皇室専用貴賓出入口とアプローチするためのスロープが設置されている丸の内駅舎中央部前にやってきました。明治維新を経て日本の新しい首都となった東京の玄関口として、また「天皇の駅」としての中央停車場にふさわしい威厳のある建物となっています。
中央停車場(東京駅)の歴史を振り返っていきたいと思います。前回の散策の記事ではここ丸の内地区に三菱財閥の一大拠点を築いた岩崎家と三菱商事の歴史を述べましたが、今回は東京駅そのものの歴史です。とは言っても東京駅の敷地そのものが岩崎家の私有地に国(=日本陸軍)が勝手に東京駅を作ったという経緯もあるので岩崎家の話もたまに出てきます(汗)。
総武快速横須賀線の東京地下ホームの換気棟周辺はどう整備されるのか今まで気になっていたのですが、東京ステーションホテル専用の地下駐車場へのアプローチ道路が新しく整備されていました。
徳川家康が尾張(愛知県)にいた頃の東京は現在とは全く地形が異なっていました。当時の東京を治めていたのは豪族の太田道灌で、城は現在の東京地下鉄東西線竹橋駅の直下、地下30メートルの地点にあったと言われています。その頃の江戸は利根川が東京湾に流れ込んでいて、東京駅周辺は日比谷入江のそばにある湿地帯でした。
天下を掌握した徳川家康は江戸城を築城すると共に、お城の周辺の土木工事を開始します。太田道灌の城のあった竹橋、丸の内、八重洲、日比谷周辺の湿地帯には厚さ30メートルに及ぶ大量の土砂が運び込まれて、以前とは全く違う地形が誕生することになります。丸の内はその名のとおり「本丸の内」であり、江戸城の敷地として利用されることになります。
丸の内駅舎中央部前から北ドームと「丸の内オアゾ・丸ノ内ホテル」をズームで撮影してみました。
明治維新によって約350年続いた徳川幕府が倒れると、薩長の明治新政府が江戸城を占領し「東京城」と改名します。その後1869年(明治2年)に東京奠都が実施されて江戸城は「宮城(きゅうじょう)」と名称が変更されます。同時に江戸城周辺にあった地方大名の屋敷はほとんどが取り壊されて更地となりました。丸の内周辺もすべての大名屋敷が取り壊されて日本陸軍の練兵場となります。
1889年(明治22年)の時点では官営東海道本線(新橋~神戸)の起点は新橋駅であり、また東京の北の玄関口である上野駅(民営東北本線の起点)から線路は南へ伸びていはいません。まさに当時の東京駅周辺は雑草が生い茂る荒地なっていました。とは言ってもそもそもそこは日本陸軍の土地があった場所なので誰も手出しができなかったそうです。
当たり前の話ですが、皇室専用貴賓出入口のスロープは立ち入り禁止の処置が取られていました。
当時の東京で賑わっていたのは民営東北本線の起点駅である上野周辺と浅草、また官営東海道本線新橋駅に程近い銀座の街でした。東京の2大繁華街の間に挟まれて現在の日本橋周辺がビジネス街として発展していました。やがて丸の内の陸軍用地は民間に払い下げられることになりますが、ここで出てくるのが三菱財閥を作り上げた「岩崎家」の人たちです。
土佐藩の坂本龍馬が生前に総合商社のモデル(当時は「商社」という概念がなかった)として作った組織「海援隊」。私設海軍・貿易など、薩摩藩などからの資金援助も受け、近代的な株式会社に類似した組織、商社活動を行っていました。これが岩崎弥太郎によって九十九商会・三菱商会・郵便汽船三菱会社(後の日本郵船株式会社)・三菱商事といった「三菱財閥」へと発展されられることになります。
明治維新の倒幕運動の最中に坂本龍馬は暗殺、岩崎弥太郎は藩令によって解散した海援隊を元に大阪市堀江に「九十九商会」を設立します。廃藩置県後の明治6年(1873年)に後藤象二郎の肝煎りで土佐藩の負債を肩代わりする条件で船2隻を入手し海運業を始め、現在の大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷(土佐稲荷神社付近)に九十九商会を改称した「三菱商会(後の郵便汽船三菱会社)」を設立します。三菱商会は弥太郎が経営する個人企業となります。
皇室専用貴賓出入口をズームで撮影してみました。
丸の内駅前広場内は即席で造られたというか、急増されたロータリーという雰囲気がそのものでした。今後の整備に期待することにします。奥に見える建物は新丸の内ビルの低層棟です。
目の前には丸の内南口前とは比較にならないほどの台数のタクシーが止まっているタクシープールの敷地が広がっています。次回の記事では丸の内北口と北口前のロータリーの様子、そして岩崎家の三菱商会が丸の内の陸軍用地を買い取ることになる経緯について説明していきます。