評価点:81点/2011年/イラン/123分
監督:アスガル・ファルハーディー
タラレバを許さない徹底した悲劇的完成度をもつ脚本。
イランで11歳の娘を育てるには環境が悪いと、妻が海外に住みたがっていた。
そのことが離婚調停まで発展し、妻が裁判所で申し立てた。
夫は介護が必要な認知症の父親のために、一緒に海外には行けないと反論する。
途方にくれる二人は、平行線のまま別居状態になる。
夫のナデルは、銀行員として働いているので、日中は父親の介護ができない。
そこで妻の知り合いの紹介で、一人の女性を介護士として雇うことにする。
彼の家まで往復で何時間もかかるラジエーは、敬虔なイスラム教徒だった。
ラジエーが訪れた初日、父親が粗相をしてしまう。
決められた相手以外の男性に触れることができないラジエーは、どうすればよいか混乱する。
「辞めたい」と申し出るラジエーを説得するナデルだったが…。
アカデミー賞の外国語映画賞を受賞したのが、このイラン映画「別離」である。
単館上映の作品で、あまり知られていないかもしれない。
タイトルもぱっとしたものではない。
イランにほとんどなじみのない人でもこの映画は楽しめるだろう。
人間ドラマが織り成すサスペンスは、「どこの国でも起こりうる」話なのかもしれない。
あまりにも日常的な、事件と嘘。
観ていてどきどきする。
もう公開していないかもしれないが、ぜひ見てほしい映画だ。
▼以下はネタバレあり▼
この前公園のゴミ箱(空き缶)に必死にピッチングする少年を見かけた。
誰も見ていないと思ったのだろう。
少年は自分の世界に浸りきり、アンダースローでゴミをゴミ箱の口に投げていた。
僕はそれを見ながらどこかほほえましいと思った。
人間は喜劇めいたところがある。
そんな一幕をみたような気がした。
それに対して、この映画はどこまでも「悲劇」だ。
どんなストーリーなのか、ひどく言いにくい。
僕がこの映画が気になったきっかけは、劇場で見た予告編だった。
ただし、どんな話なのか、いまいちよく分からなかったというのが第一印象だ。
それでも惹かれたのは、隠されているなぞがまったく見当も付かなかったから。
これは単なる殺人事件ではない。
わかりやすい「紋きり型」のドラマではないのだ。
そして、見終わった後すっきりできる映画でもない。
ただ後味がざらっと、どっしりとのしかかる結末がこの映画の完成度の高さを表している。
話があまりに複雑なので、それを分析する前に一度整理しておきたい。
ラジエーは、夫の仕事が見つからず仕方なく介護の仕事を引き受けることになった。
ある日ラジエーはちょっと目を離した隙に認知症の父親が外出していることに気づく。
そのことがあって、ラジエーは自分が外出しなければならなくなったとき、父親の腕を縛ることになる。
翌日、早めに帰ってきたナデルと娘のテルメーが腕を縛られた父親を発見する。
意識を失い、窒息状態で救出する。
さらに、ラジエーに渡すはずのお金もなくなっていた。
怒り心頭のナデルは、帰ってきたラジエーをひどくなじる。
出て行けと家から押し出し、帰してしまう。
その晩、妻から電話があり、「ラジエーが流産した」と告げられる。
イランでは妊娠4ヶ月の妊婦が流産してしまうと、殺人罪に当たる。
殺人の罪を着せられたナデルは、自分が無実であると主張する。
「妊娠は知らなかった」と。
物語の中盤は以上のようなものだ。
ほんとうに何があったのか、誰がどのような嘘をついているのか。
この映画のすごいところは、すべてが必要な情報量だけきちんと必要なタイミングで示されるということだ。
この時点では観客は何が起こったのかよくわからない。
ただ、両者には抜き差しならない問題が横たわっているということだ。
ナデルはどうしても父親の介護をしなければならないということ。
ラジエーは無職の夫と幼い娘のために生きていかなければならないということ。
だから二人は微妙に嘘をついて裁判を進めていく。
ナデルは妊娠していないということを知っていながら、知らなかったと証言する。
それを娘に見抜かれて、「正直な父親」と「家族のために生きる父親」との二律背反で苦しむことになる。
ラジエーは、突き飛ばされたことが原因で流産したのではないことを疑っていた。
前日に痴呆症の父親が飛び出た先で、車にひかれたからだ。
そこから調子を崩し、その日も病院で検査を受けていた。
しかし、彼女は苦しむことになる。
本当のことを言えば、流産してしまった自分が盗みを犯したことになり、不名誉をきせられる。
