secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ウィッカーマン(V)

2009-05-25 22:22:24 | 映画(あ)
評価点:14点/2006年/アメリカ

監督・脚本:ニール・ラビュート

ニコラス・ケイジの魅力がふんだんに盛り込まれた作品。

警官のエドワード・メイラス(ニコラス・ケイジ)は、パトロール中に出会った母子が事故で死んでしまうという出来事に遭遇する。
しかし、その後車の中からは母子の死体が見つからないという不可思議なことが起きていた。
その頃、恋人だったウィロー(ケイト・ビーハン)から、娘が行方不明だという手紙が届く。
現代には珍しい閉鎖的な孤島に招かれた彼は、明らかに不自然な態度をとる住民に不信感を抱き始める。

ニコラス・ケイジが制作にも携わっているという意欲作。
どうも、サスペンス・ホラーというジャンルに入るらしい。
僕にはオチを含めても、いいところ新ジャンルのコメディくらいにしか思えないところだが、これぞニコラス・ケイジという作品だ。

この作品はリメイクなので、もしかしたらオリジナル作品を鑑賞したことがある人がいるかもしれない。
ネタバレされてしまうと、観る気が一切起きない作品なので、観ようと1%でも思う人は、はやめに観てしまうことをお勧めする。
僕はとりあえず何か借りようとして、手に取ってしまった運の悪い鑑賞者として、以下の批評をしたためることにしよう。

ええっと、念のために書いておくと、全然観る必要のない映画です。

▼以下はネタバレあり▼

メイラスというニコラス・ケイジの役名を入力しようとしたら、「滅入らす」という変換になった。
この役名は、日本語に詳しいというニコラス・ケイジらしいトリッキーなメッセージだと深読みしたくなる。
それくらい、この映画は人を滅入らす。

……。
それはさておき、この映画を見終わった感想は、松田優作もびっくりなくらい、「なんじゃこれ!」だった。
久々に見た、駄作。
最近はアタリ映画ばかりを観ようとDVDレンタルの際も、一時間くらい悩むようになったが、悩んだ挙げ句これを引いてしまうとは、僕もまだまだ運が良いようで。
今観たい映画がほとんど「新作だけど7泊8日」みたいな作品が多いため、「トランスフォーマー」とともに借りたのがこれだった。
映画館で鑑賞するような、「これを観ないと他に観るものがないから行っとくか」というようなものでもないから、余計にうなだれ感は強い。

さて、前置きが長くなった。
映画を見終わり、この批評を書きながら、どれくらい僕が後悔しているか、察していただければ幸いである。

よく映画や漫画、アニメ、小説、何でもそうだが、「無駄なシーン(コマ、記述)は一切ないものだ」と僕は考えている。
それは良質であろうが、悪質であろうが、僕たち受け手が物語を享受する際には、はぐらかしであろうと何であろうと、そういうスタンスで読み解く必要があると思っている。
ほとんどの映画にはそれが当てはまる。

だが、この作品はまさに、そのセオリーや常識といったものを解体する映画である。
あまり長く書いても仕方がないので、真相から確認しておこう。
昔、ウィローと婚約していたメイラスは、突然その関係を打ち切られる。
戸惑うメイラスを尻目に、彼女のおなかの中には、娘が宿っていた。
ウィローは村に戻ると娘を生み、村の掟に従って生活していた。
しかし、去年の収穫が凶作であり、凶作の翌年には、自然を支配する神(ここではキリスト教ではない多神教の神)に生け贄を捧げる必要があると伝えられていた。
そこでシスター・サマーズアイル(エレン・バースティン)をはじめとする村人たちは、ウィッカーマンと呼ばれる生け贄を捧げる準備を始める。
そのウィッカーマンに選ばれたのが、ローワンの父親であるエドワード・メイラスだったのだ。

