先日、山梨県甲州市で行われた『於曽屋敷 発掘調査現地説明会』に参加してきました~(^^ゞ
今回の発掘調査は於曽屋敷の北東(五輪畑)にトイレ及び駐車場設置の為、於曽公園再整備に伴うものです。
〇於曽屋敷とは・・・
館跡のある下於曽一帯は、東側を流れる重川が形成した緩やかに南面傾斜する氾濫原で、日当たり・水はけのよい土地です。
地内には勝沼方面に南下する通称西街道が通り、西街道に沿って下於曽から熊野まで、多くの中・近世の屋敷が集まっています。
そのほとんどが16世紀に経営された黒川金山採掘作業に従事していた金山衆の屋敷か金山衆との関連を指摘されている屋敷です。
於曽屋敷は二重土塁(内土手・・外土手)を伴うおよそ100m四方の方形居館で、加賀美遠光の四男四郎光経の屋敷(於曽四郎屋敷)として伝えられています。
また五男光俊が於曽五郎を名乗り、その屋敷は塩山駅周辺に存在したと考えられています。
於曽屋敷の小字は元旗板(もとはていた)と呼ばれ、旗板とは土塁上に設置された楯状の遮蔽物と理解されています。
現在屋敷は西側の民有地と東側の寄付された公園に分かれており、県の史跡に指定されています。
〇発掘調査成果
〇遺構
・石積に囲まれた地下倉遺構
石は平積(重箱積)で小石(詰石)を多用、五輪塔の地輪(16世紀)も利用。戦国末~近世初頭の遺構。
・東西に長い掘立柱建物
柱の直径およそ30センチ、於曽屋敷に隣接する屋敷地を構成。
〇遺物
・館跡東側、内土手の堀にあたる権兵衛川の周囲に五輪塔が約20点出土、年代は14世紀~16世紀代のもので墓域形成か?
・渥美焼の大甕片(12世紀末~13世紀)が墓域より出土、蔵骨器の可能性。甲斐源氏との関連づけが可能。
・かわらけ(14世紀~16世紀)の時間幅。
・天目茶碗の破片(戦国期)
・古銭(開元通宝・唐代621~ 皇宋元宝・南宋1253~など)
〇まとめ
・於曽屋敷の外郭(周辺部)に掘立柱建物からなる屋敷跡の存在(於曽氏にきわめて近い人物の屋敷地)
・出土品から鎌倉初期~中世末までの時代幅が判明し、於曽屋敷の年代を推測する手がかりとなった。
・館は北東より権兵衛川の水を土塁の間に引き込み堀としているほか、北東部分は五輪塔(供養塔)が多数存在する墓域にもなっていた。
※2013年、2015年に帝京大学考古学総合実習によるトレンチ調査及び聞き取り調査により、於曽屋敷は近世以降、そして昭和に入っても大規模に盛土造成(土塁を含む)された事が指摘されており、当初の館の構造、規模などは不明です。
〇その他
・織田勢に攻められ自害した板垣権兵衛の腹切り石と於曽屋敷東側の権兵衛川跡
腹切り石は大正年間の塩山開設時に破砕されて線路のバラストに用いられたとの事で、供養塔自体はそれ以前の明治期の所産と考えられます。
於曽屋敷東側を流れていた権兵衛川の名は板垣権兵衛が由来しているそうです。
また於曽屋敷南側に於曽屋敷とほぼ同じ面積をもつ居館跡、もしくは関連地の存在が指摘されています。
当日は高速道路の事故渋滞に巻き込まれ予定がずれてしまいましたが、天気にも恵まれまた発掘担当の方からは貴重なお話も伺う事が出来ました、ありがとうございました<(_ _)>
※遺跡の写真掲載は甲州市の許可を頂いています。
〇参考資料
・於曽屋敷跡の発掘調査見学会資料
・櫛原功一「山梨県史跡於曽屋敷の考古学的調査(概要)」『帝京史学第29号』
・塩山市史 資料編
・甲信越の名城を歩く 山梨編