評価点:47点/2012年/イギリス/158分
監督:トム・フーパー
驚くほど退屈。
1800年初頭、パンを一つ盗んだという罪で牢獄に閉じ込められ19年の刑に服していたジャン・バルジャン(ヒュー・ジャックマン)は、ついに仮釈放となる。
警官シャベール(ラッセル・クロウ)に一生仮釈放の身だと告げられたジャンは、どこへ行っても咎人として虐げられる。
或る日、命からがら助け出された修道院から銀の器を盗み出し、再び逮捕される。
その司祭から「黙っていれば、さらにこれまでもあげたのに」と銀の燭台までも差し出される。
それに感動したジャンは、二度と悪の道に堕ちないと誓う。
数年が経ち、ジャンは市長として大成していた。
身分を偽り、貧困に苦しむ人々に仕事を与える工場長という顔も持っていた。
そこで身元を偽り働いていた女性、ファンティーヌ(アン・ハサウェイ)が解雇されてしまうが。
「英国王のスピーチ」でオスカーを受賞した、トム・フーパー監督のミュージカル映画。
半年ほど前から予告編が上映前に流れていたということは、それだけ映画配給会社も力を入れているということだろう。
だれもが知る文学の名作「レ・ミゼラブル」は、何度もミュージカルで公演されてきた。
今回はその映画化だ。
だから、厳密に言うと小説の映画化ではなく、舞台の映画化と考えたほうがよい。
舞台的な演出が目立つのはそのためだ。
長大すぎるこの物語を、小説から映画化しなかったのは正解だろう。
私は、舞台も、小説も読んだことがない。
学生時代、文学史で覚えた程度である。
ネットでは何かと高評価のこの映画だが、私の評価は低い。
▼以下はネタバレあり▼
監督のトムさんとは合わないらしい。
私が無学だからというのはあるのだろう。
けれども、それにしても、面白いとは感じなかった。
なんだかやきもきすることはあっても、わくわくすることはなかった。
ありていに言えば、「退屈」だった。
監督のトム・フーパーはこの映画を制作するにあたって、何度もオーディションを行なってキャストを決めていったという。
その過程の中で「キャストに生で歌わせる」以外に、この映画の素晴らしさを伝える方法はないという考えに至ったと、パンフレットに記されていた。
だからなのだろう。
キャストの顔を抜いたカットでの長回しが多用される。
そのため、どちらかというと「舞台を見ている」感覚に陥る。
映画館にいながらにして、舞台を見ている感覚とはどのようなものだろう。
私は舞台を頻繁に見に行くほどのフリークではない。
実際にまともな舞台を見たのはおそらく数回しかない。
だが、舞台のおもしろさはなんとなくわかる。
一つは、生で行うことの緊張感だ。
映画と違ってテイクを重ねることはできない。
手を伸ばせば届きそうな距離で、ミスを許さない緊張感の中、鑑賞することになる。
ミスを許さないどころか、ミスから新たな物語への書き換えが行われたりすることもある。
脚本がありながら、その脚本から逸脱しない程度に、人物たちがその場の流れで物語を揺り動かしていく。
だからこそ、見ている人間はもう一度「同じ舞台」の「違う演技」をみたいと思ってリピーターとなる。
緊張感が舞台芸術の醍醐味だ。
映画はそうではない。
様々な角度のカットをつなぎ合わせてシーンが生まれ、そのシーンが一連の意味を持ってシークエンスとなる。
そこには何十というカットを経る場合がある。
舞台とは違って、そこにある生の緊張感は当然ながらない。
だが、一方で世界観の広がりは、舞台という狭い空間とは違い、別次元で大きい。
全く違う芸術作品であるため、比較しようもないほど、その特性は違う。
この映画は「舞台風」であることを最後まで貫いた。
私にはこれが、「悪いとこ取り」の作品に見えてしまう。
舞台ほどの生の緊張感はなく、映画ほどの世界観の広がりもない。
長回しのカットで、役者が生で歌っていることはもちろんわかる。
けれども、そのための何十というカットを知らない私は、それがどれほどのものか、臨場感や緊張感は伝わってこない。
もちろん、歌声はすばらしい。
けれども、目の前で歌われる舞台の臨場感と、映画での長回し、クローズアップカットとは次元が違う。
触れるのか、触れないのかというほどの違いがある。
だから、身に迫ってくる物がない。
世界観にしてもそうだ。
一人の無垢なる信仰を持つ男がやがて革命を成功させるきっかけをつくっていく。
その物語を見せるには、あまりにもセットがチープだ。
冒頭の、船を港へ乗り入れるカットからすでにチープだった。
「これはまずかもしれない」と思ったら、やはり最後まで「舞台」を彷彿とさせる安っぽいセットが繰り返し使われる。
そこに、ジャン・バルジャンの一粒の涙が、人々の無垢なる信仰を呼び起こしていく壮大さは感じられない。
「ダークナイト・ライジング」でのメイキングで、徹底的にリアルにこだわったセット作りを見せられた私には、納得いく完成度とは到底思えない。
だから、狭い世界としか映らない。
