自然の恵み ミツバチからの贈り物 Ⅱ

ミツバチと野菜を育てて、自然の恵みを貰い、健康に暮らす。また、養蜂を通じて四季の移ろいを感じる。

日本ミツバチの分蜂

2009-08-26 20:07:06 | Weblog
 日曜日の夜、車で出かけようとしたら、隣のご主人が車の窓をたたく。  ちょっと急いでいたので、あまりかかわりたくなかったのだが隣りの誼でなんだろうと降りると、隣の家の物置にミツバチが団子状態になっているとのこと。
 これはミツバチの分蜂以外ありえないので、ちょっと覗かしてもらったのだが暗くてよくわからない。
懐中電灯を借りてよく見たらやはり日本ミツバチの分蜂であった。
当然我が家の西洋ミツバチは分蜂できるほどの勢いがないので日本ミツバチとすぐ想像できた。
 夜であったので、また分蜂の一時的団塊かもしれないので、刺さないから今日はそのままに2~3日様子を見るように話して、車に乗り込んだ。



 今日犬の散歩の後、隣りの奥さんに偶然会ったので、様子を聞いたらまだあるというので、早速出勤前であったが、駆除して我が家の開いている巣箱に移管した。

 小さな分蜂群であるが興味もある。


燻煙器で分蜂群をおとなしくさせている。

今年の夏はこれで分蜂群の話が3回目であった。
西洋ミツバチはからっきし元気がないが日本ミツバチは相変わらず元気なようだ。
やはり異変だ。


ツアーでは行けない沖縄 8泊9日 最終番

2009-08-22 21:48:16 | Weblog
 伊是名島に2泊して沖縄らしさ(酷暑)をたっぷり堪能して、次のスケジュールは読谷村でフィールドワーク、平和学習を受け翌日協力をいただいている宜野湾市長さんに表敬訪問して、公式プログラムが終わる予定になっている。
 しかし昨日から、台風8号の情報が入り、船が出航するか幹事さんが関係機関に問い合わせしたり、やきもきしたが、午前便は出航、午後便は欠航とのことで事なきを得て、本島に戻れることになった。
 帰りの船は若干揺れがあったが、運天港に無事到着し、昼食後読谷村に向かった。  昨日までの肌を刺すような暑さは影を潜め、台風特有の雨が時折ザーッと降るようになった。 
 読谷村では役場の課長さんが、『チビチリガマ』『シュムクガマ』の悲劇を現地で戦争の悲惨な事例として事実を語ってくれた。
 昭和20年4月、沖縄本島、読谷村に米軍が上陸し、日本軍は南部方面に退却し再起を図る作戦に出た。  取り残された読谷村住民は『ガマ』と言われる鍾乳洞の洞穴に避難をした。 『チビチリガマ』には140人強、『シュムクガマ』には1000人の住民が避難したのである。

 米軍兵士が銃を持って『ガマ』の入り口で投降を呼びかけ、出てくるよう促されたが、『チビチリガマ』に避難した中に、中国大陸で従軍した退役軍人、従軍看護婦がおり、『投降しても婦女子は暴行され殺される』と中国での戦争体験が語られ、また看護婦が所持していた毒液も集団自決の弾みになり結果として赤ちゃんから年寄りまで80人弱の人が、『チビチリガマ』で亡くなったのである。
 一方、『シュムクガマ』には沖縄からハワイに移民して、たまたま里帰りしていた人2名が避難しており、彼らが米軍と交渉した結果、一人も傷つけられることなく1000人の住民が保護されたのである。 あまりにも対照的な出来事である。



 『シュムクガマ』で説明してくれた読谷村の課長さん。
なんか、心霊写真のようなものが???

 その後整備された公園など眺めのよい公園など案内され、今夜の宿泊施設恩納村のコテージで、待望のBBQ。




 去年から食べたがっていたBちゃんに。400グラム弱のステーキ。
6年生のB子ちゃん。 驚いたことに、ペロリと平らげた。
2年越しの夢がかなったーー。


翌日はレンタカーなど手配してくれた宜野湾市役所(市職労)にお礼訪問し、市長さんとの懇談会を30分いただきました。



市長さんとの記念撮影準備中。  数年前、宜野湾市も米軍ヘリコプターが大学に墜落し、大惨事一歩手前と心配の種が消えない市長さんであった。

 台風も進路がそれてきたが、雨風は強いものがあった。
最終日、飛行機が飛ぶか、1日延期するかでこれまた大騒ぎ。
結局みんなの心がけがよかったので、予定通りのスケジュールで帰ってこられた。