示談が成立する寸前まで、彼女は本当のことを言える勇気を持てなかった。
一方、ナデルは妻から示談を勧められるが了承しない。
自分が悪いはずはないと確信しているため、不当なお金を払う気になれない。
それは「殺人を犯していない」ということを家族に示したかったからに他ならない。
正しい自分か、家族と共にいる自分か。
悩んだ挙句、示談に応じることにする。
示談が成立する直前、ラジエーは不安に駆られる。
示談を成立させれば、自分は不当なお金を得ることになる。
それは信仰に反することなのではないだろうか。
夫のためには、家族のためには受け取るべきなのだが、正直を美徳とするイスラム教徒にとってそれは「新たな罰」のきっかけとなる。
悩んだ挙句、彼女は自らの罪を告白することになる。
示談が不成立に終わったことで、ナデルとその妻の関係性はより悪化する。
なぜだろう。
答えは単純だった。
2人、いや娘を含めた三人とも、誰一人家族のことを思いやっていなかったからだ。
特に父母は自分の考えでしか行動できなかった。
そのことがこの事件で露呈されてしまう。
それはお互いにその利己的な自分が示されたのではない。
自分自身につきつけてしまったのだ。
娘のため、実父のため、と口で言いながら、ほとんど相手に対しての敬意や理解がなかった。
ナデルにとって象徴的なのは、娘に偽証させたことだ。
父は妊娠していることを知らなかった、とテルメーは証言する。
彼女は父親と母親が一緒に暮らせるようになることを祈って、11歳で偽証してしまう。
ナデルは気づいたはずだ。
自分は、娘を第一に考えているのではなく、保身だったり、負けを認めたない自分だったりがもっとも大切なのだ、ということを。
妻も、同じことだ。
夫についてかばうような考えを一切もたない。
彼と一緒に裁判を闘おうとしたり、彼の無実を信じようとしたりする態度は見せない。
ただ「早く裁判を終わらせよう」としているだけである。
そんな二人は、「父母どちらにつくのか」という究極の選択も、娘にゆだねてしまう。
彼らは二人とも自分自身で責任をとって決断しようとはしない。
彼女はどちらを選ぶだろう。
その決断を見せる前にエンドロールが始まる。
分かりきっていることは、この三者は二度と家族に戻ることはできないということだ。
この映画はどこまでも人間くさい人物しか出てこない。
悔しいほどままならない現実に、僕たちはきっと共感するだろう。
どこかおかしい。
けれども、「もし~なら」という前提を全く許さない緊張感のある脚本だ。
皆幸せになろうと必死に足掻いている。
だからこそ、この映画が落とす影は救いのないほど暗いものになっている。
介護、貧困、雇用、宗教、善意。
すべてが「現代悲劇」と呼ぶにふさわしい映画だ。
いくつか補足しておこう。
一つは車の中から外界を捉えるというアングルが多用されることについて。
すごく違和感があったが、終盤でフロントガラスを割られるシークエンスでその意図が判明する。
自分の殻から出てこようとしないナデルの車は、大きな穴を開けられることでその決別が決定的なものとなるのだ。
見事な演出だ。
もう一つ。
この映画のもっとも重要な見所は、ナデルとラジエーのそれぞれの娘の邂逅である。
示談が不成立になったときに見せる、二人の娘の視線は、大人のそれよりもはるかに恐ろしい。
豹変する二人の表情が、この映画の最大の見所かもしれない。
監督:アスガル・ファルハーディー
タラレバを許さない徹底した悲劇的完成度をもつ脚本。
イランで11歳の娘を育てるには環境が悪いと、妻が海外に住みたがっていた。
そのことが離婚調停まで発展し、妻が裁判所で申し立てた。
夫は介護が必要な認知症の父親のために、一緒に海外には行けないと反論する。
途方にくれる二人は、平行線のまま別居状態になる。
夫のナデルは、銀行員として働いているので、日中は父親の介護ができない。
そこで妻の知り合いの紹介で、一人の女性を介護士として雇うことにする。
彼の家まで往復で何時間もかかるラジエーは、敬虔なイスラム教徒だった。
ラジエーが訪れた初日、父親が粗相をしてしまう。
決められた相手以外の男性に触れることができないラジエーは、どうすればよいか混乱する。
「辞めたい」と申し出るラジエーを説得するナデルだったが…。
アカデミー賞の外国語映画賞を受賞したのが、このイラン映画「別離」である。
単館上映の作品で、あまり知られていないかもしれない。
