4月8日(土)
さて…今日は6:30チェックアウト予定なんで5:30に起床したよ。
そして昨日コンビニで買っておいたパンとオニギリを食べ…外を見てみると、もうソコソコ強い雨が降ってんじゃん。
せっかく靴と服と傘も乾かしたのに…もう濡れることになるのかぁ。
④和歌山県新宮市 Part.2編(2勝2敗)
昨日は熊野三山の「熊野那智大社」に行ったけど、今日はまず残す二山に行ってから和歌山市に出ます。
8:40「新宮」駅前からバスに乗るけど、その前にスグ近くで一山ハントできるんで6:30チェックアウトしたんだよ。
コレが宿泊した民宿で、素泊まり¥3,996(税込み)でした。
この後、最初に行くのはこの山の中なのかなぁ?
徒歩10分で「神倉神社」に着きました…熊野三山の一山である「熊野速玉大社」の摂社です。
社務所と世界遺産碑です。
『古事記』『日本書紀』によれば、神倉山は「神武天皇」が東征の際に登った天磐盾(あめのいわたて)の山であると伝えられています。
境内にあった摂社?です。
山上へは「源頼朝」が寄進したと伝えられる、急勾配の鎌倉積み石段538段を登らなければならない…って、この雨で?
538段…思ったよりキツくなかったなぁ、まだ半分くらいだろう?と思ったら頂上に着いたもんね。
熊野の神々は神代の頃、まず初めに神倉山のゴトビキ岩に降臨され、その後、景行天皇五十八年、現在の社地に真新しい宮を造営してお遷りになり、「新宮」と号したことが記されています。
この手水鉢は新宮城第2代城主「水野重良」から寄進されたもので、幅1.9メートル、奥行き91.0センチメートル、高さ60.0センチメートル、黒雲母花崗斑岩の巨大な一枚岩を刻んで仕上げた江戸時代のものだそうです。
まだ民宿出てから30分ほどで靴もビショ濡れや…
山上には「ゴトビキ岩」と呼ばれる巨岩が御神体として祀られているよ…熊野の神々が降臨したと伝えられています。
市内を見下ろす…って、ほとんど見えん。
「熊野速玉大社」の元宮なんだけど…こういう538段の石段とか巨石の御神体という神秘的な寺社を観るのは非常に興味深いね。
帰り(下り)の方が怖いなぁ…雨で滑らなきゃイイけど。
「御燈祭」という勇壮な火祭りが毎年2月6日に行われるんだって。
近くの「出雲大社新宮教会」も見てみました。
コレは稲荷社です。
「神倉神社」を出てから雨も一旦あがったよ…続いて徒歩で「熊野速玉大社」を目指します。
清涼寺と松巌院。
瑞泉寺と清閑院。
「神倉神社」を出て約10分後の7:30ごろ「熊野速玉大社」に着きました
“熊野三山”では新宮駅から徒歩でも行けるのがココ「熊野速玉大社」です。
コレは「手力男神社」と「八咫烏神社」です。
扇立祭舞台と忠魂碑です。
歌碑や記念碑。
コレは「熊野神宝館」です…像は「弁慶」みたい。
御神木「梛」と「熊野稲荷神社」です。
社務所と手水舎です。
コレは「神門」です。
新宮神社と恵比寿神社です。
写真右は「鈴門」です。
コレは「拝殿」です。
歌碑です。
参集殿と熊野御幸碑です。
世界遺産碑と授与所です。
佐藤春夫先生句碑です…って誰よ。
7:50「熊野速玉大社」を出ました…8:40発のバスまで、まだ50分もあるぞ
…ということで昨日ハントできなかった「徐福上陸の碑」のリベンジじゃい…って、駅まで少し回り道するだけだからさ。
