自然は数を喪失する。
世界の総ての砂粒に一つの数をも、数の系列も形成せず
計算機も記号の機械組織に過ぎず、そのもに数を含んではいない。
会計係は実数を考えておらず、数なき自然に復帰し
彼は自分が欲する場合しか数のことを考えない。
教養ある人々でも足を入れれぬこれらの探求は懐疑を排除し
確かにそこに発見されないことに於いて当然のように期待し
帰結し無限大の数から解放してくれる点で変わっている。
それは人がそれを構成する限りに於いてのみ存在し維持する。
普遍的懐疑主義が真となるまで懐疑を行使することが大切で
ヴァレリーは明証性ほど神秘的なものはないことを発見した。
この修練は最もよく証明された問題でも明証的と見るに従って
精神の全効力を失ってしまうのが事実である。
最初の思考は思考に対する信仰で
精神の最も奥に隠されている信仰の観念。
力の同意を欠くならば血の気を失い色褪せ、
肖像が消えた信仰は生きていない。
それ自体の中に文章として読むのは虚しいことである。
善良な婦人たちの受領書を信用するように証明に同意し信ずるなら
欲するごとに信仰を再発見し、定式化し作らねばならない。
外面的なことを克服しても判断に於ける意志に関する論争は
汝が勇気を欠くところから来るのである。
謙虚と時に過酷な態度の二本の杖を結合する時
二つのものを形成せず、隔たれた三を見出し
二十との間に常に同じ素数の順位を見出す。
永遠の真理、純真は困難がありながらも
勇気の決定によって必然性が負われており
勇気の為の場所なくして「神も真理を拘束しない」
というデカルトの透明で流れる必然性を甘受することは出来ない。
精神と身体との限界線そのものの上に位する想像力の観念。
繰り返される観念の記憶は想像力の支柱を求めに向かう。
前向きに飽きると後ろ向きに前進することも?
宇宙は生と死の巨大な、まさに無限の繰り返しである。
人間のいつどのような社会にも「自然には循環がある」
という事実が知られていた。
世の中に循環があるならば、神々の世界にも循環があるだろう。
もし、宇宙が振動しているとしたら奇妙な問題が起こってくる。
振動が極限にきたとき、
宇宙を秩序立てている物理学や化学は自然の法則の一部に過ぎず
膨張の後に収縮がやってきたら、因果関係が逆転して原因の前に結果が起こるだろう。
そうなったら人々は墓の中から生まれ、子宮の中で死ぬだろう。
時間は後ろ向きに流れるのだろうか?
私たちは永久に膨張する宇宙に住んでいるのだろうか?
それとも無限に循環する宇宙に住んでいるのだろうか?
それを知る方法はある。
一つは、宇宙の中の物質の総量を正確に調べる事であり、
もう一つは宇宙の端を見る事である。
EdgePlayer 『「アジアの純真」MV』
2021-02-02 12:59:44に追記