タイトルもぱっとしたものではない。
イランにほとんどなじみのない人でもこの映画は楽しめるだろう。
人間ドラマが織り成すサスペンスは、「どこの国でも起こりうる」話なのかもしれない。
あまりにも日常的な、事件と嘘。
観ていてどきどきする。
もう公開していないかもしれないが、ぜひ見てほしい映画だ。
▼以下はネタバレあり▼
この前公園のゴミ箱(空き缶)に必死にピッチングする少年を見かけた。
誰も見ていないと思ったのだろう。
少年は自分の世界に浸りきり、アンダースローでゴミをゴミ箱の口に投げていた。
僕はそれを見ながらどこかほほえましいと思った。
人間は喜劇めいたところがある。
そんな一幕をみたような気がした。
それに対して、この映画はどこまでも「悲劇」だ。
どんなストーリーなのか、ひどく言いにくい。
僕がこの映画が気になったきっかけは、劇場で見た予告編だった。
ただし、どんな話なのか、いまいちよく分からなかったというのが第一印象だ。
それでも惹かれたのは、隠されているなぞがまったく見当も付かなかったから。
これは単なる殺人事件ではない。
わかりやすい「紋きり型」のドラマではないのだ。
そして、見終わった後すっきりできる映画でもない。
ただ後味がざらっと、どっしりとのしかかる結末がこの映画の完成度の高さを表している。
話があまりに複雑なので、それを分析する前に一度整理しておきたい。
ラジエーは、夫の仕事が見つからず仕方なく介護の仕事を引き受けることになった。
ある日ラジエーはちょっと目を離した隙に認知症の父親が外出していることに気づく。
そのことがあって、ラジエーは自分が外出しなければならなくなったとき、父親の腕を縛ることになる。
翌日、早めに帰ってきたナデルと娘のテルメーが腕を縛られた父親を発見する。
意識を失い、窒息状態で救出する。
さらに、ラジエーに渡すはずのお金もなくなっていた。
怒り心頭のナデルは、帰ってきたラジエーをひどくなじる。
出て行けと家から押し出し、帰してしまう。
その晩、妻から電話があり、「ラジエーが流産した」と告げられる。
イランでは妊娠4ヶ月の妊婦が流産してしまうと、殺人罪に当たる。
殺人の罪を着せられたナデルは、自分が無実であると主張する。
「妊娠は知らなかった」と。
物語の中盤は以上のようなものだ。
ほんとうに何があったのか、誰がどのような嘘をついているのか。
この映画のすごいところは、すべてが必要な情報量だけきちんと必要なタイミングで示されるということだ。
この時点では観客は何が起こったのかよくわからない。
ただ、両者には抜き差しならない問題が横たわっているということだ。
ナデルはどうしても父親の介護をしなければならないということ。
ラジエーは無職の夫と幼い娘のために生きていかなければならないということ。
だから二人は微妙に嘘をついて裁判を進めていく。
ナデルは妊娠していないということを知っていながら、知らなかったと証言する。
それを娘に見抜かれて、「正直な父親」と「家族のために生きる父親」との二律背反で苦しむことになる。
ラジエーは、突き飛ばされたことが原因で流産したのではないことを疑っていた。
前日に痴呆症の父親が飛び出た先で、車にひかれたからだ。
そこから調子を崩し、その日も病院で検査を受けていた。
しかし、彼女は苦しむことになる。
本当のことを言えば、流産してしまった自分が盗みを犯したことになり、不名誉をきせられる。
示談が成立する寸前まで、彼女は本当のことを言える勇気を持てなかった。
一方、ナデルは妻から示談を勧められるが了承しない。
自分が悪いはずはないと確信しているため、不当なお金を払う気になれない。
それは「殺人を犯していない」ということを家族に示したかったからに他ならない。
正しい自分か、家族と共にいる自分か。
悩んだ挙句、示談に応じることにする。
示談が成立する直前、ラジエーは不安に駆られる。
示談を成立させれば、自分は不当なお金を得ることになる。
それは信仰に反することなのではないだろうか。
夫のためには、家族のためには受け取るべきなのだが、正直を美徳とするイスラム教徒にとってそれは「新たな罰」のきっかけとなる。
悩んだ挙句、彼女は自らの罪を告白することになる。
示談が不成立に終わったことで、ナデルとその妻の関係性はより悪化する。
なぜだろう。
答えは単純だった。
2人、いや娘を含めた三人とも、誰一人家族のことを思いやっていなかったからだ。
