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三日月堀のぶろぐ

お城・歴史の記事がメインのぶろぐです〈(_ _)〉

於曽屋敷 発掘調査現地説明会(山梨県甲州市塩山下於曽)

2016年11月03日 | 現地説明会

先日、山梨県甲州市で行われた『於曽屋敷 発掘調査現地説明会』に参加してきました~(^^ゞ
今回の発掘調査は於曽屋敷の北東(五輪畑)にトイレ及び駐車場設置の為、於曽公園再整備に伴うものです。

〇於曽屋敷とは・・・

   
館跡のある下於曽一帯は、東側を流れる重川が形成した緩やかに南面傾斜する氾濫原で、日当たり・水はけのよい土地です。
地内には勝沼方面に南下する通称西街道が通り、西街道に沿って下於曽から熊野まで、多くの中・近世の屋敷が集まっています。
そのほとんどが16世紀に経営された黒川金山採掘作業に従事していた金山衆の屋敷か金山衆との関連を指摘されている屋敷です。
於曽屋敷は二重土塁(内土手・・外土手)を伴うおよそ100m四方の方形居館で、加賀美遠光の四男四郎光経の屋敷(於曽四郎屋敷)として伝えられています。
また五男光俊が於曽五郎を名乗り、その屋敷は塩山駅周辺に存在したと考えられています。
於曽屋敷の小字は元旗板(もとはていた)と呼ばれ、旗板とは土塁上に設置された楯状の遮蔽物と理解されています。
現在屋敷は西側の民有地と東側の寄付された公園に分かれており、県の史跡に指定されています。

〇発掘
調査成果
 
 〇遺構

   
・石積に囲まれた地下倉遺構
石は平積(重箱積)で小石(詰石)を多用、五輪塔の地輪(16世紀)も利用。戦国末~近世初頭の遺構。

  
・東西に長い掘立柱建物
柱の直径およそ30センチ、於曽屋敷に隣接する屋敷地を構成。

 〇遺物
  
・館跡東側、内土手の堀にあたる権兵衛川の周囲に五輪塔が約20点出土、年代は14世紀~16世紀代のもので墓域形成か?

   
・渥美焼の大甕片(12世紀末~13世紀)が墓域より出土、蔵骨器の可能性。甲斐源氏との関連づけが可能。
・かわらけ(14世紀~16世紀)の時間幅。
・天目茶碗の破片(戦国期)
・古銭(開元通宝・唐代621~ 皇宋元宝・南宋1253~など)

〇まとめ
・於曽屋敷の外郭(周辺部)に掘立柱建物からなる屋敷跡の存在(於曽氏にきわめて近い人物の屋敷地)
・出土品から鎌倉初期~中世末までの時代幅が判明し、於曽屋敷の年代を推測する手がかりとなった。
・館は北東より権兵衛川の水を土塁の間に引き込み堀としているほか、北東部分は五輪塔(供養塔)が多数存在する墓域にもなっていた。

※2013年、2015年に帝京大学考古学総合実習によるトレンチ調査及び聞き取り調査により、於曽屋敷は近世以降、そして昭和に入っても大規模に盛土造成(土塁を含む)された事が指摘されており、当初の館の構造、規模などは不明です。

〇その他
 
 
・織田勢に攻められ自害した板垣権兵衛の腹切り石と於曽屋敷東側の権兵衛川跡
腹切り石は大正年間の塩山開設時に破砕されて線路のバラストに用いられたとの事で、供養塔自体はそれ以前の明治期の所産と考えられます。
於曽屋敷東側を流れていた権兵衛川の名は板垣権兵衛が由来しているそうです。

また於曽屋敷南側に於曽屋敷とほぼ同じ面積をもつ居館跡、もしくは関連地の存在が指摘されています。

当日は高速道路の事故渋滞に巻き込まれ予定がずれてしまいましたが、天気にも恵まれまた発掘担当の方からは貴重なお話も伺う事が出来ました、ありがとうございました<(_ _)>

