北山・京の鄙の里・田舎暮らし

北山、京の北に拡がる山々、その山里での生活を楽しんでいます。

樋口きよえ(名古きよえ)さん

2010-08-15 10:19:08 | 人物
樋口きよえさん、ペンネーム「名古きよえ」さんについては、これも京都府立ゼミナールハウス友の会だよりの平成18年秋号、No121,H18.10.1発行の「あの人この人」欄で紹介されていますので、それを引用させていただきます。

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ふるさとを愛する女流詩人・女流画家
名古きよえさん

野の息吹は 土のうた
山の高処は 岩のうた
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野山はお母さん どこからか
勇気と愛が わいてくる

林立するビル群の中に田園風景が円に描かれ、赤い服の少女が手をかざす…。
「思い出」という日本画に詩を添えたこの作品が、カンヌ国際芸術祭でコートダジュール国際芸術賞を受賞された名古さんの作品です。
名古さんは、こうした作品の集大成「名古きよえ詩画集』を昨年(H17)出版されました。美山町知井(旧知井村河内谷)に生まれ十八歳の青春までここで過ごされた名古さんの詩や絵の中には、「ふるさと」が顔を覗かせています。今住む都会と生まれ故郷の現実と過去の世界が見事に表現されているようです。
中学二年の頃から文学に目覚めたという名古さんは、暇をみては短編への挑戦が続いたといいます。結婚後、育児と仕事で思うように書けなくなり、詩というジャンルに身をまかせました。「てんとう虫の日曜日」「蓬の中で」「窓辺の苺苗」「秋の光に」そして「目的地」と次々に詩集を発刊。
エッセイや日本画の手法で詩画にも力を入れ、今年もオランダの展覧会に出展予定だそうです。
こうして海外でも幾つかの受賞に輝くご活躍が続いているのです。かつての若狭から京への街道筋の中間にある美山町の知井のふるさとを愛し続ける名古さんは、生命あふれる大自然と歪な現実との狭間を詩にも絵にも描いているように思えるのです。また、思いの丈が個人誌「知井」にも感じられます。
ふるさとを愛して止まない女流詩人の健闘に拍手!。

名古(樋□)きよえ
日本文芸家協会会員・日本ペンクラブ会員・日本詩人クラブ会員・関西詩人協会会員・詩誌「地球」「冊」「ラビーン」会員・個人誌「知井」発行
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もう一つ、2010年5月5日発刊の「名古きよえ詩画集」に載せられている紹介記事もここに載せておきましょう。

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京都府南丹市美山町(旧知井)生まれ。
中学の時、俳句に出合い、バレーボールにも熱中。高校では短歌と詩に興味を持つ。京都女子大学文学部卒業後、児童芸術研究所勤務。1982年第一詩集を上梓し、2009年第五詩集「水源の日」を上梓する。50才後半から絵を学び、関西詩人協会詩画展、日本詩人クラブ詩書画展に参加、日本画家菊池啓二先生に色彩を特に厳しく学ぶ。
2010年1月、第13回エイズチャリティ美術展に(国立新美術館)「歩み」を出品。現在彩画会に出席し絵友だち15名と共に学んでいる。
日本ペンクラブ・日本詩人クラブ・関西詩人協会会員。「ラビーン」「柵」「近江詩人会」同人。個人誌「知井」を年に3回発行。
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美山町の萱葺きの里を1.5km程上流に河鹿荘を中心とした自然文化村がありますが、この中地区から南に深~い谷を深見峠方面へと舗装道が続きます。河鹿荘から更に南へ約1.5km入ったところが河内谷の集落の中心です。