 最終日はお土産買い物タイム。  定番の公設市場、

なぜか子供たちには不人気。  でも塩アイスクリームは好評であった。




 台風の影響で、那覇空港がめっちゃ込み。
このような混雑は初めてであった。

 今回の旅は多世代が参加した合宿生活のようであり、洗濯なども当番で行うなど若い頃を思い出すことばかしであった。
 今回の旅で人とのつながり、人の親切、出会いというものの大切さを教えられたようである。
 8泊9日の旅もあっという間に過ぎてしまった。
 

ツアーでは行けない沖縄 8泊9日No5

2009-08-17 22:02:05 | Weblog
 ツアーの安息日、子供たちが楽しみにしている『伊是名島』での海水浴。
観光開発からまぬがれ、古き沖縄の面影、伝統を本島近くで一番残している島である。  
伊是名島行きフェリーの発着する運天港に飾ってあった伊是名島観光看板


このフェリー『ニューいぜな』で運天港から伊是名島まで1時間弱の船旅。
 



伊是名島フェリー発着港  この水の色  みてーー。


伊是名島の風景。 石垣が珊瑚を積み重ねて作られており、戸締りなどもなく、庭の縁側には村の人が何時談笑に来てもよいようにお茶セットが置いてある。



水のきれいな遠浅の浜で、防波堤から飛び込む冒険心は年をとっても失わないものだ。
 現地の子供たちはなんでもなくやっているのだが、都会の子供たちには相当な勇気がいるようだ。

伊是名の子供たちはこんな海で毎日泳いでるんだ。
でも日中は暑くて子供も昼寝らしい。夕方になって泳ぐようだ。
日中の暑さは肌を刺す痛さを感じる。


伊是名の名物はマンゴーとモズク、泡盛だそうだ。
伊是名ツアーの一番人気はマンゴー園での試食。
このおばちゃんは気前よく、全員にミニマンゴーを、また大きなマンゴーを2ヶ試食させてくれた。


 みんな感激してこのようなマンゴーをお土産に送った。
東国原が宮崎マンゴーを宣伝し、価格を吊り上げてしまったようである。実にけしからん軽薄な男だ。



空いた時間を使って、お世話になった人たちや、協賛寄付をくれた会社、団体に感謝の色紙作りを子供たちがやっている。

ツアーでは行けない沖縄 8泊9日No4

2009-08-16 20:16:37 | Weblog
 沖縄上陸1泊目は那覇国際どおりからちょっと外れた泊港周辺にある、JA共済会館に宿泊となった。 食事は船で済ませているので、各自シャワーを浴びたり、荷物整理など気ままな時間を過ごした。
 自分はシャワーを浴びた後、今夜の交流会のおかず買出し、お土産やチェックなどで外出を小1時間。
 
 例会になった泡盛での交流会。
自分は隣室で12:00頃に就寝したが、交流会は3:30頃まで行われたらしい。
しかし同行者のいびきで、睡眠不足気味、エアーコンの風を受けのどが痛い。
宿泊したJA共済会館  1泊2食で3500円との格安料金なので、リトルリーグや新体操などの子供たちが合宿施設として利用していた。

 早朝5時前に目が覚めて、トイレ、洗顔を済ませて散歩を1時間ほど。
那覇の朝は思ったほど暑くなく、気持ちよかったが、街中の散歩なので緑が少ない。  ある一角にきたら賑やかな雰囲気があり、嬌声も聞こえ、ここが那覇一の繁華街『波の上』地区であった。
 昨夜の饗宴の名残りも感じられ、余韻だけもらって宿に帰った。


 朝食を済ませて、それぞれ子供たちのルーツを探すたび、毎回これがきっかけとなって身内に会いに行く子供と3班に別れてレンタカーでいざ出発。
 ちょっと待て、運転手、二日酔い、寝不足は? 大丈夫だろうな。

 私はAちゃんのルーツを探す班で本部周辺に行くことになった。
その子のルーツは母方の祖父母、1928年に直接ブラジルに移民したようだ。
名前とこの情報だけが頼りで、日曜日にかかわらずダメモトで本部町役場に尋ねた。
  宿直の職員2名が丁寧に対応してくれ、町の観光協会会長、ブラジル協会役員へと話が伝わり直接役場まで来てくれ、詳しい相談に乗ってくれた。しかし詳しい情報などまるでないので、この微かな情報でルーツに繋がる手掛かりが徐々に明らかになってきた。  1929年の大恐慌の前の移民、曾祖母の旧姓の確認などさすがに当日では無理なので、後日横浜に何らかの連絡をいただくことでその日は終了となった。   観光協会会長さんは元教育長さんであり、座っている方は花に水をやりに来た人であったが、元企画課長だそうだ。




