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史跡ハンター 臥龍

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九度山から大阪へ!~「真田丸」大坂の陣

2017年04月09日 | 日本武尊・源平・戦国史跡めぐり
4月9日(日)
11:51「極楽橋」発の「天空」は12:20「九度山」に着きました。
「高野山」に行くことを決めたときから「九度山」はセットだったからね。

⑧和歌山県九度山町編(4勝4敗)

ホームも「真田」っぽく装飾されているね。

「真田幸村」と真田十勇士たちです。

講談で親しまれた「真田十勇士」は「真田幸村」に仕えたとされる10人の家臣で、あくまで伝承上の架空の人物です。

「真田丸」に登場したのは佐助くらいだったね。

今、紹介したのは「九度山真田花壇」にあったパネルでした。

コレが「九度山駅」そして近くの公衆トイレ。

コレは「さなだばし」です。

まず「真田庵」に行ってみました。
関ヶ原の合戦後、高野山での蟄居を命じられた幸村と父の昌幸は、高野山の入口に当たる「九度山」で暮らしていました。
その屋敷跡に建てられたのが「善名称院」という寺です…地元では「真田庵」と呼ばれ、親しまれています。

コレが「真田庵」ですかね?

コレは「真田昌幸」の墓です…1611年にココ「九度山」で亡くなりました。

「真田丸」では草刈正雄さんが演じていましたね。

幸村が父昌幸の供養のために植えたとされる松(二代目)です。

中に小さな資料館?がありました。(¥200)

なぜ、この高野山近くの「九度山」に「真田幸村」(実名は真田信繁ですが、今回は真田幸村で統一して表記します)が関係しているのか?といいますと…関ヶ原の戦いと同じころ、豊臣方についた幸村と父の昌幸は上田で「徳川秀忠」率いる徳川の大軍に勝利します。(第2次上田合戦)
秀忠は昌幸の時間稼ぎにまんまとハマり、関ヶ原の合戦に間に合いませんでした…一方の関ヶ原ではわずか1日で西軍が敗北します。
勝敗を分けたのは東軍を率いる「徳川家康」と、西軍を率いた「石田三成」の統率力の差でした…秀忠の遅参で東軍の主力は「福島正則」ら豊臣恩顧の武断派武将たちでしたが、全員が家康の采配の元、奮戦しました。
これに対し、西軍は総大将の「毛利輝元」が大坂城に残ったまま…三成は関ヶ原に出陣した西軍をまとめきれませんでした。
結局「小早川秀秋」らの裏切りで西軍は総崩れとなり、わずか1日で勝敗が決したのです…幸村の妻の父「大谷吉継」は戦場で自害、三成は捕らえられ、京都の三条河原で斬首されました。
上田での大勝利にも関わらず、幸村と昌幸は敗将となってしまったのです…関ヶ原のあと、真田家と徳川方の戦闘は起きませんでした。
しかし、天下は家康に手の中に収まっています…昌幸はやむなく降伏し、上田城を開城しました。
昌幸の所領は東軍についた嫡男で、幸村の兄「真田信之」が受け継ぎました。
第2次上田合戦で大恥をかかされた秀忠は激怒し、幸村と昌幸の処刑を訴えました…家康も当初、死罪とする意向でした。
これに異論を唱えたのが、信之と信之の舅に当たる家康の腹心「本多忠勝」です…家康は忠勝の助命嘆願を受け入れ、幸村と昌幸を「高野山」で蟄居するよう命じました。
幸村と昌幸はいったん「高野山」に入りますが、すぐに「九度山」に移っています。
その後、昌幸は1611年(慶長16年)「九度山」で失意のうちに世を去ります。

歌碑ですかね?

「九度山」での生活は困窮し、国元の「真田信之」からの仕送りで家臣やその家族たちを食わせていたそうです。
昌幸の死後、一周忌が終わると昌幸に従っていた家臣の多くは松代に帰国し、信之の家臣に加わる道を選択していきました。

「真田庵」を出て次に向かったのは…

「九度山・真田ミュージアム」です。(入館¥500)

よく縁の地に建てられる「大河ドラマ館」かね。

コレは「九度山」での蟄居生活でしょうか?