「ことびき岩」と「八咫烏」だね。
写真右は昨日ハントした「新宮城跡」だよ。
ココも昨日ハントした「阿須賀神社」だよ…その脇道を入って行くんだけど…
昨晩、スマホで再チェックしておいたから場所もモノも分かってたけど…昨日もココ通ってたし、この灯篭みたいのも見覚えあるんだけど、まさかコレが上陸記念碑だとは思ってなかったみたいね。
また雨がけっこう強くなったけど…新宮駅に行き、8:40発のバスに乗りました。
⑤和歌山県田辺市編(2勝3敗)
次は“熊野三山”の最後(三山目)だけど…予定では「熊野本宮大社」までバスで1時間20分くらい掛かるみたいよ。
こんな天気なんでさ…バスも数人しか乗って来なくて、俺の前には台湾人のオバちゃんが座ってたよ。
途中、曇った窓ガラスを俺の横の窓も拭いてくれたんで「謝謝」と御礼を言ってから、少し中国語でお話しちゃった。
オバちゃんらは3人旅で来てるんだってさ…まぁ俺が1人で中国大陸をブラついてたのに比べりゃ日本は安全安心だわな。
10:00すぎ「本宮大社前」で下車しました。
平安時代の末には「浄土への入り口」として多くの皇族や貴族がお参りするようになり…浄土へお参りし、帰って来るということは、死と再生を意味します、そのため“熊野三山”は「よみがえりの聖地」として、今なお多くの人々の信仰を集めています。
コレは「大鳥居」です。
鳥居をくぐって杉木立の中「熊野大権現」の奉納幟が立ち並ぶ158段の石段を上ります。
俺は中腹にある「祓戸大神」にちゃんとお参りしたよ。
コレは「手水舎」です。
「熊野本宮大社」は全国3000以上の熊野神社の総本宮です。
写真右は「宝物殿」です。
小さな幟がいっぱい刺さってるぞ。
「神門」をくぐり、奥の御社殿に入ってみると…
左端から③西御前(結宮・第一殿)夫須美大神 ②中御前(結宮・第二殿)速玉大神 ①証誠殿(本宮・第三殿)家津美御子大神(素戔嗚尊) ④東御前(若宮・第四殿)天照大神 です。(番号は参拝順序なんだって)
正面が①証誠殿で、写真右⑤満山社 結ひの神(八百萬の神)
明治24年に現在地に遷されてから120年にあたる2012年には、正遷座120年記念大祭に合わせて御本殿の御屋根が葺き替えられたそうです。
コレは「拝殿」です。
「拝殿」前、左に「大黒石」右に「亀石」があります。
コレは「八咫ポスト」だよ…「八咫烏」は日本書紀・古事記の「神武東征」という物語に登場します。
「神武天皇」が宮崎県(日向)から奈良県(橿原)に都を移し、大和朝廷を開いて初代天皇に即位するまでを描いた物語です。
「神武天皇」が熊野に到着されたとき、神の使者である「八咫烏」が奈良まで道案内をしたというエピソードから、熊野三山に共通する“導きの神鳥”として信仰されるようになりました。
ちょっと境内の外に行ってみました。
コレは「祓殿王子社跡」で…「熊野本宮大社」での参拝前にココで祓い身を清めていたことから「祓殿王子跡」という名前が付いているそうです。
また境内に戻り…社務所と授与所です。
帰り道は参道と平行?した山道が「熊野古道」らしいのでソッチを下って行きました。
右が行きに上がった参道で、左が今降りて来た古道だよ。
「八咫烏」はサッカー日本代表のシンボルマーク?だからね…キリンの自販機がココにあるのもうなずける?
