)での非常に生々しい、飾りごとでない宗教の本質がある。
もちろん特定の教派や教団、教義や儀礼に基づくものでもない。
この問いかけを学校の先生に聞いて、自分の20歳代の大きなテーマの一つになりました。外面上ストイックではなかったけれど。ともかく宗教学というガクモンをその後10年近く続けるハメになるキッカケになったのでした。
(※ちなみに上記の幼児、その後ケロッと熱は下がりスクスクと成長したのでした。両親の心配どこ吹く風、、笑)

【時間】について

2008-05-19 17:31:01 | 学(まなび)
ヒトは【時間】をどう捉え、どう感じるのだろう?通常、次の3つのようになる。
1.時間は【直線】ということ。
元に戻らない、繰り返さないという感覚。人の一生を見ればわかる。生まれて成長し成人になり壮年、老年、死へと一直線に進む。
2.時間は【円環】ということ。
円周を回る、繰り返すという感覚。例えば自然を見ればわかる。太陽は東から昇り、南を通って西に沈む。そしてまた東から昇る。
3.時間は【螺旋】(らせん)ということ。
前1.では、人の一生を「直線」としたけれど、日常生活レベルでは「円環」~単調なアレコレの繰り返し~と捉えることもできる。人は寝て起きて、食べて、また眠る。日常生活はその繰り返し。だけど、昨日と今日の自分は違う。経験や知識が1日分、積み重なっているので。丁度、螺旋階段を上ってゆくように。昨日より今日は少し一段高い次元になっている(ハズ)。【円環】の感覚に「向上(心)」という【意識】が乗っかった時間感覚。
以上三つ、何もこんな理屈を知らなくても立派に生きていける。でも、知っていれば何かと役に立つ。例えば、ある人と議論をするとき、その人はどんな時間観でモノを言っているのかをチェックすれば、無用な摩擦を起こさないで済む場合も多い。時間感覚はその人の、その場面における価値観そのものだから。

依り代(よりしろ)

2007-07-09 15:03:19 | 学(まなび)
七夕(たなばた)の笹(ささ)は
【依り代】(よりしろ)である、
と解釈されることが多い。

【依り代】とは、神様やご先祖様などの霊(The Spirit)が
「憑(つ)く」=憑依(ひょうい)する事物のこと。

【依り代】が果たす機能として、
一般に次の三つが考えられる。

(1)神霊が来訪する際の『目印』の役割。

~神様やご先祖にとって
「あっ、あそこに行けばよいのだな」とわかりやすい。

(2)神霊が留まり、鎮座する『媒体』の役割。

~「ここにしばらく鎮座するぞよ」

(3)日常の空間、普通の場所と区別する『結界』、境界物の役割。

~神様やご先祖が来訪されるエリアなのだから、当然、
他の場所とは区別されないと、ね。そのエリアの境(さかい)を
はっきりさせる役割。

***

この【依り代】という概念、
いわゆる「民俗」(みんぞく)を
語るうえでのビッグ・ワードのひとつ。

私たちの生活のあちらこちらに顔を出す。

「民俗なんてムズかしいこと、カンケーないぜ」
なんていう御人さん。
実は、あなたの日常の立ち振る舞いから、
ファッション・センス
(例えばTシャツの絵柄や、ピアスのデザイン)まで、
しっかり影響を与えています。

大祓いの人形(ひとがた)

2007-06-30 17:48:40 | 学(まなび)
大祓いのときには、
半紙で作られた小さな人形(ひとがた)を
河川へ流す行事も行われる。

多くの神社で人形(ひとがた)が配られ、
川へ流すことは、神主さんが一括して執り行う。

(当然、河川等の環境に配慮した形式で
行われていることは言うまでもない。)

