secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

クワイエット・プレイス 破られた沈黙

2021-06-26 18:36:52 | 映画(か)
評価点:74点/2021年/アメリカ/97分

監督・脚本:ジョン・クラシンスキー

これが、この映画の設定における、正しいギミックの使い方。

その初日。
いつも通りの昼下がり。突然隕石のようなものが墜ちるのを人々は目撃した。
街が不穏な雰囲気なり、突然わけのわからない化け物が襲って来た。
それから一年余りが過ぎたある日、イヴリン・アボット(エミリー・ブラント)たちは生まれたばかりの赤ん坊を抱えてしばらく住んでいた家から去ることになった。
しかし大黒柱のリー(ジョン・)は命を落とし、失意の家族は消え入りそうななか旅立った。
彼女たちは誰かが灯していたと思われる火を頼りに歩き出す……。

極限の状態なのに妊娠してしまった一家の不幸を描いた傑作ホラーからの続編。
見るつもりは全くなかったが、他に観るものがなく、ちょっとした開放感から選んでしまった。
他に選択肢があったといえばあったのかもしれないが、正直どれも期待以上の意外性はないと考えた。
そこで、映画館で見た方が楽しめるかもしれない可能性がわずかでもあるこの作品を選んだわけだ。

パニックホラー的な前作の、ストーリー的には直後から始まる。
だからできれば前作を見てから見た方がよいだろう。
ただし、前作が全く鑑賞に堪えうるものではなかった点を踏まえれば見なくてもよいかもしれない。
ストーリーを追うことよりも、前作から見事に映画として楽しませるものに昇華した、その奇跡のV字復活を見るためにも、前作を鑑賞しておきたい。
それくらい、この作品と前作の完成度に開きがある。
その開きも込みで、良い映画だと思う。


▼以下はネタバレあり▼

サヴァイバルホラーへと進化したこの映画は、正直、同じシリーズとは思えないほどうまい映画になっている。
期待値がもともと低かったこともあるが、それでもやはりこの映画はおもしろい。
前作での不満を見事にとりさらって、この映画の世界観を生かしながらも、新しい面白さを見つけ出した。

この映画は言うまでもなく、音に反応するクリーチャーからどのように逃れて生き延びるか、という設定だった。
これが宇宙から来たものなのか、ちょっとよくわからない。
だが、少しでも音を立てればどこからともなくやってきたクリーチャーが襲ってくる。
だから音を立ててはいけない。
クワイエット! なのだ。

前作はその設定だけが映画の演出になっており、それ以外の舞台装置はほとんど無効だった。
だからどうしても「どこまで音を出せば奴らは反応するのか」といったことが不透明すぎて、逆にその設定が臨場感を疎外していた。
しかも、その状況下でさらに子どもを作ろうとしたことに、フォロワー以外からも炎上必至だったわけだ。
映画としての必然性が舞台装置から壊れてしまっていたのだ。

だが、今作は「あえて沈黙という点を物語の見せ場に使わない」ことで成功している。
要するにすべての恐怖や不安は、音を出すかどうかによって煽られることはないのだ。
どちらかというと、それ以外のところで不安を煽るような演出を重ねることで、一層「声を出すことができない」恐怖を生み出している。
この点が前作よりおもしろくなった大きな原因だ。

例えば、空気だ。
音を防ぐために密閉された溶鉱炉が一つの逃げ場所になっている。
だが、ここは外側から開けることはできても内側から開けることはできない。
しかも密閉されているため、短時間しか籠もることができない。
それは登場したときからその設定が明かされて、何度も扉が密閉されているか否かが描かれる。
繰り返されることで、観客は空気があるかどうかに注目せざるをえない。
これが「音を出すことができない」以上に恐怖と不安を生み出すわけだ。

それだけではない。
物語の序盤で頼りになるはずの長男がケガをしてしまう。
これによって家族はばらばらに行動せざるを得なくなる。
物語の一つの重要なテーマが家族のつながりの強さであるはずなのに、物理的に引き裂かれてしまうのだ。
このケガも新しい家族への行動動機を生み出し、テーマをむしろより強く描き出すギミックとして作用する。
母親は息子のために抗生物質を探しに街に向かうし、耳の聞こえない長女はリスクを冒して救急箱を探す。
「音を出さなければ生きていける」というような受動的な態度では生きていけない展開(生存リミットが設定される)になっている。
だから、彼らの行動原理に必然性を感じるし、より緊迫感ある状況に追い込まれていく。

今作は驚くほどキャラクターが一切死なない。
名前のあるキャラクターは皆生き残る。
それでもおもしろい、緊迫感が失われないのは、そうした音を出してはいけないという設定だけではなく、さまざまなギミックが有効に働いているからに他ならない。
そうだ、そういう展開がこの映画には重要だったのだ、と気づかされる。

そしてそうした舞台装置によって、明らかになるのはこの映画のテーマが単なる恐怖やパニックではなく、家族の繋がりであるという点だ。
なぜ発端の1日目を描いたのか。
なぜ家族がばらばらにならなければならなかったのか。
アボットという家族を描きながら、実はキリアン・マーフィー演じるエメットの内面を深くえぐるためでもあった。
彼は助けるべき知人がいることを知りながら、一歩も外の世界に足を踏み出すことができなかった。
それは、家族を失ってしまった悲しみを受けとめることができなかったから。
その重さが、あの隠れ家の奥の部屋にあった妻の遺体だ。
彼は本当に妻を愛していた。
愛していたがゆえに、その悲しみを超克する方法が見つけられなかった。

そして、アボットの一家に出会うことでもう一度生きる道を見つける。
このあたりの描写や結構が非常にうまく作られている。
子ども達を守ろうとして戻る、生き残った黒人も、テーマと整合する。

荒削りだった前作を、予算を得ることで非常にまとまった作品になった。
監督を務めたリー(父親)も後ろに回りながらも、しっかりと存在感を出していた。

低予算だった映画が、ヒットしてなおさらに輝く、こういう映画は珍しいだろう。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 論考「進撃の巨人」 | トップ | ゴジラVSコング »

コメントを投稿

映画(か)」カテゴリの最新記事