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西安は今日も曇天?

西安での生活。今は日本の片田舎で、気持ちは長安に。

村上華岳『画論』

2012-05-19 | 読書録
ある日曜日の朝、
離乳食の下ごしらえをしながらN○Kの「新日曜美術館」をみていたら
村上華岳が取り上げられていた。

京都現代美術館で展覧会が開かれているらしい。


華岳の描く仏像はインド的な顔立ちと官能的な姿で好きだ。

作家は奈良時代~平安時代初期の作風が好きなんだろうなぁと思っていたら、
『画論』にそのようなことが書いてあった。



番組で紹介していた華岳の『画論』の一説は、人間が生きる上での真理を鋭く見抜いたものであると思う。
 


私にとって画家であることなどはどうでもいゝのです。(中略)
人間が生きてゐる目的は何にあるか私は未だはっきり言ふことは出来ませんが一番大切なことは世界の本体を
掴み宇宙の真諦に達することにあると信じます。
ですから私が絵を描くのもその本体を掴む道の修行に過ぎません。

村上華岳『画論』(中央公論美術出版、昭和37年初版)

p,43「制作は密室の祈り」




宇宙の真諦に達することができれば、絵なんか描けなくともいい。
「生命の目的を果し、生活の意味を実現し、そして大きな宇宙の意志と一つに融合すること」(p,46)
が画家という職業の先にある、究極の目標だった。

私は、これは仏教的な考え方だとばかり思っていたが、
実は東洋的というか東アジア的な考え方だということに気が付いた。

最近読んだ 冨谷至『四字熟語の中国史』(岩波書店、2012年) に 木鶏 の故事が紹介されている。

闘鶏を育てるのに、鶏は初めのうちは虚勢をはり、相手を意識して闘争心をもっていたが、
ついには「木鶏」のようになり、動じず、他の鶏は逃げてしまう…という話。

道の会得とは、自己そのものが無となった状態である。
その道を究めるということは、すなわち「無為自然の境地への到達」を意味する。


そういえばそうだ。
仏教の「空」は老荘の「道」と同様のものとして理解されたのだから、かぶって当然だ。

ただ、華岳の言う「生命の目的」と、「無為自然」は相反しないかという疑問が残る。




話を『画論』に戻そう。


『画論』を読んでいると、華岳の葛藤が見え隠れする。

職業画家に対する抵抗。
真の画家でいるためにどのような態度でいるべきか。
どう芸術と向き合うべきか。


生活のため、お金のため、物欲のため、あるいは自己の虚栄心のため。
妥協をしている人間が多い。

それに気づいて内的葛藤をもつ人はまだしも、感じることすらない人間が多い。
真理を追究せず、鈍感な人間ほど出世しやすいのかもしれない。

『四字熟語の中国史』にも「曲学阿世」というたとえが出ている。




自己の頭の中を言葉にすれば偽りになる。
表現すれば何かが違う。

文章を書く人や作品を作る人は、少なからずそのような苦しさを感じた経験があるのではないか。



華岳は言う。

我々は一面のみを見るとき、感情に捉はれる時には雄弁になるが、両面を見、更にこれを超越した意識に
達するとき自然沈黙の外ない。
p,21「偶感」


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1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
華岳は芸術の真髄を語っている。 (松崎)
2015-05-13 10:02:02
昨日テレビ「鑑定団」の「村上華岳」の言葉を聞き感銘を受けました。現在の日本の芸術界は堕落してしまっています。
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