トップの写真が周山の慈眼寺にある光秀像です。右肩下には黒塗りが薄くなりよく見ると微かに桔梗の紋が現れています。厳しい眼光を見せる光秀像を訪れる人は決して多くはありませんが、最近いろいろなメディアに取り上げられることが多くなりました。昨年でしたっけ、大津の博物館での光秀展に出張されていまして、その時の反応で多かったのは、こんな厳しい顔の光秀は始めて見たというものだったそうです。あの肖像画の公家のようなイメージが一般化しているのでしょう。
期せずして「京北の文化財」5月1日号のトップにも登場していまして;
木像は光秀が創始したと伝わる観音山にあった密厳寺に伝来していたもので、密厳寺の廃寺(明治45年)にともなって、位牌、釈迦堂と共に慈眼寺へ移転。表面が黒で被われているのは逆臣光秀像であることを隠すためといわれているが、戦国の戦乱を駆け抜けた光秀の姿を今に伝える貴重な作例である。
と説明されています。
周山城を築いた光秀の像、この木像は、ここ慈眼寺に来るまでは慈眼寺の川向いの観音山にあった密厳寺という寺にあったものです。
では最初から密厳寺にあったのであろうか、いつ頃誰がこの木像を彫ったのか。そしてなぜこの像が今京北にあるのか、どこから来たのであろうか?との不思議について話された。
石井さんは、この像を彫らせたのは光秀を慕った縁者かも知れないし、光秀よくぞ信長を討ってくれたと内心喜んだ武将が作らせたかもしれない、秀吉もその一人だったかも知れない、誰が何時作ったのかは全く分からないが、おそらく坂本あたりで、桃山時代か江戸時代に、つくられたものであろうとのことです。それが密かに当地の密厳寺に移送され祀られていたが、明治45年に廃寺になったため、慈眼寺に来たとのことです。誰が作ったのか、そしてそれが何故ここ周山の密厳寺に来たのか、が石井さんの不思議だと解釈しました。
密厳寺には他の仏像もあった訳で、本尊の観音像は??寺に移って行った。しかしこの光秀像は何故か引き取り手がなかったのかもしれない。明治時代にはただ逆臣としてしか見られていなかったせいなのか、慈眼寺に移り京北に残ったのではという話をされました。
なお、光秀に関しては、福井の明智神社に13cmほどの小さな木像があるのと、岸和田の本徳寺にあるかの有名な肖像画があるのみであると。(これに関しては、池上保さんが、白川にある光秀の首塚にも木像があると指摘されていました。なお亀岡の谷性寺にも座像があるそうですが、これは新しい時代に作られた物とか) 今慈眼寺にある黒塗りの光秀像はやはり貴重な像です。
京北の文化財行政に携わっておられた石井氏ならではの話を聞けたのは嬉しかったですね。
話はそれますが、慈眼寺にはもう一つ美山の聞法寺にあった立派な仏像があります。また奈良の長谷寺の門を守っている仁王像はこの聞法寺にあったものだそうです。では周山廃寺(郷林寺)にはあれだけの伽藍を誇ったからにはさぞ立派な仏像も居ましたであろうに、そは今何処に?という疑問も湧いてきますね。
もう一つ余談です。明智光秀は天海上人であったとの説の根拠の一つに、天海上人は慈眼大師と諡されていて、その光秀像があるのが慈眼寺、というのがあげられますが、元は密厳寺にあったのであり、慈眼寺に来たのは明治45年以降ですからこの根拠は説得力は無いと思います。この説の根拠はこれだけではありませんし、私は光秀が天海上人であって欲しい気持ちを持っている一人です、為念。
期せずして「京北の文化財」5月1日号のトップにも登場していまして;
木像は光秀が創始したと伝わる観音山にあった密厳寺に伝来していたもので、密厳寺の廃寺(明治45年)にともなって、位牌、釈迦堂と共に慈眼寺へ移転。表面が黒で被われているのは逆臣光秀像であることを隠すためといわれているが、戦国の戦乱を駆け抜けた光秀の姿を今に伝える貴重な作例である。
と説明されています。