配られた人形(ひとがた)に自分の名前と年齢を記し、
全身を触れさせて、息を吹きかける。
その人形を神社へ持ってゆく。

人形(ひとがた)に自分の厄を移させ、
それを川に流す=厄を祓う、という「お呪(まじな)い」だ。

「呪(まじな)い」の多くは、
ある二つの感覚、
あるいはどちらか一方の感覚に
基づいている、と言われる。

ひとつは、

『似たものは作用し合う』
という感覚。

もう一つは、

『一度、接触したものは作用し合う』
という感覚、だ。

大祓いの人形(ひとがた)も例外ではない。

自分に「似たもの」である
半紙の人形(ひとがた)に
「接触」して自らの厄を移させ、
それを川に流す。

似たもの、接触したものは作用し合うのだから、
当然、本人の厄もきれいに流れる、ということ。

宗教学の基礎知識のひとつ。

簿記(ぼき)の知識

2007-06-09 11:11:33 | 学(まなび)
「決算」や「経営」と聞くと
さも小難しく、『偉そう』な
イメージもあるが、
つまるところ基本は
簿記(ぼき)の知識だ。

私もウチの「しこみ」で
簿記をやった。

独学だった。

ちょうど日本には
日本商工会議所主催の
『簿記検定』というのもあって、
テキストも体系化されている。

電卓で足し算と引き算ができるヒトなら
あとは、特有な用語の慣れのみ。

いわゆる『計算べた』でもOKです。

私もそうなので。

昔、イタリアの商人たちが使い
あの華やかな文化を支える
経済の原動力の1つなった
簿記の知識。

知っていれば、
世界が広がること
うけあい。

社(やしろ)の小石と『LV』

2007-04-20 14:53:28 | 学(まなび)
ちいさな社(やしろ)の御本尊(ごほんぞん)は小さな石。
田舎の山道などでよく見かける。

外見だけでみれば『道端の石ころ』と変わらない。

違いがあるのか、ないのか?

合理的に判断すれば違いは、ない。

外見や器質(きしつ)上の違いは無いのだから。

けれども、社の小石には
数十年、数百年、脈々とつながる
言伝え(いいつたえ)や神話、
手を合わせる人たちの情念(じょうねん)といった
『情報』が凝縮(ぎょうしゅく)されている。

道端の小石とは情報量が圧倒的に違うのだ。

『社の小石は、道端の石ころと同じ。』
20世紀まではそれでよかった。

けれどもこれからは
そこに圧倒的な違いを見出さなければならない。

日常、都市生活でも、そう。

ただの合成皮のバッグと
「LV」のマークが付いた合成皮のバッグ、
圧倒的に違うでしょ。

ねえ、諭吉さん。

宗教学

2007-02-28 23:06:25 | 学(まなび)
学校に行っていた頃、
「宗教学」というのをやっていた。

宗教学というと何やら神秘的な学問に
聞こえるらしい。

実際には、2種の系統がある。

一つは「教学(きょうがく)」。
いろいろな教団、宗派
それぞれの経典を勉強するもの。

それからもう一つが、
いわゆる「宗教学」というもの。
生活の一場面として宗教がどんな役割を
果たしているのか、について考えるものである。

自分が勉強していたのは、後者。

あまり神秘的でも
センセーショナルでもない。

『ダビンチ・コード』に
イメージされるような。

「学び」は「予測」

2007-02-14 15:07:38 | 学(まなび)
昔読んだ、
ある学者さんのエッセイ。

科学のキホンは
予測できる、ということ、
と書いてあった。

「なぜ学ぶの?」
「なぜ勉強するの?」

という答えもここにある。

結果を、将来を
予測するために
学ぶ。

水戸の学(まなび)

2007-01-27 15:15:08 | 学(まなび)
JR水戸駅から13~15分歩く。
いかにも『文京地区』といったエリアに、
昔の学校が資料館として公開されている。
(旧水戸藩・藩校の『弘道館』(こうどうかん))。

雰囲気のある場所。
心地よい。

ここで学んだ人たちの『気』が、
今でも漂っているのかもしれない。

施設内に展示されている当時の「テキスト」を
見学すると、いわゆる「国学」だけでなく
当時最新の、海外から伝わった知識も
広く学ばれていたのだ、ということが分かる。

さて、、、

最近、「教育」ということが『社会問題』
としてマスコミなどで取り上げられる。


まず、私たちの先人が築いてきたモノを
見直してみては、と思う。

とくに『学』のビジョンを。

そもそも何のために学ぶのでしょう?
わたしたちは?