この河内谷出身の樋口さん、そのペンネームは旧姓の名古姓を使われているようです。この集落は、長野姓か名古姓でいずれも知井十苗の一つです。

この河内谷といえば聞法寺が浮かびますが、もう一つ「木梨軽皇子」伝説で有名な御所ケ谷がこの集落から更に南へ数キロ入ったところにあります。

この谷を通る道は、西の鯖街道のなかの幹線道の一つで、弓削の里から深見峠~河内谷~中~知見~知井坂~名田庄の堂本~小浜と続きます。

自然豊かな里で青春時代を過ごされた名古さん、その作品はこのふるさとの影響抜きには語れないようです。


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8 コメント

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古里の誇る詩人。 (道草)
2010-08-15 14:00:11
樋口きよえさんは、やはり名古きよえさんでしたか。さすがに文章が緻密で且つ迫力がある、と改めて感じ入りました。名古さんには2度ばかりお目に掛かっています。一度は、会合の後で市内まで車で送ってもらった節にご一緒しました。
私より3歳ばかりお歳は上なのに、遙かに若々しく瑞々しい文章や詩をお書きになり感嘆しきりです。その上、絵まで描かれるとか。その多才振りには、全く敬服するばかりです。
「北桑時報」265号に、河内谷の詩を寄せておられます。ちなみに(ご存知とは思いますが)「北桑時報」は、全国有数の長期間に及ぶ郷土誌です。その編集方針は、もちろん、「古里を思い古里愛する」です。
名古さんの詩は幾つか読ませて戴きましたが、私の好きな詩は下記のものです。文中の「ドンコ」は蛙の河鹿のことでしょうか。私の村では「ドンコ」は雑魚の呼び名で、むしろ「ツチコ」と呼んでいました。清流にだけ棲む美味な雑魚でしたが・・・。

「かじか」   名古きよえ

清流に睨みをきかしていたかじかよ
いつの間にいなくなったんだい

私たちはお前をカバと呼んでいた
少し離れた村ではドンコといったそうだ
ニックネームを持っていた かじかよ

流れに逆らって 砂や石の上にいたが
網にはすぐに入ってきた

生き方の下手なやつ
思わぬ毒にやられてしまったのか

山の神さまと仲良しの
お前は 川の神様だったのか
しまった! (徘徊堂)
2010-08-18 15:58:36
 先日、久しぶりに茅葺きの里に行きました。行くたびに駐車場が広くなっています。店の数も増えています。今、このブログを読ませていただいて「しまった!行く前に読ませてもらえばよかった。」と思いました。河内谷まで足を伸ばし、聞法寺の址などをしのべたのにというところです。
 以前に道相神社にお連れいただいたときに「木梨軽皇子」の伝承を初めて知って驚いたのですが、この地方には広く伝わっているのですね。思わぬところで思わぬ人が(あるいは神が)突然登場するというのも各地徘徊の面白さですね。また、ご報告するかも知れませんが東山三条の近くに藤原兼家(道長の父)を祭神とする神社を見つけました。兼家の所行を思うと本当に「ありえへん」と思いました。京北や美山の神々はそういう生臭さからも抜け出て、今や懐かしい存在です。木梨軽皇子、菅原慶能、野々村仁清等々本来ならば全く無縁であったろう人たちとmfujino様のおかげで袖擦り合うことができて感謝です。
北桑時報のことなど (mfujino)
2010-08-18 22:51:04
道草さま、 友の会が縁で輪が広がることを願っています。
今回聞法寺を皆さんに知って貰いたいとい意図がまずあり、これについて書いて頂く人は樋口(名古)さん以外にないと白羽の矢を立てました。この寺については石川賢司さんというこの寺について研究されている第一人者たる素晴らしい人がいらっしゃるのですが、寺そのものでなく、そこで生まれ育ちこの寺のもつ文化について素晴らしい文章をお書きになる樋口(名古)さんが最適と考えたのです。道草さまが書かれている様に、自分の言葉で文章を書かれるのが素晴らしく、まさに故郷の誇る作家です。

北桑時報ですが、これだけの長期間継続されるには関係者の努力に敬意を表するのみです。ましてやその財政事情を考えると色々な困難が待ち構えていそうな状況と思います。ただ不満もあります。大体パターンが決まっていて、あれ今度の新しい号にはどんな記事が載っているのかしら?という期待感があまりないということです。編集ポリシーが伝わってきません。テーマを決めてから誰に書いて貰うか、という回路ではなく、書いて貰いやすい人にまず頭が行っているのではないかしら、と心配しています。これも古里を思う気持ちからこんな感想を書いてしまいました。