※遺跡の写真掲載は甲州市の許可を頂いています。

〇参考資料

・於曽屋敷跡の発掘調査見学会資料
・櫛原功一「山梨県史跡於曽屋敷の考古学的調査(概要)」『帝京史学第29号』
・塩山市史 資料編
・甲信越の名城を歩く 山梨編


平成26年度 史跡金山城跡現地説明会 その2 群馬県太田市金山町

2015年03月27日 | 現地説明会

前回に続いて「平成26年度史跡金山城跡現地説明会」の記事になります。今回は大手虎口に続く通路と水路になります。
※前回の記事はこちらをクリックして下さい。


〇岩盤を利用した通路
上の岩盤に比べて下の岩盤(西~北の端部)は淵が丸くなっていて、人が歩いた跡(通路)としています。南~東の端部は地山粘土層の上に1~2センチ前後の細かい凝灰岩を混ぜ込んだ土を突き固めて通路面としているようです。
幅はおよそ2.5メートルで、ここには排水路は確認出来ていません。


〇石塁と大手虎口へ向かう通路
通路南側に延長25メートルの石塁が巡っています。
通路面は石塁の基礎石より低い位置にある事から2~3期の可能性があるそうです。


〇水路と石積
水路1・・・昨年(25年度) 確認されています。

水路2・・・今年度確認された水路で、水路1より古い時代のものです。
水路2が使われなくなると、石を詰めて水路1に流しています。水路の石積みは岩盤に吸い付く形で終わっています。


〇岩盤をV字にえぐった水路



〇発掘現場の全景
当日は雨の中での参加で足元も泥濘、移動に気をつかいました。お昼過ぎには雨も上がりましたが、説明して頂いた担当の皆様は大変だったと思います。
ありがとうございました <(_ _)>

大手道の調査は今年度で6年目になります。
私は発掘前と3年前の見学会に参加していますが、訪れる度に新しい発見がありいつもワクワクしてます。

来年はどんな発見があるのか、楽しみですね~(^_^)

※現地説明会のブログの掲載については担当の方から許可を頂いています <(_ _)>


平成26年度 史跡金山城跡現地説明会 その1 (群馬県太田市金山町)

2015年03月21日 | 現地説明会

3月8日に行われた「平成26年度史跡金山城跡現地説明会」に行って来ました。
今年度の説明会では、大手道の門跡(3~4年ほど前に確認された門跡)、そこから大手虎口(北側)に続く通路と水路の説明がありました。今回は大手道の門跡、次回は通路と水路の2回に分けて記事にしたいと思います。
※大手道とは・・・太田口~金山城跡ガイダンス施設~士屋敷~16カーブ~大手虎口を想定しています。


〇大手道の門跡
門跡は16カーブから上ってくる通路を見下ろす場所にあり、竪堀が八の字のように両側から門跡に向かって落ちて来ています。通路は16カーブから上ってくるとヘアピンカーブ(写真からみて逆V字)のように曲がって門跡を通ります。城を攻めてきた兵はヘアピンカーブで城兵から背中をさらす格好になります。 


〇城門跡
以前は門の礎石と考えられていましたが、門の横木(貫)を押さえる為の石との事です。
そして横木の上に柱を二本建てて、その上に貫を通した冠木門を想定しています。


〇礎石と石積遺構
礎石は一間×二間で南北(通路方向)に長く、門の際にある事から番所を想定しています。
石積みは大分崩れてしまっているようです。


〇水路のほぞ穴
通路の脇には水路が通っています。
石に彫られたほぞ穴は板塀を建てる為のもので、目隠しや中に入ってこれないようにすると考えられています。


〇門の想定復元図
この記事を書きながらひとつ疑問に思った事があります。
説明会では門跡の場所は16カーブから上ってくる通路が見渡せ、両側は竪堀を落としたりと守る城側にとっては防御の基点だったとの事ですが(私も現地を見渡しながらそう感じました)その重要な場所の門が簡素な冠木門でいいのかな と感じました(?_?) 
ご覧になられた皆様はどのように思われたでしょうか~
※説明会の解説は現時点での想定ですので、今後新たな遺構・遺物の発見、新たな見地により変わる可能性もあります。
<(_ _)>