なぜ彼がそこまで「偉大」なのか、正直この映画だけで伝わらない。
しかし、私がこの映画について決定的に不足していることは、次のようなことだ。
それは「フランスらしさがない」ということだ。
端的なのは、ジャン・バルジャンという人物造形に表れている。
私は、ジャン・バルジャンに全く感情移入できなかった。
冒頭で自分が生きる道を見つけたジャンは、そこから一切迷いなく自分の信じる道を突き進む。
鏡の前で「私は誰だ」と語りかけ、自ら自分の身分を明かすときだって、逡巡しない。
一直線すぎて、「ついていけない」。
それはまるで、用意されたレールを突き進むだけの列車のようだ。
私には、彼によって世界を変える小さな波紋のきっかけになったドラマ、というようりは、閉じられた世界で自分の道だけをひたすら進む小人に見える。
彼の中に、周りの世界で起こっている出来事を包括するだけの、代表性がない。
だから、彼は物語のヒーローになりえない。
人を信じ、人を許し、愛を伝える人としては、あまりに弱い。
フランスは二項対立の国である。
自分という個人がいれば、その対極にある社会を想定し、他人を対置する。
ジャン・バルジャンには逡巡がなく、逆にシャベールは自分の正義を貫こうとして、死を選ぶ。
彼には逡巡があるが、それまで内面が描かれていないため、あまりに唐突な死なので、こちらに感情移入することは難しい。
私は鑑賞中、あまりに退屈だった。
いくつかのブログを拝読したが、そこではエンドロール後スタンディングオベーションが起こっていただの、すばらしいという賞賛の声だの、評価が高いことに驚く。
職場でも見に行った人に話を聞くと、半数ほどは「よかった」「泣いた」という話を聞いた。
私には全く理解できない。
トム・フーパーとは悉く相性が悪いようだ。
監督:トム・フーパー
驚くほど退屈。
1800年初頭、パンを一つ盗んだという罪で牢獄に閉じ込められ19年の刑に服していたジャン・バルジャン(ヒュー・ジャックマン)は、ついに仮釈放となる。
警官シャベール(ラッセル・クロウ)に一生仮釈放の身だと告げられたジャンは、どこへ行っても咎人として虐げられる。
或る日、命からがら助け出された修道院から銀の器を盗み出し、再び逮捕される。
その司祭から「黙っていれば、さらにこれまでもあげたのに」と銀の燭台までも差し出される。
それに感動したジャンは、二度と悪の道に堕ちないと誓う。
数年が経ち、ジャンは市長として大成していた。
身分を偽り、貧困に苦しむ人々に仕事を与える工場長という顔も持っていた。
そこで身元を偽り働いていた女性、ファンティーヌ(アン・ハサウェイ)が解雇されてしまうが。
「英国王のスピーチ」でオスカーを受賞した、トム・フーパー監督のミュージカル映画。
半年ほど前から予告編が上映前に流れていたということは、それだけ映画配給会社も力を入れているということだろう。
だれもが知る文学の名作「レ・ミゼラブル」は、何度もミュージカルで公演されてきた。
今回はその映画化だ。
だから、厳密に言うと小説の映画化ではなく、舞台の映画化と考えたほうがよい。
舞台的な演出が目立つのはそのためだ。
長大すぎるこの物語を、小説から映画化しなかったのは正解だろう。
私は、舞台も、小説も読んだことがない。
学生時代、文学史で覚えた程度である。
ネットでは何かと高評価のこの映画だが、私の評価は低い。
▼以下はネタバレあり▼
監督のトムさんとは合わないらしい。
私が無学だからというのはあるのだろう。
けれども、それにしても、面白いとは感じなかった。
なんだかやきもきすることはあっても、わくわくすることはなかった。
ありていに言えば、「退屈」だった。
監督のトム・フーパーはこの映画を制作するにあたって、何度もオーディションを行なってキャストを決めていったという。
その過程の中で「キャストに生で歌わせる」以外に、この映画の素晴らしさを伝える方法はないという考えに至ったと、パンフレットに記されていた。
だからなのだろう。
キャストの顔を抜いたカットでの長回しが多用される。
そのため、どちらかというと「舞台を見ている」感覚に陥る。
映画館にいながらにして、舞台を見ている感覚とはどのようなものだろう。
私は舞台を頻繁に見に行くほどのフリークではない。
実際にまともな舞台を見たのはおそらく数回しかない。
だが、舞台のおもしろさはなんとなくわかる。
一つは、生で行うことの緊張感だ。
映画と違ってテイクを重ねることはできない。
手を伸ばせば届きそうな距離で、ミスを許さない緊張感の中、鑑賞することになる。
ミスを許さないどころか、ミスから新たな物語への書き換えが行われたりすることもある。
脚本がありながら、その脚本から逸脱しない程度に、人物たちがその場の流れで物語を揺り動かしていく。
だからこそ、見ている人間はもう一度「同じ舞台」の「違う演技」をみたいと思ってリピーターとなる。
緊張感が舞台芸術の醍醐味だ。
映画はそうではない。