これはどんな会報誌にも言えることで、私も職場の友の会だよりの編集の一翼を担っていますのでその苦労が分かります。偉そうなことを言えませんが、ただここ2年で我が会報誌も姿が大分変わってきたなあ、という印象を持って貰っているのではないでしょうか。小さな世界にとどまることなく、記事を寄せて頂く人をどんどん開拓していかないといけないと思い、生来の厚かましさを全面にだしてあちこちに投稿者を求めてぶつかっています。まあこれでは猪突猛進の域を出ていませんが。今後もよろしくご指導下さい。
いろんな発見 (mfujino)
2010-08-18 22:51:35
徘徊堂さま、 先日は職場へお寄り頂きましてありがとうございました。お盆間は少しは自分の時間が持てたのではないかと思っていますが、如何でしょう?
私はお盆の行事で忙しので私に臨時に宿直が廻ってきたりと、ここ数日酷使されていました。帰って美味しいビールを呑むとついつい寝入ってしまい、何も書き込めませんでした。
昨日は早朝から再び権蔵坂を目指して下見にいきました。今回は五波峠から行きましたが、あ、これは迷いやすいなあ、と実感しました。ちょっとした分岐では地図とコンパスでしっかり確認し、残してある標識やテープの跡などを注意深く確認しながら何とかきちんと歩けました。地図上では稜線の部分が境界線になっていてルートの表示が見にくいのも苦労した要因です。
あれれプライベートなことばかりで返事になってませんね。
聞法寺はあの辺りとは指摘できますが、寺跡へはそう簡単ではなさそうです。一度必ず訪れたく思っています、ご一緒に如何?
聞法寺は当時の山岳寺院の一つと言えばそれまでですし、木梨軽皇子の伝説はあちこちにあります。また甲賀三郎についてもあちこちに伝説があります。安倍貞任やあやめ御前の伝説も全国あちこちにあります。ただこういった伝説も忘れ去られるかも知れません。この山里に生まれた人間として、当地に残された伝説や遺跡を自分なりに調べておくのも悪くはなかろうと思っています。調べて、という表現を使いましたが、私自身が新たな考察を出来る能力もありませんので、眠っているのを掘り起こして皆様にお知らせするということしか出来ないでしょうが。
徘徊堂さまの発見、楽しませて貰っていますし、今後も楽しませて下さい。
音楽のような旋律の文 (硯水亭歳時記 Ⅱ)
2010-08-19 14:11:14
    Mfujinoさま

 名古きよえさんの名文を何度も読ませて頂きました。古代と現代とを結ぶ思いは美しい旋律になっているようで、心から堪能させて頂きました。有り難う御座いました。

 ところで織田信長が執った天下布武のもとにあった各地寺院への焼き討ちや弾圧は決して赦されるものではありませんが、門徒も叡山も武装していた結果、断固とした排斥があったのでしょう。300にも上る小藩で出来た国家事情を突き抜けて、独立した日本国家を考えた最初の人が信長であったのかも。それとご維新で活躍した勝海舟もそうした尽き抜ける世界観があっただろうと存じます。日清戦争の時、福沢諭吉や西周や、多くの言論人が大賛成したのに対し、海舟だけは「支那とやるんじゃ兄弟喧嘩みてぇなもんじゃねぇか、血気に走るんじゃねぇ」(氷川清話)とバッサリと反対。考えるに頗る正論であっただろうと存じます。それより最も愚劣な施策は「廃仏棄却」でした。どれほど大きな被害や損害があったことでしょう。羽黒山などの塔頭群はその殆どがそこで絶えてしまいました、あの五重塔以外は。