11:00「熊野本宮大社」を出て…「大斎原」に行ってみます。
「産田社」参拝の前に大きな鳥居の方に行ってみます…って、順番は先に「産田社」だったみたい。
コレが「大斎原」の大鳥居で高さ33.9mは日本一らしいよ。
世界遺産碑です。
三本の川の中州にあたる聖地「大斎原」に社殿が建てられたのは、飛鳥時代(615年)のことでした。
明治22年の大洪水により「大斎原」は大きな被害を受け、明治24年に上四社が現在地(今の熊野本宮大社)へ移されました…って、今も湿地帯を歩いている感じだわ。
かつて「熊野本宮大社」があった「大斎原」には二基の石祠が建てられ、左側に中四社下四社を、右側に境内摂末社の御神霊をお祀りしています。
だから昔の人たちはココにあった「熊野本宮大社」に参拝しに来てたんだね。
平安時代に皇族・貴族の間に熊野信仰が広まり、京都から「熊野古道」を通って上皇や女院の一行が何度も参拝に訪れました。
室町時代には武士や庶民の間にも熊野信仰が広まっていました…男女や身分を問わず、全ての人を受け入れる懐の深さから、大勢の人が絶え間なく参拝に訪れる様子は「蟻の熊野詣」と例えられるほどでした。
「産田社」には伊邪那美命の“荒御魂”がお祀りされています。
「熊野本宮大社」には伊邪那美命の和御霊(にぎみたま)が祀られていて、ココ「産田社」には伊邪那美命の荒御霊(あらみたま)が祀られています…って何が違うの?
和魂と荒魂は元来一つの神の2つの側面を表したモノで、和魂(和御霊)は神様のお優しい温和な霊力を指し、荒魂(荒御霊)は勇猛さの反面、粗野でときには人に祟りを及ぼすような霊力であり、神の「怒り」を示しているともいわれます。
新たなものを生み出すパワーを感じる神社…らしいけど、何も感じなかったわ…
「熊野本宮大社」が移ってしまったから大鳥居だけ残っちゃった…ってことなのね。
まだ11:30かぁ…帰りは12:17発のバスなんで45分くらいあるなぁ。
なんか他に見るトコも無くて昼ゴハン食べることにしたよ…軽く「焼き飯(チャーハン)」にしました。
一応、雨やんでるんだけど…もうエエわ。
12:17発のバスに乗って向かったのは「紀伊田辺」だよ…だから今朝までいた「新宮」の反対側に出ることになるのね。
バスは14:00ごろ「紀伊田辺(駅)」に着きました。
駅前には「弁慶」の像があります…武蔵坊弁慶は『義経記』では熊野別当の子で、紀伊国出身だと云われていますが詳細は不明らしいよ。
右は合気道創始者「植芝盛平」生誕の地碑です。
14:24「紀伊田辺」発のJR紀勢本線に乗り、15:33「御坊」での乗り換え(同じJR紀勢本線)があって「和歌山」に16:36着予定だよ。
⑥和歌山県和歌山市編(3勝3敗)
天候の勝敗は3勝3敗になったけど…朝から雨だと濡れた靴や服での移動だからさぁ、雨はやんでも冷たいのよね。
16:36ごろ「和歌山」に着いてスグ「和歌山城」に向かうんだけど、17:00までに入城しなきゃならないのよ。
駅前から16:45くらい発の路線バスに乗って降りる「公園前」まで何分掛かるか?そして下車後、天守まで何分で上がれるか?なんだよな~
バスは予定通りに出て、16:50すぎに「公園前」に着きました…あと7~8分で天守まで上がれるのだろうか?
(写真は一の橋大手門)
歩きながら電話して「17時ちょっと過ぎても17時半には退出するから入れてもらえないか?」問い合わせたんだけど、ダメだってよ…こうなりゃ自力しかないけど、どこから上がって行きゃイイんだ?
とにかく天守なんて上を目指しゃイイんだろ?と痛む足で早歩きだよ…そして何とか16:58くらいに入城券買えたよ。(¥410)
やっぱ独立した入城券売場だと時間通りに閉められちゃうだなぁ…コレが天守閣の入口での販売で、出入口共通だと若干時間過ぎても退出時間さえ守れば入れてくれる可能性が高いんだけどね。
「楠門(天守二の門)」と「天守閣」入口です。
中の展示品だよ。
甲冑。
銃と刀。
武器セット。
「真田丸」に出てきた「馬上筒(短銃)」はもう少し大きかった?
陣羽織ってヤツかな?