平成26年度 津久井城跡発掘調査現地説明会

2014年11月26日 | 現地説明会

11月23日に津久井城(神奈川県相模原市)の発掘調査現地説明会に行って来ました。

発掘現場は城坂曲輪群5号曲輪(県立津久井湖城山公園里山広場)、インターネットの新聞記事には「虎口や土塁を発見」とあり、期待大での参加です(`_´)ゞ

戴いた資料によると、城坂曲輪群5号曲輪は平成24年から調査をしていて、2つの地業面が検出され、盛土の裾に葺石をした遺構や石敷き遺構を確認しているとの事です。
また、16世紀代の陶磁器やかわらけなどの遺物も出土したとの事です。

 

今回の発掘現場です。
明板が白トビして読めないので、それぞれの場所に説明を入れてあります (> <)
※赤線で囲んだ階段状の遺構(スロープ)のみ、追加で書き込んでいます。


地業面が2つあります。
金属製品出土地点」から出土した遺物は、「飾り金具?」として最後の写真に小さくですが写っていますので見てください(^^;

 

〇土塁状の高まり

虎口の南側には、土塁状の高まりが確認されています。
この土塁状の高まりは、土を盛らず、山の斜面(礫混じり粘土層)を削り残すことで築いており、東西方向にやや弓なりに南へ曲がって伸びています。
土塁状の南斜面には、山石と川原石が全面に検出され、部分的に石積みを施していることが確認されました。
一方、石敷きの通路に接する北斜面では、石積みを確認することができませんでしたが、基底部付近には段が設けられ、また土留のための石が縁取るように敷かれており、これら縁石の内部には径約4cmの丸い川原石が、敷き詰められていました。

〇石敷きの通路

虎口は、曲輪の出入口のことを指し、敵から攻め込まれないように様々な形状で築かれています。この虎口を構成する遺構のひとつとして、調査地である5号曲輪から上段の曲輪へつながると想定される石敷きの通路が検出されました。通路は段切り造成して掘り下げられ、西から東へ進むにしたがってスロープ状に浅くなっています。通路には礫が敷き詰められており、その通路を区分する山石が縁取るように敷かれていることがわかります。

※石敷きの通路幅は約1.8メートル。
※階段状(スロープ状)の遺構は、固く締まった土で地山(黄色い土)が出ていない。

 

 推定通路を赤線で示してみました(^^;

出土遺物の鉄釉小皿、16世紀後半の製品で美濃産と考えられる、との事です。

「高台があって珍しいんですよ~」と担当の方がケースから出して見せてくれました(^^)
小皿の裏側なんてなかなか見れないですよね? 

ちなみに左側に小さく写っている「飾り金具?」、筒状の金銅製なんですが用途は不明だそうです、んっ~なんでしょう(?_?)

遺物は第1事業面からの出土で、虎口や通路からは遺物は発見されていないとの事でした。

城門に関する遺構(礎石や柱穴)は見つかっていないようですが、「発掘区画を設けてさらに確認したい」、との事ですので今後新たな発見があるかもしれませんね。

ちなみにここの発掘調査は、平成22年から「津久井城市民調査グループ」として、相模原市民の方も一緒になり調査をしてるそうです。
地元の皆さんも熱心に担当者の方に質問されていて、非常に関心が高いんだなあ~と感じました(^^*)