三代…昌幸、幸村、大助だね…大助は幸村と竹林院(大谷吉継の娘)の嫡男で「九度山」で生まれています。
13:00「九度山・真田ミュージアム」を出ました。

電柱だよ…真田昌幸と真田十勇士です。

コレは「幸村庵(そば屋)」です。

「真田古墳」に着きました…この穴の向こうは大坂城に続いていて、かつて「真田幸村」はこの抜け穴を使って戦場へ出向いた…という伝説が残っています。
実際は古墳時代後期(4世紀頃)の古墳でしたが、真田の伝説が残る場所として「真田古墳」と名付けられました。

そして九度山駅に戻り…13:29発の南海高野線に乗り13:40終点「橋本」で降りました。

そして13:52発の難波行に乗り換えました。

⑨大阪府大阪市編(5勝4敗)

それから「新今宮」で乗り換え、14:40「今宮戎」で下車しました。

ココは「今宮戎神社」です。

それから歩いて「通天閣」に行ってみました。

ホント、この辺りって賑やかだよね。

スゲェな…まだ大阪で「串かつ」食ったことないなぁ。

「串かつ」は次に来る機会があったら食べてみます。

「大阪」っていうと、ココと心斎橋あたりが思い浮かぶよ。

「通天閣」の股下をくぐって…さらに歩き続けます。

25号線を歩き…

15:10「安居天満宮」に着きました。

ココに来るのは2009年2月4日以来だな。

ココは「真田幸村」が討ち死にしたとされる地です。

境内で傷つき疲れた身体を休ませていたところを、越前松平家鉄砲組頭の西尾宗次に発見され、「ワシの首を手柄にされよ」と最後の言葉を残して討ち取られました…享年49。

境内にあった神社です。

豊臣家の領地は1600年(慶長5年)の関ヶ原の合戦前、全国に約220万石ありましたが、戦後は摂津、和泉、河内の65万石を治める1大名となっていました。
ただ、家康は当初、豊臣家を滅ぼそうとは考えていなかったようです…秀頼に孫娘の「千姫」を嫁がせたほか、秀頼に京都での面会を求めています。
しかし、秀頼の生母「淀殿」が面会を拒否し、両家の緊張は一気に高まりますが…このとき、家康は六男の「松平忠輝」を大坂城に派遣し、いったん両家の融和に努めました。
家康と秀頼の面会はようやく、1611年(慶長16年)京都の二条城で実現します…「祖父へのあいさつ」という名目で、豊臣恩顧の大名である「加藤清正」や「浅野幸長」に守られ、上洛したのです。
しかし両家の激突を決定づける事件が起きました…1614年(慶長19年)の京都方広寺鐘銘事件です。
豊臣家が再建した方広寺大仏殿の梵鐘の銘文に家康を呪詛する言葉があるとして、家康が激怒したと伝えられています。
「九度山」にいた幸村のもとへ豊臣家からの使者がやってきたのは、この年の秋のことです…家康が大坂追討を命じたのに対し、豊臣家は浪人を集めて対抗しようとしたのです。
家康率いる東軍の総兵力はざっと20万人…これに対し、豊臣方の西軍につく大名は、やはりいませんでした。
大坂城に入ったのは幸村のほか「長宗我部盛親」「明石全登」「毛利勝永」「後藤基次」ら浪人武将ばかり…総兵力は10万人ともそれ以下ともいわれています。
浪人5人衆に数えられ、浪人兵を束ねる立場となった幸村は城を出て迎え撃つ作戦を提示します…後藤基次ら浪人武将も幸村の案を支持しましたが、認められませんでした。
豊臣家は幸村をスカウトしたにもかかわらず、信用していなかったのです…むしろ、東軍に寝返る可能性があるとみていた節もあります。
幸村は大坂城の南に出城「真田丸」を築きました…幸村の手勢は約5,000人しかいませんでしたが、赤備えの鎧に身を固め、意気盛んだったと伝えられています。
家康は英国やオランダから大砲を取り寄せ、大坂城内を砲撃する作戦に切り替えます…西軍を心理的に揺さぶり、有利な条件で講和に持ち込もうと考えたようです。
淀殿は当初「大坂城は10年篭城できる」と豪語していましたが…東軍の大砲が本丸を直撃し、侍女が相次いで死亡するのを見て、和睦に踏み切ります。
条件は二の丸、三の丸を破壊し、外堀を埋め立てることなどが挙げられました。
これを受け、家康は秀頼の身の安全と所領の安堵、城中の将兵を不問とすることを約束しました。
大坂城を裸城とする代わりに豊臣家の存続を約束する内容です…幸村ら浪人武将は和睦に賛成しませんでしたが、その声は届きませんでした。
大坂冬の陣が和睦で終わったあと、「徳川家康」は駿府へ、将軍の「徳川秀忠」は京都伏見城へいったん戻りました。
京都所司代から豊臣家に不穏な動きがあるとの報告が届くと、家康は大坂城にいる浪人の解雇か、豊臣家が大坂城を出て他の場所へ移るかの二者択一を迫ります。
豊臣家はこの要求を拒否しました…家康は直ちに諸大名に京都の鳥羽、伏見に集結するよう命じます。
1615年(慶長20年)4月、京都に東軍15万人以上が集結しました。
これに対し、西軍は大坂城が堀を埋められて裸城となった以上、勝ち目なしと判断した多くの浪人が退去し、兵力は8万人足らずに減っていました。
東軍との和平交渉をしていた「織田有楽斎」も豊臣家に見切りをつけ、大坂城を退去します。
東軍は大坂城の南方に集結し、ざっと15万人の大軍で天王寺と岡山方面から攻め寄せてきました…これに対し、迎撃に出た西軍の兵力は3分の1の5万人ほど。
幸村は3,500人ほどの兵力で約1万3,000人の「松平忠直」の部隊と交戦していましたが、四天王寺付近で毛利隊が大活躍します。
「本多忠朝」を討ち取り、東軍先鋒部隊を潰走させたばかりか「榊原康勝」ら2番手、3番手も壊滅させたのです…これで家康の本陣が丸出しとなりました。
松平忠直はこのとき、真田隊との交戦を避け、大坂城方面へ移動しようとします…幸村はこの一瞬を見逃しませんでした。
「浅野長晟」が寝返ったとの虚報を流し、東軍を混乱させると、松平隊を突破し…家康本陣へ3回にわたって突撃をかけます。
三方ヶ原で「武田信玄」に敗れて以来、倒れたことのなかった家康本陣の馬印が引き倒されました…旗本は恐れおののいて四方へ離散、家康も馬に乗って逃げ出します。
江戸時代に書かれた島津家の伝承記「薩摩旧記」には「真田日本一の兵、徳川方は半分敗北。家康が切腹も考えていた」と記されています。
しかし、幸村は家康を討ち取ることはできませんでした…数で勝る東軍が徐々に反撃を展開し、幸村は茶臼山の北にある「安居神社」に退き、休憩を取っていたところを松平隊の兵士に襲われ、討ち死にしたのです。
真田隊の壊滅で西軍の戦線は維持できなくなり、毛利隊も大坂城へ退却します。
出陣しようとしていた秀頼のもとにも敗報が届き、秀頼は生母の淀殿とともに自害しました…幸村の嫡男「真田大助」も秀頼と運命をともにしました。