天守は連立式層塔型3重3階です。
天守から「二の門櫓」(左上)と「乾櫓」(右上)を望む。
さっき天守から見下ろした「楠門(天守二の門)」だよ。
この小さい建物が入城券売場です。
豊臣秀吉の弟「豊臣秀長」は1585年(天正13年)の紀州征伐の副将として参陣し、平定後に紀伊・和泉の2ヶ国を加増されました。
当時「若山」と呼ばれたこの地に秀吉が築城を命じ、自ら「吹上の峰」を城地に選定して縄張りを行いました。
普請奉行に「藤堂高虎」を任じ、1年で完成させました…この際に「和歌山」と改められたそうです。
1619年(元和5年)後に城主となった浅野氏は改易となった福島正則の後、広島藩に加増転封となり…代わって徳川家康の十男「徳川頼宣」が55万5千石で入城し、南海の鎮となる御三家の紀州徳川家が成立しました。
頼宣は兄の2代将軍「徳川秀忠」より銀5千貫を受領し、これを元手に1621年(元和7年)より城の改修と城下町の拡張を開始しますが、この改修が大規模であったため幕府より謀反の嫌疑をかけられるほどであったといいます。
特徴としては時代によって異なる石垣の積み方などがあり、豊臣・浅野時代の石垣には刻印された石垣石があります…模様は約170種類、2,100個以上の石に確認されていて、その大半が和泉砂石です。
紀州の徳川家からは8代「徳川吉宗」9代「徳川家重」14代「徳川家茂」が将軍になってるよ。
城内には約600本の桜が生育していて、ちょうど「和歌山公園桜まつり」やってたぞ。
コレは「伏虎像」です…江戸時代、和歌山城は別名「虎伏竹垣城」と呼ばれていました。
和歌山城の建つ山が虎の伏した姿に似ていたためと言われています。
「和歌山城」をハントした後は「紀州東照宮」や「和歌浦天満宮」に行けたら行こうと思ってたけど…曇りな分、陽が落ちるのが早そうな感じだったんで諦め、城周辺をもっと観てくことにしたよ。
また「大手門」に戻り…
今日は周辺を探索してネットカフェに行きます。
「天守曲輪外壁」がこんなキレイに見えるんだね。
この「御橋廊下」は江戸時代には藩主とお付の者だけが藩の政庁や藩主の生活の場である二の丸と紅葉渓庭園のある西の丸を行き来するために架けられた橋で、屋根を設けて外からは見えない造りになっていました。
奥に行くと「和歌山県護国神社」で写真右は「わかやま歴史館」です。(どっちも入らず)
雨ばっかの旅だけど…これだけの桜が観れただけでも良かったよね。(負け惜しみ?)
コレは「追廻門」です…って、また城内に入っちゃった。
あれコッチからも「護国神社」に続いてるの?
提灯に灯りが灯り始めたね。
コレは「歩兵第二百十八聯隊」の碑。
コレは「歩兵第六十一聯隊」と「歩兵第二百三十聯隊」の碑。
コレは「あゝ予科練」の碑。
もう参拝時間は終了しちゃったみたいね。
コレは「陸軍少年飛行兵」と「満蒙開拓青少年義勇軍」に関する碑みたい。
「和歌山公園動物園」です。
夜桜で花見客がけっこう来ていたよ。
雨はやんでるけど下がヌカるんでるからね…
重要文化財「岡口門」から出ました。
そして近くの「岡公園」に行ってみました…ココに「陸奥宗光」の像があるって知ったんで来たのに…どこにあんだよ?