このようにあちらこちらに電話して、手掛かりを探してくれた。

このような場面に直面して、人とのつながり、人のやさしさ、出会いの大切さが改めて思い知らされた。

ツアーでは行けない沖縄 8泊9日No3

2009-08-15 08:19:56 | Weblog
船のたびでのんびり、読書したり、昼寝したり、海を眺めたり、呑んだり、さすがに飽きてきた。

 やがて鹿児島志布志港、奄美大島、那覇安謝港、いよいよ沖縄上陸。

 奄美大島の港に入るところ。

 8/1 19:45 やっと那覇安謝港に入港した。 50時間いやーいろいろあって楽しかったが長いたびであった。  といってもこれからが本ちゃんなのニーー。

 那覇安謝港 琉球海運の貨物船が停泊しているので、沖縄らしさでパチリと1枚。

 いよいよ今夜から合宿のような生活が始まるのだ。
どんな生活になるか楽しみだ。



突然ですが、昨日職場で暑気払いをしてほろ酔い気分で帰る途中、メールが入って1駅手前の駅で降りるようにいわれた。
 息子の車が迎えに来たのだが、女房も乗っており、今長女を産婦人科病院に送ったところといわれた。  なんかちくちくするとの話でひとまず入院したとのこと。
 ところが、8/15 0:40に無事男子出産のメールが婿殿から入った。
今朝メールで送られてきた孫の写真。
んーーん誰かに似ているーーー。  ぎょ、お袋に似ているではないか?


というわけで、本題は次号に続きます。

ツアーでは行けない沖縄 8泊9日No2

2009-08-12 22:53:37 | Weblog
このツアーも今年で16年目を迎えるのである。
第1回目に行った子供たちはおそらく30歳前後になっているのだろう。

1日目は有明港を17時発のフェリー『ありあけ』8000トンが早くも出発時間に遅れが出て、17:40頃の出港となった。

フェリーの待合室  冷房なしで暑かったーー。

有明フェリーターミナルの整然としたコンテナ

船内のフロント  特定の時間しか開店しない。  売店から問い合わせまで何でもこなすようだ。

  われわれグループだけに貸切にしてくれた大部屋。ここで寝たり、打ち合わせや軽食を取り、50時間過ごすことになる。

 夕食後早速交流会(宴会)が始まった。
部屋では子供たちが寝るので、食堂前のスペースにブルーシートを敷いて、おかずはレバー刺身、オシンコウ、肉の佃煮、乾きものなどなど。

宴会していると必ず仲間に入りたがる人たちが出てくるのだ。ドイツ人の学生。 慶応大学に留学してIT工学専攻。
奄美大島で降り、その後鹿児島、宮崎、長崎と2週間かけて九州を縦断し、帰国するそうだ。

  彼女たちは美大の生徒。 沖縄のケラマにダイビング行くらしい。  もう一人の女性は一人で南大東島にこれまたダイビングだそうだ。彼女はダイビングで何十回と沖縄に来ているらしい。

 船旅はこのような出会いがあるからいいよなーー。

また、この夜はいびきで目が覚めてしまい、深夜の星空観察。
夜空の星がきれいで、流れ星、天の川、最高。
一人さびしくロマンチックな夜であった。


翌日の夕日。
これまた、水面に太陽の光が金色の筋を浮かび上がらせ、船旅の醍醐味か。


ツアーでは行けない沖縄 8泊9日No1

2009-08-10 23:20:09 | Weblog
 ひょんなことから7月30日発、8月7日着8泊9日の沖縄過酷ツアーに行って来た。
 それは2ヶ月前、飲み会の席で急遽誘われたことがきっかけであった。
このツアーの目的や過酷な内容についても知っていたので、最初は躊躇したが、せっかく誘ってもらったので思いっきり楽しんでこようと強い決意で参加した。
過酷というのは、行き50時間の船の旅で、宿泊も大部屋でゴロ寝、移動はレンタカー、夜は2~3時頃まで泡盛での交流会と中身の濃いツアーであるから。
 
 このツアーの発端は、南米からルーツを日本に持つ人たちが横浜へ出稼ぎに来たことから始まった。 この人たちの子弟が日本語がわからない、授業についていけない、親は日中だけでなく深夜まで働きづめ、その結果、誰にも相談できない子供たちは自らのアイデンティティーを失い非行に走るしかなかった。
 南米出稼ぎ者の調査をすると、ほとんどが沖縄出身者であった。沖縄の人たちは戦前から京浜工業地帯や阪神方面に出稼ぎに、その後北米やハワイ、南米の移民とこれまた過酷な歴史をたどってきたのである。特に戦後米軍基地の拡張により土地を失った人たちは米国、日本政府に誘導されるように南米移民に拍車が掛かり、 当初はボリビア、ペルーに移民するが、耕作地は開墾もできないような荒地を紹介され、アルゼンチン、ブラジルへと南米内をさまよい職を求めて日本にやって来た事情である。
 元気をなくしている子供たちに自分たちのアイデンティティーを探し、元気を取り戻すために自分たちのルーツを探すたびが始まったのである。