仏教の修行は自利行、利他行がある。
単純に言えば自分のための修行と他者のための修行である。
しかしこれは明確に分けられるものではなく、自分の修行は同時に他者の為の修行でもある。
ちょうど車の両輪のようである。
つまり同時に回転するのだ。
これがうまくいっている証拠は、自分も他者も心が安らかであるということである。言い換えれば、自分も他人も功徳を受け取れるということ。
ここで気をつけなければならないのは、利他行のつもりで自己犠牲を行っている場合である。
自己犠牲は私は受け取らない。自分が犠牲になって苦しんで、他のの人が楽であれば良いということだ。
自己犠牲はいくら行っても自分は楽にはならない。ついには恨みつらみだけは残っていく
こういう自己犠牲の信念は多くは親子関係で形成されるようだ。
親が自己犠牲的な人だった場合はそれをそのまま自分に取り入れてしまうことがある。
あるいは親を助けるために自分が犠牲になるということもある。
どちらにしても自分は浮かばれないのだ。
ここから逃れるにはまず自分が自己犠牲をやっているということに気がつくことである。
そしてまずは自分自身にたいして優しい気持ちを持つ、自分自身が受け取ることを許す。
これを何度も繰り返して自己犠牲の信念を手放していく。
本当に利他行をするには、まずは自分が安らかでなければできない。
溺れている人は、他の溺れている人を救えないからである。