もう日没タイムア~ップ
「和歌山城」もライトアップされてきたよ。
園内にあった「紀州徳川神社」です。
あんなにヌカるんだ園内を歩き回って発見できなかったとは…不覚。
コレは県庁前にある「徳川吉宗」の像です。
そこから約20分歩いてネットカフェ到着~
近くのガストで夕飯を食べて…20:00くらいにチェックインしました。
明日は5:34「和歌山」発のJR和歌山線に乗るのと、このネットカフェから駅まで4Km弱あるようなので…3時起きだな。
さて…今日は6:30チェックアウト予定なんで5:30に起床したよ。
そして昨日コンビニで買っておいたパンとオニギリを食べ…外を見てみると、もうソコソコ強い雨が降ってんじゃん。
せっかく靴と服と傘も乾かしたのに…もう濡れることになるのかぁ。
④和歌山県新宮市 Part.2編(2勝2敗)
昨日は熊野三山の「熊野那智大社」に行ったけど、今日はまず残す二山に行ってから和歌山市に出ます。
8:40「新宮」駅前からバスに乗るけど、その前にスグ近くで一山ハントできるんで6:30チェックアウトしたんだよ。
コレが宿泊した民宿で、素泊まり¥3,996(税込み)でした。
この後、最初に行くのはこの山の中なのかなぁ?
徒歩10分で「神倉神社」に着きました…熊野三山の一山である「熊野速玉大社」の摂社です。
社務所と世界遺産碑です。
『古事記』『日本書紀』によれば、神倉山は「神武天皇」が東征の際に登った天磐盾(あめのいわたて)の山であると伝えられています。
境内にあった摂社?です。
山上へは「源頼朝」が寄進したと伝えられる、急勾配の鎌倉積み石段538段を登らなければならない…って、この雨で?
538段…思ったよりキツくなかったなぁ、まだ半分くらいだろう?と思ったら頂上に着いたもんね。
熊野の神々は神代の頃、まず初めに神倉山のゴトビキ岩に降臨され、その後、景行天皇五十八年、現在の社地に真新しい宮を造営してお遷りになり、「新宮」と号したことが記されています。
この手水鉢は新宮城第2代城主「水野重良」から寄進されたもので、幅1.9メートル、奥行き91.0センチメートル、高さ60.0センチメートル、黒雲母花崗斑岩の巨大な一枚岩を刻んで仕上げた江戸時代のものだそうです。
まだ民宿出てから30分ほどで靴もビショ濡れや…
山上には「ゴトビキ岩」と呼ばれる巨岩が御神体として祀られているよ…熊野の神々が降臨したと伝えられています。
市内を見下ろす…って、ほとんど見えん。
「熊野速玉大社」の元宮なんだけど…こういう538段の石段とか巨石の御神体という神秘的な寺社を観るのは非常に興味深いね。
帰り(下り)の方が怖いなぁ…雨で滑らなきゃイイけど。
「御燈祭」という勇壮な火祭りが毎年2月6日に行われるんだって。
近くの「出雲大社新宮教会」も見てみました。
コレは稲荷社です。
「神倉神社」を出てから雨も一旦あがったよ…続いて徒歩で「熊野速玉大社」を目指します。
清涼寺と松巌院。
瑞泉寺と清閑院。
「神倉神社」を出て約10分後の7:30ごろ「熊野速玉大社」に着きました
“熊野三山”では新宮駅から徒歩でも行けるのがココ「熊野速玉大社」です。
コレは「手力男神社」と「八咫烏神社」です。
扇立祭舞台と忠魂碑です。
歌碑や記念碑。
コレは「熊野神宝館」です…像は「弁慶」みたい。
御神木「梛」と「熊野稲荷神社」です。
社務所と手水舎です。
コレは「神門」です。
新宮神社と恵比寿神社です。
写真右は「鈴門」です。
コレは「拝殿」です。
歌碑です。
参集殿と熊野御幸碑です。
世界遺産碑と授与所です。
