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戦国の滝の城 「埋蔵文化財調査センター発掘調査報告会・講演会」 講演会編

2014年04月16日 | 講演会

戦国の滝の城 「埋蔵文化財調査センター発掘調査報告会・講演会」
今回は講演会編になります。※報告会編はこちら

演題は『戦国の“滝の城”を掘る』として、中近世の考古学専門の橋口定志先生(豊島区立郷土資料館学芸員)のお話を拝聴しました。


〇発掘調査でわかったこと

1、城門の発見   
①本郭から馬出郭へ ②馬出郭から外郭への通路
いずれの門も焼失している。 
馬出郭通路の門が焼失した後も通路は使われている。   

2、二の郭・三の郭・馬出郭は、いずれも土をかさ上げして平坦面を造り出している。土塁も丁寧に突き固めて構築したものではないらしい。
※三の郭虎口の土塁だけは少し丁寧に造っている。

3、二の郭・三の郭・馬出郭のいずれも建物等の生活にかかわる明確な遺構が無い。
遺物は少量ながら二の郭・三の郭で碗・皿・擂鉢等。

4、①二の郭土塁裾の下から方形の土坑(のこぎりが出土)
『他の発掘事例等から、土塁を造る前に人(職人)を埋めている・・・人の霊が守っている・・・』
②馬出郭から外郭に向かう通路下にも方形の土坑があり、この土坑は、門段階の通路を壊し、その上に新たな通路を設けている。

5、三の郭には大井戸があり、鎧の小札1点が出土している。
『三の郭の周りの空堀は深く、これより深く掘らないと水が出ない・・・ ある時期、井戸郭の可能性・・・』

6、
出土した陶磁器類は、おおむね16世紀初めから半ば過ぎのものであり、少量ながら16世紀後半のものも含まれている。

7、素焼きの“からわけ”の中でまとまっているのは「扇谷系(上杉氏)」のもので、「山内系(上杉氏)」も多少認められる。おおむね16世紀前葉~中葉のものであった。また、下総北西部(利根川流域の古河市を含む地域)の16世紀前葉~中葉の「内耳鍋」が発見された。

その他、外郭の堀が障子堀である。


〇少なくとも3段階の変化が考えられる “滝の城”

[第一段階]・・・柳瀬川と“滝の城”・清戸下宿  太田道灌と滝の城

滝の城は旧浦所街道から見下ろせる場所(街道より低い場所)
滝の城の南側高台に、根小屋の可能性。

⇒柳瀬川を向いた城である(柳瀬川対岸の、清戸下宿との関係)

同時代の史料を探る・・・太田道灌状 「豊島氏が対の城を構え、江戸・河越の交通が不便になった」

対の城・・・練馬・石神井城
江戸・河越の交通・・・対の城(練馬・石神井城の間の道)・・・清戸道(現・目白通)だろう。

太田道灌は滝の城・清戸下宿を抑えていた。

清戸下宿・滝の城を抑える・・・練馬・石神井城以前、1450年代~には清戸道(ルート)はあり、滝の城の原型があっただろう。

[第二段階]・・・大石氏と“滝の城”

[第三段階]・・・後北条氏と“滝の城”・清戸三番衆


清戸下宿(東京都清瀬市)は柳瀬川の対岸にあり、下宿内山遺跡(板碑などの中世遺物が発見されています)として確認されています。
また清戸道は、江戸時代に江戸~清戸を結んだ道と言われていますが、橋口先生はもっと古い時代にあったのでは?と指摘していました。

質疑では、『清戸番衆は何処で番をしていたのか?』
これについて橋口先生は、量は多くはないが16世紀後半の陶磁器が出てきている・・・滝の城では・・・との事でした。

疑問に思った事は、清戸道が中世まで遡る交通路だったとして、清戸~河越のルートは何処を通っていたのかな・・・ (・_・?)

以上、当日の配布資料を基に拝聴した内容を加え、まとめてみました。
私の知識・認識不足で拝聴した内容を正確にお伝え出来ていない部分があるかもしれませんが、参考程度にご覧頂ければと思います(^^;

整備事業に伴う発掘調査は平成29年度まで続くそうですので、新たな遺物・遺構が出てくれば、もっと滝の城の歴史に迫れるかもしれませんね~ (^^)v

 

 



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