secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ジャンパー(P)

2008-06-29 18:42:31 | 映画(さ)
評価点:33点/2008年/アメリカ

監督:ダグ・リーマン

何の〈物語〉でもない。

友人にからかわれたデヴィッド(ヘイデン・クリステンセン)は、凍った池に入るはめになる。
クラスメイトのミリー(レイチェル・ビルソン)が止めるのも聞かず、池に入ったデヴィッドは、
冬の池に落ちてしまう。
死ぬかと思われたその瞬間、図書館の本棚の間にいる自分を発見する。
彼は瞬間移動するすべを手に入れたことを知る。
それ以降、彼はドアを使うこともなく金を得たり、バカンスを楽しんだりしていた。
ミリーと再会を果たした幸せの絶頂にあるデヴィッドの元に、ローランド(サミュエル・L・ジャクソン)という男が現れる。

「スターウォーズ」で一躍有名になるも、数々の凡作に出演することで、日本ではほとんど話題になることがなくなってしまった俳優と言えば、ヘイデン・クリステンセンである。
そして、「ジェイソン・ボーン」シリーズを立ち上げることによって一躍有名になるも、僕に駄作と言われてしまった監督と言えば、ダグ・リーマンである。
その二人がタッグを組んで、撮影したのは瞬間移動という超能力を手にした男の物語だ。

CMで話題になり、周りが見に行きたいと言っていたのを尻目に
「絶対おもしろくないからやめておけ」と止めるのが、日課になっていたのを思い出す。
今回はこの映画を飛行機で鑑賞した。
いくらなんでも、みなきゃ良かったと、見終わってから後悔してもやはりだめなのだということを
改めて痛感させられた一本だ。

おそらく今後レンタルになるだろうが、この映像だけが売りの映画をDVDで見るのは、
寿司でいう、大トロのにぎりの大トロ抜きのようなむなしいものになるに違いない。
せめてもの救いは続編が制作されなさそうだということだろうか。


▼以下はネタバレあり▼

この映画はネタバレなしの上の項でも書いてしまったが、全くの駄作だ。
アメリカという国の不思議なところは、これが脚本段階ですでに破綻しているということを気づかずに、
どんどん制作を進めていって、挙げ句の果てに映画として完成させてしまうところだろう。
ああっ、日本も同じようなことはしているか。とほほ。

この映画に流れる〈物語〉は、何もない。
駄作である理由はその一点につきる。
小説でもアニメでも、ゲームでも映画でも、ドラマでも、〈物語〉が描かれる作品では、必ず事件の前後によって変化するという型がある。
もちろん、事件らしい事件が起こらなくても変化は起こりうるし、事件が起こっても、「変化しない」という変化もあり得る。
課題らしい課題が設定されているにもかかわらず、それが解決されない、克服されないとなれば、それは〈物語〉としての破綻を意味するだろう。

主人公のデヴィッドは、突然ジャンパー(瞬間移動)の才能に目覚める。
この能力は、世界中のどこにでも瞬時に移動できるというものだ。
これについての具体的な説明はあまりみられない。
「家をまるごと移動しようとしたやつは死んだ」
「はじめは移動するときに少し痛みを伴う」
映像から窺えるのは、移動するとき、空間をねじるということだ。
現にパラディンと呼ばれる一味はそのゆがみを追跡することで、ジャンパーの居所をつかむ。

アメリカ映画によくあるように、「なぜ」という問いは禁物だ。
アメリカは歴史性や因果関係を描くのは不得意で、そこには関心はない。
ただ、「できる」ということが重要視される国民性なのだ。

このジャンパーの力によって、彼は苦労せずに生きていくことになる。
この映画が、〈物語〉を作り出せない理由として、彼に主人公としての資格がないことがあげられる。
なぜなら、彼には克服すべき課題が与えられないからだ。
いや、正確に言えば、課題は山積しているはずなのに、何一つ克服しないし、それを〈物語〉としても、要求しないのだ。

この作品のストーリーには、何の解決もない。
何の変化も起こさない事件しか、起こらないのだ。

彼には課題となりうるだろうことが3つほどある。
1つは、クラスメイトとの関係だ。
彼の能力を引き出したのは、クラスメイトのいたずらだった。
ミリーに贈ったプレゼントを池の中に投げるという(笑える)いたずらによって、池に落ちることになる。
物語として冒頭でもあるので、彼への復讐が課題となることは考えられる。
だが、クラスメイトには能力を得てからあっさりと復讐してしまう。
しかも、主人公としては感情移入できないほど卑怯な方法で彼を倒してしまう。
この置き去りは、僕たち観客にとって、嫌悪感しか与えない。
ただでさえ、彼の行動が「飛んでいる」のに、ますます観客は引いてしまうだろう。
この置き去りは結果として、パラディンとの戦いの手がかりになるわけで、伏線としての機能を有しているのみだ。

2つめ。
そのパラディンとの戦いが、映画でのおそらくメインとなる。
サミュエルによると、「何百年と我々はジャンパーを殺してきた」
「その力をいずれ悪の道に使い始める」ということらしい。
力を得て、いきなり銀行強盗をするくらいだから、悪の道に十分使っている。
パラディンは至極もっともな論理の元に戦いを挑んでくる。
それにしても、彼らの設定に関する説明が少ない。
やり方が粗略で、パラディンという組織自体が善か悪かの判断ができない。
しかも、彼らはジャンパーに「克服」されてしまう。
あきらかにデヴィッドの論理が間違っているはずなのに、乗り越えられてしまう。

〈物語〉としても、彼の課題を引き出したり、克服したりする記号としての役割もない。
彼らの戦いで学んだことがあるとすれば、ジャンパーは好き放題やっても誰も止められないということだ。
こんな主人公を好きになれということじたいが無理な注文だ。

3つめとしては、作品に織り込まれた母子の〈物語〉である。
母に近づきたいというエディプス・コンプレックスの課題がある。
母親はパラディンであるにもかかわらず、息子がジャンパーであることに気づく。
そこで、母親は息子の前から姿を消すのだ。
息子は母親に対するあこがれを強くして、根暗な少年として生きていく。
そこへジャンパーへの覚醒があったわけだ。

ぐうたらな父親像で、そのアンバランスさが気になるものの、ここにはテーマになりうる「悲しみ」がある。
パラディンに勝ったところでその悲しみによって彼を一気に正義のヒーローに仕立て上げることも可能だったはずだ。
だが、この映画はそうはしない。
母親に再会したところで、何も変化はない。
「暑いところに行きたいわ」といって恋人とどこかに行ってしまう。

僕は正義のヒーローを描いて欲しいとはおもわない。
悪のヒーローでもかまわない。
それなら徹底的に悪を描くべきだった。
課題を設定しておきながら、それらはすべて中途半端にしか解決しない。
あるいは通過するだけでイニシエーションとしての機能もないほど、素通りだ。

主人公はもちろん、誰一人として安定した「キャラクター」がいないので、感情移入もままならない。

ただ映像が流れている、そんな気分にとらわれる。

飛行機でなければきっとみなかっただろう。

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