 長谷寺の山門の記事も興味深く読ませて頂きました。長谷寺はご存知の通り、真言密教・豊山派の総本山です。叡山の庇護のもとにあったのが何故真言宗の本山に行ったのだろうと、興味が尽きません。実はあり得ないことなのです。それと仁王さまのいらっしゃる柵にはワラジがたくさん奉納されていますが、それこそ真言密教も山岳宗教の要素を含んでいた何よりの証拠ではないでしょうか。従って山岳宗教の一点で繋がっていたのかもと、併せて興味津々です。京北地方は愛宕権現さまを筆頭に、多く山岳宗教、或いは神仏混交の歴史観が鍵を解く最も大切なポイントではないかと拝察しております。
守られた仏様 (mfujino)
2010-08-19 22:26:08
硯水亭さま、 信長の命を受けた光秀が周山城を築く為、この聞法寺のみならず京北のあちこちの寺社などから石などを集めました。これが縄野坂の戦いの源にもなりましたし、福徳寺では地蔵を守る為に蓮の池に放り込んで隠した、等々いろんな話があります。武装勢力たる比叡山に対したのとは違い、築城の為でした。

残された仁王さんと釈迦如来像はその後途中盗難にあったりそれを買い戻したりしましたが信仰心の厚い地元人達によって守られてきました。ただ硯水亭さまが仰る様に、これらの仏にとっての最大の危機は廃仏毀釈ではなかったろうかと思います。それが現在慈眼寺や長谷寺で人々を迎えておられるのは地元の人達にとっても救いになるのではないかと思います。

長谷寺の仁王門には草鞋がいっぱいぶら下げてありました。撮影には苦労したのですが、同行人がここに窓があるよ、と教えてくれましたので、なんとか金網越しでなく直接のお姿を下から撮影できました。聞法寺は最澄が丹波道場として云々と言われていますので、天台宗ではなかろうかと思います。どうして長谷寺に?というのは分かりませんが、売買でと考えておりますがよく分かりません。

この仏様の運命については追って書きたいと思っています。
知井河内谷に思いを馳せます (ささ舟)
2010-08-22 16:01:16
mfujinoさん、樋口きよえさんの、ふるさとの文化財を友の会誌で拝読しましたときに、知井の山中のぼんぼうに何か知らない感動を覚えました。こんなに清らかなお寺がある知井の河内谷訊ねてみたい思いです。其処をふるさとの佐古きよえさんの「てんとう虫の日曜日」「蓬の中で」「窓辺の苺苗」「秋の光に」「目的地」の詩集をぜひ読んでみたいのですが、図書館にあるのでしょうか?
長谷寺は西国三十三ヶ寺の中でも最も好きなお寺でした。仁王門をくぐると、すぐに、優美な登廊があリ、唐の皇妃馬頭夫人から献木された牡丹が沢山植えられています。花の頃には、混むだろうと思い二度とも外してお参りしました。近鉄電車から見れば三輪山の奥まったところに美しい長谷寺が見えます。導かれるように自然に足が向かいました。
ご詠歌。いくたびも まいるこころは はつせでら やまもちかいも ふかきたにがわ
長谷寺の思い出など (mfujino)
2010-08-22 18:04:10
ささ舟さま、 今久しぶりの夕立です\(^_^)/ 河内谷に行きたくなられましたか。でも聞法寺跡は山の上にあり地元の人達が年に一回?お参りに行かれるだけの様です。私も一度訪れたいのですがまだ果たせていません。
名古きよえさんの詩画集はどうでしょう、図書館には無い可能性の方が高いでしょう。最近出された第2集は手元にありますので機会を見つけてお届けしましょう。
長谷寺はもう何回訪れたことでしょう。という訳で先日は仁王門だけと入口で断って拝観料を払わずに入りました。仁王さんにはちゃんとお賽銭をおいておきましたけど。アジサイが綺麗に咲いていました。帰りは初瀬ダムから笠(ここは蕎麦畑を楽しんだ思い出の地です)を通り、三輪山の裏~石上神社と廻って帰りました。
仁王さんがこうして現役で頑張っておられるのは、幾多の苦労を乗り越えて仏を守ってこられた人達にとっては救いになっていることでしょう。

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