メイラスはその事実を知らず、この島に招かれた。
村人の不自然な対応によってこの島の人間が娘を生け贄に捧げるものだと思わされ、必死に救おうとする。
だが、村人たちは、血のつながりをもった外部の人間 = メイラスを生け贄にするために仕組んだ罠だったのだ。
不自然な村人の反応も、ウィローの訴えも、シスター・サマーズアイルのふくんだ台詞も、すべて彼を陥れるための工作だったのだ。
彼はそれに気づかず、村人たちに包囲され、助けるはずの娘にだまされて、ウィッカーマンという生け贄として捧げられてしまう、という結末だ。

村人の若い娘は、半年後、アメリカの都市に出没し、また新しいカモとなる男を物色する、というシークエンスで幕を閉じる。

話としては閉鎖的な空間における、異教徒たちの罠に落ちていく男の運命を描いている。
帰ってくることはないが、これも往来の物語になっている。
日常 ― 非日常 ― 日常である。
ラストに再び都会でだまされる警官の卵が登場するのは、こうしたパターンを踏襲してのものだ。
警官が狙われるのは、子供を大切に思ってくれるような正義感をもつ者でなければ、ウィッカーマンになれないからだろう。

このように説明すれば、一見できのいいホラー映画に思える。
だが、この映画を観てしまった人間にとっては、大きな徒労感と疲労感をもってエンドロールを眺めていたはずだ。
もしかしたら、映画館で観た人は、呆然としてしばらく席を立てなかったかもしれない。
ラジー賞候補に挙げられているのは伊達ではない。

ではなぜなのか。
僕は見終わるその直前、すなわちエンドロールが始まる直前まで、この映画のオチが見えなかった。
読めなかったと言い直してもいい。
すべて夢だ、とか、すべて小説の中身だった、とかそういった種類の映画なのだろうかと考えていた。
なぜなら、真相を聞かされても、全く腑に落ちないからだ。
当然、カタルシスなんてものは感じられるはずもない。

この映画には真相を明かされてもなお、残る謎が多すぎる。
伏線として張られたシーンが、結局説明されずにラストまで突入してしまう。
だから、真相を明かされても、疑問が消えるどころか、疑問が増えていくのだ。

たとえば、もっとも端的なのは、冒頭の母子が消えてしまうというエピソード。
少女が投げた人形を拾ってあげると、そこにトラックが突っ込んで母子ともに巻き込まれてしまう。
必死に助けようとするエドワードの努力もむなしく、爆発に飲み込まれる。
このシーンは、冒頭ということもあり、非常に重要なシークエンスとして描かれている。
このことをきっかけに、エドワードが休みがちになり、婚約者からの手紙に耳を傾ける気になる。
おそらくこの事故がなければ、物語そのものが生まれなかっただろうというほどの重要な事件だ。

その後、事故は事故でなくなる。
中にいたはずの母子の遺体が発見されなかったと同僚が伝えたのだ。
車も登録されていなかったという。
この不自然さからはじまった物語の結末は、当然この事故の真相をも明かしてもらわなければ困る。

なぜ母子が消えたのか。

同僚の警官は実は村人の人間で、彼女も関わっていたのだろうか。
そうだとすれば、この村の人間は、村以外にもコミュニティーを広げていることになる。
それは、この村の破綻を意味する。
完全に隔絶された空間であるからこそ、この村の結束は維持されるのだ。
外部からの知識や思想、それこそ「理念」が加わってしまうと、たちまちに崩壊してしまう。
だからこそ、私有地化して村を外部から守っているのだ。
であるにもかかわらず、なぜ彼女がエドワードをだますのだろう。
説明不足ではないだろうか。

それだけではない。
そもそも本質的な問題として、村人たちの計画にかなりのムリを感じる。
あるいは、この計画が不可能でないなら、もっと簡単に実行できたのではないかと疑問に思う。
エドワードをだますために、配達を生業にしているパイロットを殺す。
これによって彼は逃げ出す手段を完全に失ってしまうため、重要な計画のピースだったのは理解できる。
だが、なぜ外部の人間を殺すというリスクを冒せるのかが不自然だ。

