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南青山から赤坂散策:笄川(こうがいがわ)を渡って青山霊園の緑地帯へ

2012年10月24日 15時16分37秒 | 城南・港区全域


笄川の作り出した谷地形を東京都道413号赤坂杉並線は「青山陸橋」で一気に渡っていきます。東京都心部の閑静な住宅地の中にこんな急傾斜地が存在していることには驚きますが、港区内では平坦な地形の方がむしろ少ないくらいです。




青山陸橋の奥につながっている丘陵地帯には「青山霊園」の鬱蒼とした緑地帯の緑が広がっています。遠くから見ると霊園というよりも都心の中に残された「森」のようにしか見えないですね。




丘陵地帯の奥には高さ248メートルを誇る東京ミッドタウン「ミッドタウン・タワー」が見えました。こんもりとした青山霊園の緑地帯の緑と、先進的なデザインのミッドタウン・タワーが並ぶ景観というのも素晴らしいと思います。




青山陸橋の真下の低地には天現寺橋から広尾を経由して四谷方向へ伸びている大通りの「外苑西通り」が通っていて、また現在は暗渠化されている「笄川」が通っています。低地の中は住宅密集地となっていました。




陸橋から西麻布二丁目方向(南方向)を見下ろしてみると、急傾斜地のすぐそばまで中低層マンションが建設されていました。




笄川に沿って通っているのが「外苑西通り」です。正式名称である東京都道418号北品川四谷線のうち、富久町西交差点から四谷4丁目、南青山3丁目、西麻布、天現寺橋を経由し、白金6丁目で左折して白金台交差点に至る区間の名称です。大通りの左側の高台が「青山霊園」の緑地帯です。




青山陸橋の東側(乃木坂寄り)は「青山霊園」の広大な緑地帯となっています。青山霊園の敷地自体が標高30メートル前後の丘陵地帯となっていて、緩やかな斜面の広がる敷地内に霊園の区画が整備されています。また植えられている木々の数が大変多く、緑地帯の雰囲気の方が強いです。




振り返って青山陸橋を撮影してみました。平日の昼間であっても人通りがほとんどなく一人で歩くのは「怖い場所だな」と感じました。一応街灯は設置されていますが、夜になると一体どんな雰囲気になるのか気になります。




江戸時代のこの丘陵地帯には、美濃国郡上藩(現在の岐阜県郡上市)の藩主だった青山家の下屋敷の敷地が広がっていました。現在の青山霊園もそうですが、丘陵地帯を挟むように笄川とその支流の谷に囲まれている地形でした。下屋敷の敷地から低地を見下ろすと、川沿いには水田が広がっていたそうです。




通りを真横から撮影すると、まさに緩やかな斜面の上に霊園が広がっていることがわかります。




明治維新後に屋敷などは撤去され、明治5年(1872年)には神葬祭墓地として造営されます。1874年(明治7年)9月1日に市民のための公共墓地となり、1889年(明治22年)には東京府から東京市に移管されました。1926年(大正15年)に斎場の建物のすべてが東京市に寄附され、日本で初めての公営墓地となりました。




東京都道413号赤坂杉並線と霊園を南北にまっすぐ縦断している霊園中央通りが交差している「青山墓地中央交差点」が見えてきました。交差点の周辺は木々に囲まれていて、とても霊園の中心部であるとは思えなかったです。




交差点から撮影した「霊園中央通り(北方向)」です。この通りを北へまっすぐ向かうと青山通りへ向かうことができます。この通りもそんなに交通量は多くはなかったです。




交差点前には公衆トイレや青山霊園の案内図、自動販売機などが設置されていました。青山霊園は都心部における緑地帯としての性格も強いので、ウォーキングをしている人たちもたまに見ました。




交差点を超えて先へ進みます。青山霊園の敷地面積は約26万平方メートルを誇り、都心部では一番の広さです。この青山霊園が造営された明治時代初期から大正時代にかけては、この辺りは田畑が広がる丘陵地帯であり、現在のような住宅密集地ではなかったからこそ実現できたのだと思います。




青山霊園の敷地のちょうど中央にある「青山墓地中央交差点」が中心です。南青山の住宅密集地の中において、広大な緑地帯が広がっています。東京都道413号赤坂杉並線と東京地下鉄千代田線のトンネルは青山霊園の敷地を東西に横断していきます。

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