佐藤春夫先生句碑です…って誰よ。
7:50「熊野速玉大社」を出ました…8:40発のバスまで、まだ50分もあるぞ
…ということで昨日ハントできなかった「徐福上陸の碑」のリベンジじゃい…って、駅まで少し回り道するだけだからさ。
「ことびき岩」と「八咫烏」だね。
写真右は昨日ハントした「新宮城跡」だよ。
ココも昨日ハントした「阿須賀神社」だよ…その脇道を入って行くんだけど…
昨晩、スマホで再チェックしておいたから場所もモノも分かってたけど…昨日もココ通ってたし、この灯篭みたいのも見覚えあるんだけど、まさかコレが上陸記念碑だとは思ってなかったみたいね。
また雨がけっこう強くなったけど…新宮駅に行き、8:40発のバスに乗りました。
⑤和歌山県田辺市編(2勝3敗)
次は“熊野三山”の最後(三山目)だけど…予定では「熊野本宮大社」までバスで1時間20分くらい掛かるみたいよ。
こんな天気なんでさ…バスも数人しか乗って来なくて、俺の前には台湾人のオバちゃんが座ってたよ。
途中、曇った窓ガラスを俺の横の窓も拭いてくれたんで「謝謝」と御礼を言ってから、少し中国語でお話しちゃった。
オバちゃんらは3人旅で来てるんだってさ…まぁ俺が1人で中国大陸をブラついてたのに比べりゃ日本は安全安心だわな。
10:00すぎ「本宮大社前」で下車しました。
平安時代の末には「浄土への入り口」として多くの皇族や貴族がお参りするようになり…浄土へお参りし、帰って来るということは、死と再生を意味します、そのため“熊野三山”は「よみがえりの聖地」として、今なお多くの人々の信仰を集めています。
コレは「大鳥居」です。
鳥居をくぐって杉木立の中「熊野大権現」の奉納幟が立ち並ぶ158段の石段を上ります。
俺は中腹にある「祓戸大神」にちゃんとお参りしたよ。
コレは「手水舎」です。
「熊野本宮大社」は全国3000以上の熊野神社の総本宮です。
写真右は「宝物殿」です。
小さな幟がいっぱい刺さってるぞ。
「神門」をくぐり、奥の御社殿に入ってみると…
左端から③西御前(結宮・第一殿)夫須美大神 ②中御前(結宮・第二殿)速玉大神 ①証誠殿(本宮・第三殿)家津美御子大神(素戔嗚尊) ④東御前(若宮・第四殿)天照大神 です。(番号は参拝順序なんだって)
正面が①証誠殿で、写真右⑤満山社 結ひの神(八百萬の神)
明治24年に現在地に遷されてから120年にあたる2012年には、正遷座120年記念大祭に合わせて御本殿の御屋根が葺き替えられたそうです。
コレは「拝殿」です。
「拝殿」前、左に「大黒石」右に「亀石」があります。
コレは「八咫ポスト」だよ…「八咫烏」は日本書紀・古事記の「神武東征」という物語に登場します。
「神武天皇」が宮崎県(日向)から奈良県(橿原)に都を移し、大和朝廷を開いて初代天皇に即位するまでを描いた物語です。
「神武天皇」が熊野に到着されたとき、神の使者である「八咫烏」が奈良まで道案内をしたというエピソードから、熊野三山に共通する“導きの神鳥”として信仰されるようになりました。
ちょっと境内の外に行ってみました。
コレは「祓殿王子社跡」で…「熊野本宮大社」での参拝前にココで祓い身を清めていたことから「祓殿王子跡」という名前が付いているそうです。
また境内に戻り…社務所と授与所です。
帰り道は参道と平行?した山道が「熊野古道」らしいのでソッチを下って行きました。
右が行きに上がった参道で、左が今降りて来た古道だよ。
「八咫烏」はサッカー日本代表のシンボルマーク?だからね…キリンの自販機がココにあるのもうなずける?