なぜなら、外部の人間が殺されたと言うことは、すぐにばれてしまい、警察なりが捜査に乗り出すことは目に見えているからだ。
当然その時期に警官がその島に向かったことは知れているわけだから、村の祭りは殺人事件へと切り替わってしまう。
エドワードはケータイで死ぬ間際に助けてくれと連絡している。
私有地だからといって、切り抜けられるだろうか。
あやしいものである。

もし、そういった疑問を何とかクリアできると考えるなら、この計画があまりにも大がかりであると思えてしまう。
島に連れてくるところまででウィッカーマンに仕立て上げることは容易だったのではないか。
別に、まどろっこしい演技など必要なかったのではないかと思われる。
それが娘への愛をはかるのだとしても、解せない。
もっとシンプルな方法で追い込むことは可能だったように思えてならない。

要するに、必要な情報は説明されずに、不要な伏線ばかりが目立つ作品になってしまっている。
回収されない、解決されない謎は、ただ観客を疲弊させるだけだ。
徒労に終わる物語は嫌悪感しか生み出さない。
「大切な点は三つあります。」と言いながら結局「最後の一つ」を説明せずに終わった感じだ。
それなら最初から「二つ」にしておけよ、と言いたくなる。
だから、ホラーとしての怖さよりも、本当にちゃんと説明してくれるのだろうか、という不安による恐怖の方が大きい。

ストーリーが楽しめないからといって、キャラクターに同化できるかと言えば、それも不可能だ。
印象的な冒頭も、その後の展開も、エドワード・メイラスの人となりを説明してくれるエピソードはない。
薬を服用するシーンを意味深に挿入するも、結局それが何のための、どんな薬かを説明してくれることもない。
精神安定剤を飲める彼は、精神安定するかもしれないが、こちらは全くもって不安定だ。
どんななれそめでウィローと婚約したのか、どんな刑事なのか、見えてこない。
だから、感情移入どころではない。
これまでの多くの役柄から想像できるニコラス・ケイジが主役でなければ、きっと僕は途中で投げ出していただろう。

村の設定なども不透明だ。
蜂を飼っているのはわかったが、どのように他と交流しているのだろうか。
住所があると言うことは、単なる私有地では収まらない。
やはり法治国家である以上、完全な孤立を実現することはできない。
もちろん保護区域に指定された国立公園のような設定であれば、話は別だが。
村のしきたりとなっている祭りも、説明不足の割には、理解しがたい習慣が当たり前のように登場するから、冗談なのかと思ってしまう。
少なくとも、ニコラス・ケイジが熊の着ぐるみを着ているシーンは、もはやホラーというジャンルを超えて、コメディの域である。
笑うなと言うのが無理な話だ。

こんなに収拾のつかない映画も珍しい。
ドリーム・キャッチャー」や「フォーガットン」もトンデモ映画だったが、全ての伏線について、謎を収拾しようとする試みは感じられる。
これはどちらかというと、観客を振り回すためだけに置かれた方法論的なキャラクターであったり、謎が多すぎて、謎を解くこと自体を放棄している。

だが、とここで肯定的な評価を書いておこう。
これが、ニコラス・ケイジなのだ。
これが、あの「ウインド・トーカーズ」の主演を受けたニコラス・ケイジであり、これが、あの「アダプテーション」の双子を演じたニコラス・ケイジなのだ。
まさに、ニコラス・ケイジの“らしさ”がふんだんに盛り込まれた作品だと言えよう。

ザ・ロック」を観てニコラス・ケイジのファンになったって?
こんな映画を愛せるようになってから、好きだと名乗りなさい。
少なくとも、僕はこんな駄作の制作まで務めてしまうニコラス・ケイジがたまらなく好きだ。

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