コレは「一心寺」です。

せっかくなんで「四天王寺」に行ってみました…四天王寺は「聖徳太子」により推古天皇元年(593年)に建立が開始されました。

ココに来るのは10年以上ぶりだなぁ。

コレは「義経よろい掛け松」です。
 
「中心伽藍」を拝観してみることにしました。(¥300)

「五重塔」に入ってみました。

「金堂」は…工事中なの?結局「五重塔」しか観れずに出ました。

コレは「阿弥陀堂」です。

それから歩いてJR天王寺駅に行きました…コレが「あべのハルカス」だね。
そして大阪環状線に乗って「玉造」で降りました。

16:10「三光神社」に着きました。

ココに来るのは2011年7月12日以来だよ。

「真田の抜穴」と「真田幸村公之像」です。

「宰相山公園」では花見してる人たちがいたよ。

「三光神社」にもちゃんとお参りしとかないと。

コレは「善福寺」です…歌舞伎「傾城阿波の鳴門 どんどろ大師門前の場」に登場する「お弓 おつる」母子の銅像があります。

コレは「興徳寺」です…高さ33尺、約10mの「准提観音」があります。

寺の前に「真田丸顕彰碑」があります…この辺りに「真田幸村」が“真田丸”と呼ばれる「出丸」を構築し、大坂冬の陣で徳川方相手に大勝利したのです。

コレは隣の「心眼寺」です。

ココにも出丸城跡の碑があるね。

しかもココには…

「真田左衛門佐豊臣信繁之墓」と彫られた墓までありました。

それから歩いて「大阪城」に向かいます…幸村の「九度山」からの足跡を追うなら、大阪城三光神社・心眼寺安居天満宮の順だったんだけどね。

コレは「聖マリア大聖堂」です。

左は「青刻昆布発祥の地」だって…右は「越中公園」です。

16:50ごろ「大阪城公園」に入りました。

天気は曇っちゃったけど…日曜だし、何と言っても桜が満開だから人がいっぱいだよ。(2、3割は外国人じゃないかな?)