様々な角度のカットをつなぎ合わせてシーンが生まれ、そのシーンが一連の意味を持ってシークエンスとなる。
そこには何十というカットを経る場合がある。
舞台とは違って、そこにある生の緊張感は当然ながらない。
だが、一方で世界観の広がりは、舞台という狭い空間とは違い、別次元で大きい。
全く違う芸術作品であるため、比較しようもないほど、その特性は違う。
この映画は「舞台風」であることを最後まで貫いた。
私にはこれが、「悪いとこ取り」の作品に見えてしまう。
舞台ほどの生の緊張感はなく、映画ほどの世界観の広がりもない。
長回しのカットで、役者が生で歌っていることはもちろんわかる。
けれども、そのための何十というカットを知らない私は、それがどれほどのものか、臨場感や緊張感は伝わってこない。
もちろん、歌声はすばらしい。
けれども、目の前で歌われる舞台の臨場感と、映画での長回し、クローズアップカットとは次元が違う。
触れるのか、触れないのかというほどの違いがある。
だから、身に迫ってくる物がない。
世界観にしてもそうだ。
一人の無垢なる信仰を持つ男がやがて革命を成功させるきっかけをつくっていく。
その物語を見せるには、あまりにもセットがチープだ。
冒頭の、船を港へ乗り入れるカットからすでにチープだった。
「これはまずかもしれない」と思ったら、やはり最後まで「舞台」を彷彿とさせる安っぽいセットが繰り返し使われる。
そこに、ジャン・バルジャンの一粒の涙が、人々の無垢なる信仰を呼び起こしていく壮大さは感じられない。
「ダークナイト・ライジング」でのメイキングで、徹底的にリアルにこだわったセット作りを見せられた私には、納得いく完成度とは到底思えない。
だから、狭い世界としか映らない。
なぜ彼がそこまで「偉大」なのか、正直この映画だけで伝わらない。
しかし、私がこの映画について決定的に不足していることは、次のようなことだ。
それは「フランスらしさがない」ということだ。
端的なのは、ジャン・バルジャンという人物造形に表れている。
私は、ジャン・バルジャンに全く感情移入できなかった。
冒頭で自分が生きる道を見つけたジャンは、そこから一切迷いなく自分の信じる道を突き進む。
鏡の前で「私は誰だ」と語りかけ、自ら自分の身分を明かすときだって、逡巡しない。
一直線すぎて、「ついていけない」。
それはまるで、用意されたレールを突き進むだけの列車のようだ。
私には、彼によって世界を変える小さな波紋のきっかけになったドラマ、というようりは、閉じられた世界で自分の道だけをひたすら進む小人に見える。
彼の中に、周りの世界で起こっている出来事を包括するだけの、代表性がない。
だから、彼は物語のヒーローになりえない。
人を信じ、人を許し、愛を伝える人としては、あまりに弱い。
フランスは二項対立の国である。
自分という個人がいれば、その対極にある社会を想定し、他人を対置する。
ジャン・バルジャンには逡巡がなく、逆にシャベールは自分の正義を貫こうとして、死を選ぶ。
彼には逡巡があるが、それまで内面が描かれていないため、あまりに唐突な死なので、こちらに感情移入することは難しい。
私は鑑賞中、あまりに退屈だった。
いくつかのブログを拝読したが、そこではエンドロール後スタンディングオベーションが起こっていただの、すばらしいという賞賛の声だの、評価が高いことに驚く。
職場でも見に行った人に話を聞くと、半数ほどは「よかった」「泣いた」という話を聞いた。
私には全く理解できない。
トム・フーパーとは悉く相性が悪いようだ。
ちょっとばたばたしていまして、返信遅れました。
>iinaさん
コメント、トラックバックありがとうございます。
ミュージカルが嫌いとか、あまり見ていないとかそういう問題ではないのですよ。
私にはどうしても乗れなかったのです。
レールの上をただひたすらシナリオ通りに突き進むようにしか見えなくて、感情の揺れ動きが感じられなかったというか。
それは、「英国王」でも同じだったので、上のような記事になったわけです。
ユゴーについては全く知識がないので、なんとも言えないですが。
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/545a7b00a419c0c5a34978337c6660b4
だからどうというつもりもありませぬ。
これほどつまらぬと思った映画が大ヒットし、観客はエンドロール後スタンディングオベーションさえしたという、まことに理解できぬ・・・そんな不条理を、この映画を観て感じたというのは、作者のヴィクトル・ユゴーが狙ったことではありませんか。
まぁ、ひと様々と評すべきでしょう。
あるいは、ミュージカルであるがゆえに、どことなく不自然さがつきまとい、menfithさんには感情移入しずらいのかと傍目に思ったりしました。
小説を読んでいませんが、同題の映画を観ていてストーリーを知ってましたから、それをどのようにミュージカル処理するものだろうかというというのが当方の関心事でした。