周山城を築いた光秀の像、この木像は、ここ慈眼寺に来るまでは慈眼寺の川向いの観音山にあった密厳寺という寺にあったものです。
では最初から密厳寺にあったのであろうか、いつ頃誰がこの木像を彫ったのか。そしてなぜこの像が今京北にあるのか、どこから来たのであろうか?との不思議について話された。
石井さんは、この像を彫らせたのは光秀を慕った縁者かも知れないし、光秀よくぞ信長を討ってくれたと内心喜んだ武将が作らせたかもしれない、秀吉もその一人だったかも知れない、誰が何時作ったのかは全く分からないが、おそらく坂本あたりで、桃山時代か江戸時代に、つくられたものであろうとのことです。それが密かに当地の密厳寺に移送され祀られていたが、明治45年に廃寺になったため、慈眼寺に来たとのことです。誰が作ったのか、そしてそれが何故ここ周山の密厳寺に来たのか、が石井さんの不思議だと解釈しました。
密厳寺には他の仏像もあった訳で、本尊の観音像は??寺に移って行った。しかしこの光秀像は何故か引き取り手がなかったのかもしれない。明治時代にはただ逆臣としてしか見られていなかったせいなのか、慈眼寺に移り京北に残ったのではという話をされました。
なお、光秀に関しては、福井の明智神社に13cmほどの小さな木像があるのと、岸和田の本徳寺にあるかの有名な肖像画があるのみであると。(これに関しては、池上保さんが、白川にある光秀の首塚にも木像があると指摘されていました。なお亀岡の谷性寺にも座像があるそうですが、これは新しい時代に作られた物とか) 今慈眼寺にある黒塗りの光秀像はやはり貴重な像です。
京北の文化財行政に携わっておられた石井氏ならではの話を聞けたのは嬉しかったですね。
話はそれますが、慈眼寺にはもう一つ美山の聞法寺にあった立派な仏像があります。また奈良の長谷寺の門を守っている仁王像はこの聞法寺にあったものだそうです。では周山廃寺(郷林寺)にはあれだけの伽藍を誇ったからにはさぞ立派な仏像も居ましたであろうに、そは今何処に?という疑問も湧いてきますね。
もう一つ余談です。明智光秀は天海上人であったとの説の根拠の一つに、天海上人は慈眼大師と諡されていて、その光秀像があるのが慈眼寺、というのがあげられますが、元は密厳寺にあったのであり、慈眼寺に来たのは明治45年以降ですからこの根拠は説得力は無いと思います。この説の根拠はこれだけではありませんし、私は光秀が天海上人であって欲しい気持ちを持っている一人です、為念。
光秀の論争はまだまだ収束しておりませぬ。かれこれ10年前でしょうか、亀岡を隈なく巡ったことがありました。その時、こんな立派な御像ではなく、まるで地蔵菩薩のような粗末な光秀像を田んぼや畑の隅で拝見したものです。それが田んぼの端にあったり林の中にあったり様々でした。この時、僕の光秀への考え方が大きく変わりました。土地の人には実に絶対的名君であったと確信したのです。
僕は信長も一面では大好きです。楽市楽座などや宣教師を入れたことも、グローバル敵に信長を観て、彼によって、多彩な先駆的な凄い政策の持ち主だと今も信じています。
一方明智光秀は、その評価の多彩さにウンザリ来るのですが、いまだに歴史の答えが出ていないのではないでしょうか。寧ろある面では保守的であったことがあげられます。そこが腹立たしいのではなかったのでしょうか。
確かに信長は光秀を心から信じ従いさせました。でも全く本人たちは、水と油に違いありません。小姓数人を従え、本能寺に行ったのは、福岡の商人が希代の名品である棗を持って来たためです。それが命取りになったのですが、一方光秀には光秀の信念があったはずです。先駆的な革命論者の信長を、朝廷、信長嫌いの人々から利用され、心ならずとも対立したのでしょう。一言、光秀は、亀岡では間違いなく名君でした。
春浅い折、亀岡のあちこちを探訪して歩きました。僕が見つけたのはたった五個でしたが、多分まだまだ多くの塑像の光秀像があるのでしょう。田んぼや畑の隅っこに!