「豊臣秀吉」を祀る「豊国神社」に入りました。

まぁ俺は豊臣方なので…でも参拝客が多くて素通りしたけどね。

「豊国神社」を出て…

「桜門」より入城じゃあ~

前回(2011年に)来たとき、天守まで入った(時間が無くて10分くらい?で出た)んで…今回は入らなかったわ。

山里曲輪の一角に…

「秀頼・淀殿ら自刃の地」碑があります…慶長20年(元和元年、1615年)の大坂夏の陣では旧暦の5月8日、徳川軍に追い詰められた「豊臣秀頼」とその母「淀殿」が山里丸にあった櫓にひそみ、自害したと多くの記録が伝えています。

刻印石広場を出ました。

コレは「大阪城御座船」で、内壕を約20分間で巡る観光船です。

極楽橋を渡ります。

やっぱ大阪城は大きいし、荘厳だよね~

京橋口枡形の巨石です…「加藤清正」が運んで来たと伝えられていましたが、実際は備前岡山藩主「池田忠雄」によって運ばれたそうです。

この後「天満橋」から地下鉄に乗り、「なんば」に出ました。

18:10ごろ「道頓堀」にやって来ました…このグリコ、いつ点灯されるの?18:30すぎまで待ったけど、全然点灯されないんで諦めて立ち去ったわ。

そして、また「なんば」に戻ります。

おぉ「くいだおれ太郎」だぞ

「なんばグランド花月」だよ。

近くで「たこ焼き」食べたよ…夕飯は「お好み焼き」食べたいな。

そして「なんば」から御堂筋線で「梅田」に出ました。

コレは「梅田芸術劇場」です…帰りの高速バスはこの近辺から出発みたいよ。
ココから歩いて途中で夕飯食べて銭湯に行くつもりだったんだけど…お好み焼き屋も無いし、何よりスマホの電池残量が2%切っちゃったんだよ~
このまま歩いて銭湯に行っても、また戻って来るの大変だし…足の裏の「水ぶくれ」が痛くて歩くのツラくてね。
それとスマホアプリで地図が見られなくなると帰りの高速バス乗場もまだ確信持ててないからさぁ…ということで銭湯は諦めて、スマホ充電を最優先にすることにしたよ。
飲食店でコンセントあるトコってマックの他にあるっけ?そしたら「阪急梅田」近くにネットカフェがあってさ…1時間半くらいしか居れないけど、スマホの充電とシャワーが無料で使えたのが大きかったわ。
結局、夕飯食えなかったんで…さっき「たこ焼き」だけでも食っておいて良かったよ。
20:30ごろ入店したんだけど、21:40くらいに出ちゃった…そしたらバス乗場に30分くらい前に着いちゃったわ。
22:30発だったんだけど…出発前には寝てしまい、いつの間にか発車してたよ。
帰りのバスは隣がいなかったけど、とにかく疲れてたのかPAでも降りないときあったなぁ。
バスは5:50ごろ「YCAT」に着いたんだけど…スカイビル内じゃなく、外で降ろされたの初めてかも。
そして6:05「横浜」発の京急(特急)に乗って、6:32「横須賀中央」で降りました。
中央で降りたのは家に帰るためじゃなく、駅前のマックで朝ゴハン食べるためよ…帰ろうと思えば帰れたけど荷物置いてスグ駅に戻って出勤になっちゃうんでさ。
だから30分くらいマックでゆっくりして、普段と同じ列車に乗って出勤したよ…まぁ何とか1日を乗り切ったけど、風邪ひいちゃったみたい。

では戦利品です。

「熊野那智大社」と「熊野本宮大社」で買った「お守り」だよ…八咫烏がデザインされた“サッカーお守り”なのかな?日本代表がワールドカップ出場できますように。
「なんばグランド花月」で買った「すち子&吉田裕QP」だよ「乳首ドリルすな」「ドリルせんのかい」の2人ね。

「熊野那智大社」で買った「八咫烏おみくじ」は…“大吉”だったよ~

さて…今回1年半ぶりに遠出する史跡ハントだったけど、まさかこんなに雨に降られるとは思わなかったわ。
今まで割と晴オトコだと思ってたんだけどなぁ…5勝4敗とはいえ、気分は全敗だね。
でも雨降っても風が無かったから傘差しながらでも写真は撮れたからね…コレ、写真も撮れないほどの雨だったら決行した意味無いし。
今年のGWは上の妹一家も来ないし…けど俺は9連休を持て余しそうなんで高速バスは使わず(料金が割増になるから)、普通電車だけでどっか行こうかなぁ。
元々5月は金曜の晩出発の関東近郊の史跡ハントはする予定だったからね…休みは長いんでネットカフェ3泊くらいで出掛けようかな。
では次回の史跡ハンター出陣をお楽しみに~



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