雨上がりといっても、もひとつすっきりしない空のもと、左京の田中神社へ行ってみた。須賀神社・角豆祭で女性の神職さんを珍しいと思ったが、「田中神社の宮司さんも女性」と聞いたのだ。下鴨神社から続く御影通に面した鳥居。歩道沿いに囲っている石柱に寄進者の名がずらりとあるが、その角には「宮司」の後に女性の名前が確かに彫られていた。
写真に見えている京都市立て札には、「本殿および拝殿は賀茂御祖神社の式年遷宮の折々に譲り受けてきたものと伝えられ」、1628年にはそれに対して「青銅(銅貨)を賀茂社に奉納した」とある。下鴨神社から、御影通を西に1km弱。近いので、そういうこともあっただろう。しかし「折々に」とは。同じ立て札に「天文法華乱にも法華宗の攻撃で被災し、また、度重なる火災によって重要な文書類は焼失した」とあるのに。
御蔭通歩道の傍に狛犬たちがいて、少し奥まった所にとても立派な鳥居が見える。
その先の参道両脇は古木が鬱蒼と生い茂り、意外に広い境内は、人気もなく寂しい。突然響く鳥の声に驚く。一の鳥居と二の鳥居の間には、ごく小さな石橋と紙垂を巡らせた低い榊の木(写真上・左)がある。この榊には、どういういわれがあるのだろう。
同じ写真右手の建物には「弘安殿」と書かれ、瓦や破風には三葉葵があった(写真上・右)。さきの立て札の「1628年」は、徳川幕府によって、荒廃した社寺の復興・再建が進んだ頃である。賀茂社から殿社を移築したからでなく、復興した徳川の三葉葵だと思われる。
舞殿からみた拝殿(写真上・左)と、塀の格子が荒く、本殿と両脇の末社が透けて見える拝殿(写真上・右)。
さきほど驚かされた鳥の声は、孔雀(写真上・左)だった。鳥居の内側に鳥舎。仏教(東密)なら孔雀明王だが。そういえば、三井寺にも孔雀がいるらしい。伊勢神宮遥拝所(写真上・右)もあった。
拝殿・本殿の東に見える赤い鳥居の列は、1879年に遷された末社・玉柳稲荷神社。立札によると、「氏子の要望により、談合の森(現在の叡山電鉄茶山駅周辺)から移された」とのこと。「談合(だんご)の森」を調べてみると、「団子の森」「大后(たんこ)の森」「太后の森」という表現に出くわす。「大后」「太后」は、今の北白川追分町、京大農学部の辺りらしいので、森は田中神社北東から東南にかけて広がっていたと推定される。叡電と疏水分流に挟まれたその辺りは、いくらか勾配があるが、今は完全に住宅地だ。
戦国時代、神社を中心として「田中の構」があったらしい。「構」とは、応仁の乱以降、洛中に作られた防御施設のこと。堀や土塁を街の周囲に巡らせたものだ。応仁の乱で、洛中の戦いは、一乗寺など洛外へと拡がってゆく。隣町の一乗寺で戦闘があったのだから、田中に構ができたのも頷ける。「談合の森」という一風変わった名前は、この辺りから来ているのだろうか。自衛と自治のために構の構成員が話し合い、談合した森、とか。想像での話はこの辺にしておこう。
よくあることだが、境内の一部は駐車場として神社が運営している。
談合の森の名残りを留める大木はあるのに、全体として殺風景な印象を受けた。イチョウの大木の根元から伸びていた、緑の若木。そういうものもあったのに。大きすぎる鳥居も、脇に咲く数本の紫陽花も、かえって寂しげだった。
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