11:00「熊野本宮大社」を出て…「大斎原」に行ってみます。
「産田社」参拝の前に大きな鳥居の方に行ってみます…って、順番は先に「産田社」だったみたい。
コレが「大斎原」の大鳥居で高さ33.9mは日本一らしいよ。
世界遺産碑です。
三本の川の中州にあたる聖地「大斎原」に社殿が建てられたのは、飛鳥時代(615年)のことでした。
明治22年の大洪水により「大斎原」は大きな被害を受け、明治24年に上四社が現在地(今の熊野本宮大社)へ移されました…って、今も湿地帯を歩いている感じだわ。
かつて「熊野本宮大社」があった「大斎原」には二基の石祠が建てられ、左側に中四社下四社を、右側に境内摂末社の御神霊をお祀りしています。
だから昔の人たちはココにあった「熊野本宮大社」に参拝しに来てたんだね。
平安時代に皇族・貴族の間に熊野信仰が広まり、京都から「熊野古道」を通って上皇や女院の一行が何度も参拝に訪れました。
室町時代には武士や庶民の間にも熊野信仰が広まっていました…男女や身分を問わず、全ての人を受け入れる懐の深さから、大勢の人が絶え間なく参拝に訪れる様子は「蟻の熊野詣」と例えられるほどでした。
「産田社」には伊邪那美命の“荒御魂”がお祀りされています。
「熊野本宮大社」には伊邪那美命の和御霊(にぎみたま)が祀られていて、ココ「産田社」には伊邪那美命の荒御霊(あらみたま)が祀られています…って何が違うの?
和魂と荒魂は元来一つの神の2つの側面を表したモノで、和魂(和御霊)は神様のお優しい温和な霊力を指し、荒魂(荒御霊)は勇猛さの反面、粗野でときには人に祟りを及ぼすような霊力であり、神の「怒り」を示しているともいわれます。
新たなものを生み出すパワーを感じる神社…らしいけど、何も感じなかったわ…
「熊野本宮大社」が移ってしまったから大鳥居だけ残っちゃった…ってことなのね。
まだ11:30かぁ…帰りは12:17発のバスなんで45分くらいあるなぁ。
なんか他に見るトコも無くて昼ゴハン食べることにしたよ…軽く「焼き飯(チャーハン)」にしました。
一応、雨やんでるんだけど…もうエエわ。
12:17発のバスに乗って向かったのは「紀伊田辺」だよ…だから今朝までいた「新宮」の反対側に出ることになるのね。
バスは14:00ごろ「紀伊田辺(駅)」に着きました。
駅前には「弁慶」の像があります…武蔵坊弁慶は『義経記』では熊野別当の子で、紀伊国出身だと云われていますが詳細は不明らしいよ。
右は合気道創始者「植芝盛平」生誕の地碑です。
14:24「紀伊田辺」発のJR紀勢本線に乗り、15:33「御坊」での乗り換え(同じJR紀勢本線)があって「和歌山」に16:36着予定だよ。
⑥和歌山県和歌山市編(3勝3敗)
天候の勝敗は3勝3敗になったけど…朝から雨だと濡れた靴や服での移動だからさぁ、雨はやんでも冷たいのよね。
16:36ごろ「和歌山」に着いてスグ「和歌山城」に向かうんだけど、17:00までに入城しなきゃならないのよ。
駅前から16:45くらい発の路線バスに乗って降りる「公園前」まで何分掛かるか?そして下車後、天守まで何分で上がれるか?なんだよな~
バスは予定通りに出て、16:50すぎに「公園前」に着きました…あと7~8分で天守まで上がれるのだろうか?
(写真は一の橋大手門)
歩きながら電話して「17時ちょっと過ぎても17時半には退出するから入れてもらえないか?」問い合わせたんだけど、ダメだってよ…こうなりゃ自力しかないけど、どこから上がって行きゃイイんだ?
とにかく天守なんて上を目指しゃイイんだろ?と痛む足で早歩きだよ…そして何とか16:58くらいに入城券買えたよ。(¥410)
やっぱ独立した入城券売場だと時間通りに閉められちゃうだなぁ…コレが天守閣の入口での販売で、出入口共通だと若干時間過ぎても退出時間さえ守れば入れてくれる可能性が高いんだけどね。
「楠門(天守二の門)」と「天守閣」入口です。
中の展示品だよ。
甲冑。
銃と刀。
武器セット。
「真田丸」に出てきた「馬上筒(短銃)」はもう少し大きかった?
陣羽織ってヤツかな?
