北山・京の鄙の里・田舎暮らし

北山、京の北に拡がる山々、その山里での生活を楽しんでいます。

貞任峠、昔の貞任塚

2008-11-17 20:16:50 | 歴史・社寺・史跡など
今日は京北ボランティアガイドの現地研修ということで宇津城趾と貞任峠を訪れました。本日の先生は地元、宇津にお住まいの池上保さん。コミュニティセンターで宇津、宇津氏、城趾、等々を解説していただきました。会長の一瀬裕子さんや顧問の大平先生を始め計7名が参加しました。

まず宇津城へとあえぎあえぎ登ったのですが、これはちょっと整理が大変ですので、今日は貞任峠へ行った部分を報告します。予備知識として、18年7月3日に<貞任峠・柚の育たない里・貞任伝説>と題して書きましたので<ここ>をクリックして読んでみてください。

ここ京北の宇津に伝わる貞任伝説の概略は上の記事の通りなのですが、その場所を示す祠が現在の峠にあります。しかしこの祠がある位置は昔から伝えられている首塚の所ではない事を今日池上保さんに教えていただきました。ではその場所はと道を探しながら見付ける事が出来ました。トップの写真がそれです。




現在の峠は宇津峡公園の対岸に登り口の案内が立っていますが、そこから登った峠にある祠の少し下、すなわち祠に向かって左、に古い道を探して少し下って行くと、大きな杉の木があります。これが目印になります。その傍に貞任の首塚の石碑が枯葉に埋もれていました。枯葉を取り除いて撮影しました。そうか、こんな小さな石碑であれば見過ごしてしまいますね。しかし私にとっては本日最大の喜びでした。昔はこうであったよ、と本当の事を教えていただいたからです。今この記録を残しておかないと、今日見た石碑は恐らく地中に埋もれてします可能性が高いでしょう。池上さん自身もあれ、この辺りだったんだけど、と最初は迷われました。私がこっちにも道がありますよと、池上さんに教えていただいた杉の木を探して見付けました。池上さんの話によると、昔の峠道は博労さんが牛を連れたりもしていたそうですが一部崩壊したため現在の道になっているそうです。その為この地点は忘れされようとしていたのでしょう。

貞任の話は伝説であり、恐らく史実ではないでしょう。伝説である以上ここに首を埋めた位置とは言えない、要はこの峠にはこういう伝説がある、という事で十分だということはあるでしょう。ただ私は昔の人がここに石碑を建てていた、という地点はしっかりと保存すべきだと思いますし、後世に伝えるのが地元を愛することだと思います。その意味で今日の池上さんにお教えいただいたことに感謝、感謝の気持ちでいっぱいです。

お昼になったので皆でお昼ご飯を頂きなが、次の現地研修の場所を話し合ったり、情報交換をしました。池上さんは遺跡に興味があるそうです。京北には沢山の古代遺跡があります。あちこち案内していただけたら良いな、と益々興味を抱きました。

ただ心したいのは、今日の研修で我々は知識を得たのであるが、単にガイドをするだけでなく、それを少しでも多くの人に知って貰う努力も必要であるのでは、と思っている。まあ、このブログで書くこともその一つであると思い報告させていただきました。

一つ忘れていました。貞任峠の案内板の前で、私が出しゃばって、ここに源義家の名前が出てくるでしょう、義家と言えば<納豆ロード>、納豆餅の地、京北のガイドをするならこれは知っておかないと、から始まって、新猿楽記、法皇納豆伝説などなど、納豆発祥の地談義をしてしまいました( ^_')


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4 コメント

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廃道は今・・・。 (道草)
2008-11-18 07:28:03
小学校の秋の遠足で貞任峠を何度か越えました。父の仕事に着いて行って越えたこともあります。上り口から直ぐに三十六曲りの急坂になった記憶が甦ります。ただ、貞任塚の話を聞いたことはありませんでした。
あの頃は、この小さな首塚の傍を、何も気付かずに通り過ぎていたのかも知れません。
日吉ダムが完成するまでは、世木地区との唯一の近道がこの貞任峠でした。天若からこの峠道を越えて、宇津村へ嫁入りした人もあるそうです。花嫁もおそらく歩いて越えたのでしょう。山中では草鞋を履いたのかも知れません。遠い日の長閑な光景が目に浮かぶようです。
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梗概のパワー (硯水亭 Ⅱ)
2008-11-20 20:16:11
      Mfujinoさま