光秀と信長の確執を早急に語るべきではないとキッパリと申し上げておきたいのです。そこに単なる戦国絵巻ではなく、人と人の大きな問題を示唆しているように思われてなりませんのです。
僕は光秀をどちらかというと擁護したい思いでいっぱいですが、信長にも、偉大なる魅力を感じつつ筆置き難し。
亀岡にはそんなに沢山、しかもお地蔵さんの様に光秀像があったのですか。それぞ正に光秀を慕う人が多かった証でしょうね。これは始めて聞きました。亀岡では光秀祭があるそうで一度見てみたいと思っているのですが。何月でしたっけ。
私は信長好き人間の一人です。近世の扉を開いた信長にあと20年程は生きていて貰ってどんな政治をしたか見せて欲しかったと思っております。光秀は私にとっては優秀な官僚というイメージでしかありません。まあそれが光秀が重用された要素なのでしょうけれど。
光秀に関しても真相はまだまだ闇の中のようです。ただ、近隣の北桑田と南桑田とでは、どうして評価が正反対になるのか不思議です。いずれ、実像が解明される時は来るのでしようが。
予断ながら、信長を暗殺した光秀が逃亡中に、小栗栖の長兵衛に竹槍で殺されたと謂う竹薮が、我が家の近所にあります。逃走経路からしますと、光秀は我が家の前を通ったことになります。私が移り住んだ頃はまだ竹藪が多くて狭い地道でした。今は拡張されて舗装道路になっています。歴史は遠くなりにけり、です
光秀が周山城築城の為石を求めた時の伝承は数多くあります。機会があればこのブログでも紹介したいですね。
縄野坂の戦いの後光秀は山国荘を焼き払ったと言われていますが私はそうだったろうかと疑問を抱いています。この話は整理できたら書きたいと思っているのですが、、
お書きになっておられますように、光秀は丹波にとっては侵入者です。宇津氏の山国横領は確かに都の公家等にとっては許すべからざることだったかも知れませんが、山国の地侍たちがどう考えていたかは、その後の光秀に対する戦いがよく示しているのではと思います。
やはり、光秀人気の根底は信長を倒したということにあるのではと思います。武田氏滅亡後の甲斐では多くの地侍たちが逼塞していましたが、本能寺の知らせに欣喜雀躍し、お祝いの宴を開いたという話も伝わっています。丹波でも同様のことが行われ、それまでの光秀に対する恨み辛みがチャラになってしまったのではないでしょうか。
光秀像が「慈眼寺に来たのは明治45年以降」、光秀=天海説を主張する人(マスコミ)は、こういう事実を言わないですね。それと、本能寺の変の時には、光秀は既に70歳を超えていたという説もあり、それだと光秀天海論は完全に崩れます。光秀の墓は近江坂本の西教寺にありますから、何かしら天台宗との絡みはあるように思われます。
地侍と仰っていますが当時の山国荘の人が光秀にどう対したかはなかなか興味ある命題ですね。御料にまず手を伸ばしたのが宇津氏でしょうし、次が光秀でしょう。宇津氏は鳥居家などと姻戚関係を結ぶなどして直接武力でという方法ではなかったようです。さて光秀は縄野坂の戦いの後山国を焼き払ったか。これは道草さまのコメントへの返事で少し触れたのですが、残る古文書には徹底的にやられた様に記述するものがかなりあるようですが、どうも釈然としません。これは又の機会にという事にしておきます。
私は、明智光秀のファンで史跡めぐりをしています。
慈眼寺の光秀像を見学したいのですが、事前連絡をせずに、突然訪問でも見る事が出来るのでしょ~か?
また、車での訪問になりますが、駐車スペースも有るのか?ご教授お願い致します。
慈眼寺の光秀像のある釈迦堂はいつもは開いていません。事前に電話で予約してください。電話は 0771-53-0003 です。当日住職がお留守でしたら空けておくからと返事があるとおもいます。門を入って左手にあります。また本堂奥の開山堂には明智家の位牌も祀られていますのでその希望もお伝え下さい。天井絵もありますが暗くて見えませんので、見たければ大きいめの懐中電灯も持参されることをお薦めします。
駐車場ですが、大丈夫です。JR周山駅を過ぎてすぐに信号があります(京都銀行あり)、その信号の所に牛肉で有名な「登喜和」がありますので左手に入り少し行った右に慈眼寺会館がありその前に駐車できます。地図などご希望でしたらこのブログの右にある「メッセージを送る」からメールを下さい。詳しい地図をお送りします。
折角お越しになられるのでしたら周山城には登られませんか?バス道を200ms程行き、羽田酒造の前のバス停を左に入って行きますと案内が立っています。45分もあれば登れます。もし私の時間が空いておればご案内も可能です。
光秀の史跡めぐりですか。羨ましいですね。ホームページかブログで発表されているのでしょうか?色々ご教授下さい。
早々のレス有難う御座いました。
梅雨明けをしたら!周山城と光秀公を見に行きたいと思います。(8月ぐらいかなぁ?)
後日、日程が決まればメール出させて貰います。有難うございました。
詰まらないページですが、URLを添付させてもらいます。