天守は連立式層塔型3重3階です。
天守から「二の門櫓」(左上)と「乾櫓」(右上)を望む。
さっき天守から見下ろした「楠門(天守二の門)」だよ。
この小さい建物が入城券売場です。
豊臣秀吉の弟「豊臣秀長」は1585年(天正13年)の紀州征伐の副将として参陣し、平定後に紀伊・和泉の2ヶ国を加増されました。
当時「若山」と呼ばれたこの地に秀吉が築城を命じ、自ら「吹上の峰」を城地に選定して縄張りを行いました。
普請奉行に「藤堂高虎」を任じ、1年で完成させました…この際に「和歌山」と改められたそうです。
1619年(元和5年)後に城主となった浅野氏は改易となった福島正則の後、広島藩に加増転封となり…代わって徳川家康の十男「徳川頼宣」が55万5千石で入城し、南海の鎮となる御三家の紀州徳川家が成立しました。
頼宣は兄の2代将軍「徳川秀忠」より銀5千貫を受領し、これを元手に1621年(元和7年)より城の改修と城下町の拡張を開始しますが、この改修が大規模であったため幕府より謀反の嫌疑をかけられるほどであったといいます。
特徴としては時代によって異なる石垣の積み方などがあり、豊臣・浅野時代の石垣には刻印された石垣石があります…模様は約170種類、2,100個以上の石に確認されていて、その大半が和泉砂石です。
紀州の徳川家からは8代「徳川吉宗」9代「徳川家重」14代「徳川家茂」が将軍になってるよ。
城内には約600本の桜が生育していて、ちょうど「和歌山公園桜まつり」やってたぞ。
コレは「伏虎像」です…江戸時代、和歌山城は別名「虎伏竹垣城」と呼ばれていました。
和歌山城の建つ山が虎の伏した姿に似ていたためと言われています。
「和歌山城」をハントした後は「紀州東照宮」や「和歌浦天満宮」に行けたら行こうと思ってたけど…曇りな分、陽が落ちるのが早そうな感じだったんで諦め、城周辺をもっと観てくことにしたよ。
また「大手門」に戻り…
今日は周辺を探索してネットカフェに行きます。
「天守曲輪外壁」がこんなキレイに見えるんだね。
この「御橋廊下」は江戸時代には藩主とお付の者だけが藩の政庁や藩主の生活の場である二の丸と紅葉渓庭園のある西の丸を行き来するために架けられた橋で、屋根を設けて外からは見えない造りになっていました。
奥に行くと「和歌山県護国神社」で写真右は「わかやま歴史館」です。(どっちも入らず)
雨ばっかの旅だけど…これだけの桜が観れただけでも良かったよね。(負け惜しみ?)
コレは「追廻門」です…って、また城内に入っちゃった。
あれコッチからも「護国神社」に続いてるの?
提灯に灯りが灯り始めたね。
コレは「歩兵第二百十八聯隊」の碑。
コレは「歩兵第六十一聯隊」と「歩兵第二百三十聯隊」の碑。
コレは「あゝ予科練」の碑。
もう参拝時間は終了しちゃったみたいね。
コレは「陸軍少年飛行兵」と「満蒙開拓青少年義勇軍」に関する碑みたい。
「和歌山公園動物園」です。
夜桜で花見客がけっこう来ていたよ。
雨はやんでるけど下がヌカるんでるからね…
重要文化財「岡口門」から出ました。
そして近くの「岡公園」に行ってみました…ココに「陸奥宗光」の像があるって知ったんで来たのに…どこにあんだよ?
もう日没タイムア~ップ
「和歌山城」もライトアップされてきたよ。
園内にあった「紀州徳川神社」です。
あんなにヌカるんだ園内を歩き回って発見できなかったとは…不覚。
コレは県庁前にある「徳川吉宗」の像です。
そこから約20分歩いてネットカフェ到着~
近くのガストで夕飯を食べて…20:00くらいにチェックインしました。
明日は5:34「和歌山」発のJR和歌山線に乗るのと、このネットカフェから駅まで4Km弱あるようなので…3時起きだな。
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