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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

私をくいとめて

2020-12-26 17:06:39 | 映画(わ)
評価点:75点/2020年/日本/133分

監督:大九明子

共感できない特殊性と、他人事とは思えない普遍性。

黒田みつ子(のん)は会社の中でも中堅に位置する社員となった。
しかし、おひとりさまを肯定し、気ままに生きている。
彼氏はもう何年もいない。
そんな彼女の仕事の先輩、ノゾミさんもまた独り身だ。
おひとりさまのみつ子は、いつしか脳内にもう一人の自分と会話することで生活するようになっていた。
そんなAは彼女にアドバイスする。
あの、取引先の多田君のことを、あなたは好きなのではないですか、と。

勝手にふるえてろ」の原作綿矢りさと、監督大九明子のタッグが再び、という触れ込みの映画だ。
のん(能年玲奈!)が大好きな私は、見に行くことになった。
文庫本になる前から気になっていた原作も読んでいる。

原作を知らない人は、このみつ子というキャラクターが掴みにくいかもしれない、と思いながら映画館に行った。
一般受けするような内容ではないし、恋愛至上主義の現代ニッポンにおいて、共感できない人も多いことだろう。
だが、男の私でも大いに共感してしまう。

乗れるか乗れないかは賛否両論あって良い。
ともあれ、こういう映画がもっと評価される日本であってほしい。

▼以下はネタバレあり▼

好きな人ができた、という映画は多い。
たいてい、好きな人ができるまでの過程が丁寧に描かれ、好きになったと自覚したらそこからは一直線に成就を目指すだろう。
だが、この主人公みつ子は、それができない。
好きだと自覚しても、相手を心の中に受け入れること、相手の心の奥に飛び込むことに躊躇いを感じる。

第三者から見れば、「好きなんだから近づけるようにアプローチするべき」とか思うのかもしれない。
しかし、恋愛はそんなに単純ではない。

誰も他にいないから、一時のさみしさだけで寄りかかっているだけかもしれない。
相手は気があるように見えて、本当は全然その気がないのかもしれない。
相手はお手頃な女だ、と自分を体だけで見ているのかもしれない。
相手のことを知らない自分には、本当に相手が自分と合うのかどうかもわからない。
その好きに、本当にきちんとした熱量があるのか。
当然先に進めようとした時、相手に拒絶されるかもしれない。

おひとりさまに慣れてしまったみつ子にはそれが判断できない。
判断できないことがまさに恋愛なのだが、相手に飛び込む勇気が持てない。

だが、多くの人が、恋愛を前にしてこういう感情にさいなまれるのではないか。
情熱的な恋愛をして、衝動的に結ばれるような展開は、実際にはほとんどないのではないか。
それこそ、白馬に乗った王子様が現れたり、歩いているとハンカチを美女が落としてくれたりするレベルでそんな恋愛は幻想ではないか。

この映画にある普遍性はこういう孤独とさみしさ、それでも誰かを求めてしまうかなしみを描いているところにある。
みつ子は器用ではない。
みつ子は聖人でもない。
社交的でもなければ、誰かに愛想を振りまけるほど心に余裕もないし、かわいげもない。
世間が理想にする、女性らしさなど自分では見出すことができない。
そういう普遍性が、観客をこの物語に同化させる所以だろう。

そんな彼女が少しずつ「おひとりさまの領域」を広げていく物語だ。
ひとり焼き肉、ひとり旅行、ひとり海外旅行……。
その一方で、多田という男性との関係が深まることで「おひとりさま」から脱出していく。
ひとりだから平気、ひとりでも何でもできる、というわけではなく、ひとりでありながら、ふたりであることを求める物語とも言える。

このおひとりさまの様子を、Aというもう一人の自分を出すことで感情を描写している。
独白でありながら、説明的でない台詞回しになっているのは、監督はかなり気を遣ったのだろうと推測される。
よくあるナラティヴ(語り)ではないので、観客はみつ子と完全には同化できない。
だから物語をただ「わかる、その感じ」というような普遍性の中だけで体験することはできない。
みつ子はみつ子であって、最大公約数的な女性像とは異なっている。

みつ子は十分にゆがんだ特殊性をもっている。
だが、その特殊性さえも私たちは普遍性として読むことができる。
プッチ(ワンピースを着たカフェで見かけたおひとりさまを自負する女性)と同じように、ヘッドハンティングされた澤田に「夫の実家からリンゴが送られてきて大変だ」と聞かされて、みつ子は臆してしまう。
私たちはこういう綱引きを常に強いられて生きている。
そこに、「恋愛は正義だ」「みな自分のもとに運命的な出会いを求めている」「出会いがないと言う人には出会いは来ない」といった恋愛にある法則性は役に立たない。
私たちは置かれた状況が全員違い、そして皆が恋愛に飢えている。

だが、それは境遇の問題ではない。
徹頭徹尾、私という強固な檻から出ることができないからだ。
私を生きている現代人ならば、その意味が理解できるはずだ。
だから、みつ子の思考は、全く共感できるところがない(=同じ人間ではない)のに、深く共感できてしまう(私も檻の中から出ることができないという悩みをもつ)。

この映画は賛否両論起こることは目に見えている。
賛美する人は、深く共感できたのだろうし、否定する人はその特殊性についていけなかったのだろう。
けれども、私はそのことがこの映画のおもしろさそのものだし、だからこそ「恋愛は難しい」と頭を抱えるのだと思う。

この物語に私は思い入れがあるので、映画単独での評価は難しい。
みつ子はこんなに可愛くないし(可愛いわけがないし)、多田君もこんなにイケメンではない。
映画である前に、私は原作を追体験している。
描かれていなかったところをおそらく補って(自分に都合のよいように)見ていたことは間違いない。
(イタリアの描写は酷いし、女芸人のくだりはちょっと唐突すぎる)

だが、こういうニッチな映画が存在していてもよいと思うし、むしろ好きになったら一直線に行動できる物語のほうが嘘くささを感じてしまう。
人がなぜこんなに人を好きになること、その人に飛び込むことができなくなってしまったのか。
それは「私という強固な檻」から出にくくなった、環境(私の外側の問題)にあるのだと逆説的に感じる。
2020年を生きる私たちにとって、恋愛はますます成就しにくいテーマになるだろうということを予感させる。


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