特に父母は自分の考えでしか行動できなかった。
そのことがこの事件で露呈されてしまう。
それはお互いにその利己的な自分が示されたのではない。
自分自身につきつけてしまったのだ。
娘のため、実父のため、と口で言いながら、ほとんど相手に対しての敬意や理解がなかった。
ナデルにとって象徴的なのは、娘に偽証させたことだ。
父は妊娠していることを知らなかった、とテルメーは証言する。
彼女は父親と母親が一緒に暮らせるようになることを祈って、11歳で偽証してしまう。
ナデルは気づいたはずだ。
自分は、娘を第一に考えているのではなく、保身だったり、負けを認めたない自分だったりがもっとも大切なのだ、ということを。
妻も、同じことだ。
夫についてかばうような考えを一切もたない。
彼と一緒に裁判を闘おうとしたり、彼の無実を信じようとしたりする態度は見せない。
ただ「早く裁判を終わらせよう」としているだけである。
そんな二人は、「父母どちらにつくのか」という究極の選択も、娘にゆだねてしまう。
彼らは二人とも自分自身で責任をとって決断しようとはしない。
彼女はどちらを選ぶだろう。
その決断を見せる前にエンドロールが始まる。
分かりきっていることは、この三者は二度と家族に戻ることはできないということだ。
この映画はどこまでも人間くさい人物しか出てこない。
悔しいほどままならない現実に、僕たちはきっと共感するだろう。
どこかおかしい。
けれども、「もし~なら」という前提を全く許さない緊張感のある脚本だ。
皆幸せになろうと必死に足掻いている。
だからこそ、この映画が落とす影は救いのないほど暗いものになっている。
介護、貧困、雇用、宗教、善意。
すべてが「現代悲劇」と呼ぶにふさわしい映画だ。
いくつか補足しておこう。
一つは車の中から外界を捉えるというアングルが多用されることについて。
すごく違和感があったが、終盤でフロントガラスを割られるシークエンスでその意図が判明する。
自分の殻から出てこようとしないナデルの車は、大きな穴を開けられることでその決別が決定的なものとなるのだ。
見事な演出だ。
もう一つ。
この映画のもっとも重要な見所は、ナデルとラジエーのそれぞれの娘の邂逅である。
示談が不成立になったときに見せる、二人の娘の視線は、大人のそれよりもはるかに恐ろしい。
豹変する二人の表情が、この映画の最大の見所かもしれない。
はじめまして、斉藤新平と申します。
俳優、プロデューサーとして活動しております。
secret boots様にお尋ねしたいことがございまして、
コメントを書かせていただきました。
私のプロデュースした映画の試写会レビュアーを募集しております。
大変恐縮なお願いなのですが、詳しいをメールにてお送りしたく、大変お手数おかけいたしますが、もしも可能でしたら、下記アドレスにご連絡をいただけますと幸いです。
bonsaigirl772☆yahoo.co.jp←☆を@に変えて頂けますと幸いです。
大変不躾なお願いで申し訳ございませんが、
可能でしたらよろしくお願いいたします。
ちょっと体調を崩していまして、仕事から帰ってパソコンも開けずに眠る日々が続いていました。
>斉藤新平さん
ご依頼の件ですが、詳細をまずメールで送ってください。
menfith81★mail.goo.ne.jp
※★の部分に@を入れてください。
すみませんが、変な書き込みが増えていますので、個人情報流失の危険性はできるだけ避けたいので、まずは斉藤新平さんのほうからご連絡をいただければと思います。
受けられる依頼であれば、是非受けたいと思います。
今後もよろしくお願いします。
はじめまして。
別離の検索でひっかかり、とても良い批評だったのでコメントさせていただきました。僕も映画ブログを書いておりまして、「別離」を取り上げたいと思っているのですが、こちらの批評を読み、気になったことが一点あったので質問させていただきます。
ーー本当のことを言えば、流産してしまった自分が盗みを犯したことになり、不名誉をきせられるーー
本当のこと、とは「外に出た認知症の父を連れだそうとして車に轢かれ、病院へ行っていた」というわけですが、この本当のことを行った場合、なぜ不名誉をきせられるのかがよく理解できませんでした。病院から家に帰ってきて、雇い主である主人公に迫られたとき、お金を盗んだという疑惑がかけられていないのにもかかわらず、「急用があった」と言っています。なぜラジエーは本当のことが言えなかったのでしょうか?