 又素晴らしいリポートを楽しく読ませて頂きました。僕はいつも思うことですが、曰く因縁を書かれた文章に、たった一度も魅力ある文章に出逢っておりませぬ。全国にたくさん読んでいるのにです。由緒書きを背伸びをしたり、色んな権威と結びつけたり、その色気は多種多様だからでしょう。でもどんなカタチでもいいですが、やはり由緒書きには一定の、光り輝く魅力が絶対に必要です。

 例えば阿部貞任は奥羽の人でした。それがこんな形で、首塚があるなんて、どうあっても哀しいことです。ようやく見つけて下さった首塚のこの写真に向かって深ゝと手を合わせたぐらいですから。だって貞任自身の身は完璧な潔白だったのですから。この巻頭の写真を見て、どんなに哀しんだことでしょう。

 もし万一、その下りを書いて下さるとしたら、或いはご説明をされるのだとしたら、どうか奥羽に残されたご家族や民百姓のことも書かれて戴き、魅力ある梗概にして頂きたくて堪りませぬ。飄々と書かれたり、反面面白可笑しく解説されるのもいいでしょう。でもその反対側には必ず恨みに思う方々もいることを、どうかどうかご存知戴きたくお願い申し上げます。今やタイガースとジャイアンツのような軽い争いではないのですから、それだけに真剣だったことでしょう!
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宇津村の西の玄関 (mfujino)
2008-11-20 23:17:51
道草さま、 貞任峠は車社会以前の宇津の人にとっては西の玄関口だったのでしょうね。道草さまの小学校の遠足は貞任峠を超えて行かれたそうですね。貞任峠のすぐ世木側は今はコスモスパークと呼ばれ、休日にはオフロードの競技を楽しむ車の世界のようです。あそこが小茅地区だったのでしょうか。
峠は花嫁の通った道ですね。どの峠でも嫁さんが来たという話が必ずあります。
もう一つ、道草さまには、常勝軍団たる宇津村の応援歌;
>人尾峠貞任峠に雲乱れ
>大堰川の川瀬の音激す
>鍛え鍛えた宇津男児
>我ら勝利の意気見よや
付きのコメントを頂いたことがありますね。宇津のお城は応援歌には登場しないのでしょうかね。
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人様を案内すること (mfujino)
2008-11-20 23:27:22
硯水亭さま、  今日も示唆に富んだコメントを有難うございました。ご指摘いただいたことに心いたします。
私がもっと勉強してもし京北ガイドを志す人の研修をする立場に立つ日がくれば、ここ貞任峠へ連れてきた後にレポートを提出して貰う、という手法をとるかもしれません。この峠に立つと、まず阿倍貞任とはどんな人物であったのか、前・後九年の役は、何故ここにこんな伝説が残っているのかは陰陽師や有頭郷の領地と源平とどの様な関係があるのか、また車社会前のこの峠の持つ意味、等や、納豆ロード、京北の納豆文化、関連して宇津氏、神護寺、明智光秀、、、、、、挙げるときりがありませんが、こういった事柄にどれだけ取り組んで調べようとしているかが分かるからです。
私は当日、当地の貞任伝説と義経・チンギスハーン伝説、光秀天海上人説などについても話しました。
明日は「炎立つ」を求めに本屋へ走ろうかなとも思っています。辞書や歴史書ではなく小説を読まないと硯水亭先生の仰る奥羽の人の気持ちが分からない。もう一つ、この春には東北旅行をしたくなりました。様々な花が一斉に咲き始める地、納豆や貞任峠が取り持つ縁の地を巡りたいと思うや切に、という心境です。
ガイドという点で、昨日は甲賀流忍者屋敷を訪れたのですが、先月に訪れた伊賀の忍者屋敷での案内との違いに非常に興味を抱きました。
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