発掘担当の方には、私のつまらない質問にも丁寧に答えて頂き、
また地元の方とも少しの間ですがお話をさせて頂きました、本当に
ありがとうございました <(_ _)>

自宅を出発するのが遅くなり説明会は途中からの参加でしたが、また機会があれば是非参加させて頂きたいと思う見学会でした。

※土塁状の高まり・石敷きの通路の解説は、一部を除き現地説明会の配布資料より引用致しました。

 


小田原城 御用米曲輪 現地説明会 (2013年12月21日)

2014年03月02日 | 現地説明会

昨年の12月に、小田原城御用米曲輪の発掘調査現地説明会に行って来ました。
今更記事にするのもどうかと思ったのですが、自分への備忘録も兼ねて (^_^;)記事にしたいと思います。

小田原城は子供の頃、父親と一緒に車で目の前を通ったんですが、父親は釣りがしたくてお城には興味無くスルー(T_T) 私は車の中でダダをこねていた、思い出のあるお城でもあります。
それ以来行く機会がありませんでしたが、今回やっと念願がかなった次第です。

尚、遺構の説明は当日配布された『御用米曲輪の整備に伴う発掘調査~現地説明会資料6~』 より引用させて頂きました。
解説の番号は写真の撮影場所(城レコの記録)になります(^_^;A

 1:戦国時代の池の遺構  
池は上下2段の構造で、中心となる「下段の池」は外周45m以上、東側に続く未確認部分を含めると70m以上になると想定されます。戦国時代の地表面から190cm程度掘り下げられており、池の護岸に石が貼付けてあるところに大きな特徴があります。石は15段前後積み上げられており、使われている石のほぼ全てが石塔(供養塔)の一部であるいう点は稀有の事例です。使われている石塔の部材には、未成品や未使用品が含まれており、二次加工されているものも含まれていました。このような構造の池は全国的にも例がなく、大変珍しく重要なものです。

 5:新たに発見された遺構(平成25年12月21日現在)  
【切石敷遺構】【礎石建物と石組水路】【切石敷き井戸】

 2:切石敷遺構 
切石敷遺構は、鎌倉石や風祭石を用いて構築されています。

これらの石は凝灰岩と呼ばれる堆積岩で、池の護岸に使われていた石塔の材料である安山岩よりも加工しやすい石です。
中心部には井戸のような円形の穴がありますが、高低差を考えると切石上の水は円形の穴に流れ込んでしまうため、井戸とは考えられません。

 3:礎石建物と石組水路
礎石建物は、現時点で少なくとも5棟確認出来ています。
全体が確認出来ている建物が無い為、規模などは判断出来ませんが、石組水路により整然と区画された中に建物を配していたと考えられます。
                       

 4:切石敷き井戸
風祭石の切石を幾何学的に組み合わせて造られています。
井戸の内部は円礫を4m以上積み上げた石積みの井戸です。
遺物が出土していない為、井戸の時期を考える要素は少ないですが、戦国期の石組水路が並行に走っている様子や、近世の遺構面よりも80cm程度低位に位置することから、戦国期の井戸であろうと考えています。

 城レコ(旅レコ)の記録(^^;

戦国時代の池の遺構、石塔が想定2000個以上使われているそうですよ (@_@;)
切石敷き井戸は近づいて撮影出来なかったので分かり辛いのですが、切石敷遺構の中心部のような感じでした。

『関東の名城を歩く 南関東編』では「当時の小田原城の主郭が八幡古郭ではなく、近世の本丸周辺に位置していたことが想定出来る」とありました。
もしかすると、ここが北条氏時代の主郭だったんでしょうか(?_?)

ちなみに3月8日(土)に今年度(平成25年)の調査成果を総括する現地説明会を開催するそうです。
詳しくは小田原市のホームページ等でご確認下さい。
新たな発見があるかもしれませんね~
尚、池などの遺構が見学出来るのは今回が最後(遺構保護の為埋め戻すそうです)のチャンス、お時間のある方は行かれてみては如何でしょうか 三 (/ ^^)/