一番大事なところがわからなかったので、もしよろしければ当ブログの管理人様の解釈がお聞きしたいと思いコメントさせていただきました。
また来訪しますのでよろしくお願いします。
様々な事情があり、更新速度が滞っております。
それはまた別の記事で詳細を報告します。
>ドリーさん
返信遅くなり申し訳ありません。
お許しください。
遅くなったのは、私生活がばたばたしていたこともありますが、この映画についてちょいと話が思い出せなかったというのも、理由の一つです。
本当のこと、つまり自分が父親をかばって交通事故にあい、それがきっかけで流産してしまった。
だから、両者の論点であった「突き飛ばされて流産してしまったのか」という点は、実は違っていた。
ということだったと思います。
私が「不名誉となってしまう」と書いたのは少し言葉足らずでした。
父親を外に出してしまったのは、ラジエーのミスであり、だからナデルに告げることが出来なかった。
もし、本当のことをありのままに話してしまうと、結局彼女がミスと嘘を重ねていたことになり、お金がなくなっていたことまでも自分に容疑がかかってしまう。
ミスを隠すことから、嘘を塗り固めてしまったことは、彼女にとってさらに立場を悪くしてしまう、ということです。
ちょっと、うるおぼえのところもあるので、もしかしたら勘違いかもしれません。
まだ疑問点が解消されないようでしたら、年末年始でもう一度見直します。
返信ありがとうございました!
お忙しいようなので、いつでもけっこうですよ。
ボクも気長に待ちますので。
さっそくですか。映画に関して。
――父親を外に出してしまったのは、ラジエーのミスであり、だからナデルに告げることが出来なかった。
この部分が正直よくわからないのです。外に出せなかったことはたしかにミスですがどうしてラジエーはそのことを告白できなかったのでしょうか。外に出てしまったお爺さんを連れ戻そうとしたらひかれて病院に行っていたといえばまだ事は大きくならずにすんだはずです。おじいさんを縛ってしまったことを釈明するなら正直におじいさんを助けようとひかれて病院にいっていて自分にも同情の余地があるという選択肢をとりそうなものですが、なぜかラジエーはここで嘘をついてしまいます。このあたりのラジエーの心情がよくわかりません。
もし、本当のことをありのままに話してしまうと、結局彼女がミスと嘘を重ねていたことになり、お金がなくなっていたことまでも自分に容疑がかかってしまう。
今見返したのですが、お金の容疑のことはラジエーが嘘をついたあとに浮上してきます。本当のこと(自分が父親をかばって交通事故にあい、それがきっかけで流産してしまった)ということを言っても、なんの問題もないと思ったのですがいかがでしょうか。
年末年始で忙しいなかすいません。
また再鑑賞したさい、コメント返信よろしくお願いします。ドリーでした。
>ドリーさん
もともと必ず玄関のドアを閉めておくように言われたラジエーは、娘がゴミ出しに失敗して、その掃除に追われているときに、父親に外出させてしまいます。
その後、父親が通りの向こう側を歩いているのを発見し、その際に車にひかれてしまいます。
その日の午後から調子がおかしくなってきたラジエーは、次の日、父親を縛り付けて産婦人科に受診します。
外出中に、ナデルが帰ってきて、大騒ぎになります。
ラジエーはこの時点で「車にはねられたから流産したのか、突き飛ばされたから流産したのか」わからない状態です。
裁判が進むにつれて、焦点は「なぜ流産したのか」というものから、「ナデルはラジエーが妊娠しているのを知っているかどうか」という点に変わっていきます。
そして、主人のナデルの親子関係もあり、示談に応じることにします。
ここで急にラジエーは怖くなります。
本当にその原因が彼にあったのか、そうでないのか。
もし車にひかれたことが原因であれば、嘘をついてあいてからお金を取ることになる。
それは、宗教上の規範から大きく外れることになる。
だから告白することを選ぶのです。
では、なぜラジエーはもっと早くに告白できなかったのか。
その一つは、自分でもその原因がどちらなのか、わからなかったから。
けれども、裁判が進むにつれて、ナデルの自分への批判や、ナデルと夫とのやりとりを見ているうちに、言えなくなっていったのです。
けれども、自分に明らかに利益になることがわかった段階で、初めて怖くなったのです。
本当にナデルの原因で流産したのかどうか。
確定することを迫られた。
どちらが正しいのか、ラジエーにもわからない。
だから「ナデルが原因で流産したのだ」とは誓えなかったのです。
不名誉になる、という書き方は言葉足らずでしたね。
嘘に嘘を塗り固めたのは、ナデルだけではなく、ラジエーも同じだったということは言えると思います。
こんなもんで、いかがですか。