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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

パリ20区、僕たちのクラス

2010-07-07 21:53:56 | 映画(は)
評価点:75点/2008年/フランス

監督:ローラン・カンテ

カメラのぶれは、学校という空間にある〈揺らぎ〉そのものだ。

フランソワ(フランソワ・ベゴドー)は日本の中学二年生にあたる4年生の担任をもつ、フランス語の教師だった。
移民の街・パリ20区の公立中学では、フランス語をまともに話せない生徒たちが大勢いた。
フランソワは、なんとか彼らをフランスで生きていける力を身につけさせようと、四苦八苦する。

主演のフランソワ・ベゴドーは、この作品の原作を書いた作家でもある。
元は教師だったという。
この話は実話ではないが、ドキュメンタリータッチで綴られる。
映画を撮影するに当たって、一年のワークショップを実施し、実際に教師として生徒として振る舞っていたそうだ。
映画を撮影するというにはあまりにもリアルな空気感はこのようにして生まれている。

おそらく単館上映だろうから、見に行くなら、早いほうが良い。
フランスやフランス語に興味がある人や、教師をしている人などにはおすすめだろう。
僕はそのどちらでもないので、下の批評はあまり役に立たないかもしれないが。

▼以下はネタバレあり▼

教師をしているフランス語がけっこう話せるらしい人を連れて見に行った。
その前の日に、M4会のメンバーから電話があり、見てみろと言われたことがきっかけだ。
特にマークしていた映画ではなかったので、取りあえず久しぶりに単館上映作品と言うこともあり、また時間が空いていたので鑑賞した。
以下の批評はその友人の意見に多少影響されたことをまず断っておく。

パリ20区と聞いて、ぴんとくるだろうか。
僕はまったくぴんとこなかった。
パンフレットによれば、この地域は移民が大勢住んでいるところだそうだ。
映画に使われた学校は実際にある中学校で、どこまでもリアル、というよりも現実そのものを描こうとした映画と言えそうだ。
だからドキュメンタリーというよりはリアルタイムに起こった出来事をそのままとり続けた、という印象を受ける。
カメラが揺れるのもそのためだ。
大まかなシナリオはあるものの、それも即興によるところが大きかったようだ。

ストーリーがないような作品だが、この映画はやはり映画である。
原題が「壁の中」というタイトルだが、この映画のカメラが置かれるのはすべて壁の中、つまり学校の中だ。
壁の外の出来事は全く描かれない。
だが、多くの人は、この街の様子を頭の中で思い浮かべることができたはずだ。
なぜなら、この学校の生徒は、少なくとも地域の縮図をそのまま思い起こさせるようなメンバーだからだ。
白人も黒人も、黄色人種も、さまざまな文化や言語、生活を背景にもつ生徒たちが同じように並んでいる。
カルルという生徒は他の中学を退学させられて、そして転校してくる。

サッカーの話をしているとそれがよくわかる。
移民の国であるフランスは、サッカーの代表選手は黒人の選手が多い。
彼らはフランス代表を応援するのではなく、自分の祖国であったり、その祖国出身の選手を応援している。
一枚岩の日本(それさえも語弊があるが)とは違って、雑多な人種で埋め尽くされているのだ。
自分の国はどこか、という文化的、国家的アイデンティティを問うことが非常に難しく、かつそれを強制することもできない。
文化を押しつけたり、ルールを押しつけたりすることは、この学校ではできない。

学力も個々で全く違う。
フランス語の基礎の言葉でも、わからないという生徒もいれば、逆に簡単すぎるという生徒もいる。
ここでフランス語を教えることは、母語として日本語を教える多くの日本人とは事情が違う。
日本語をネイティヴの日本人が習うのは、より深くより適切に日本語を扱うためだろう。
だが、ここでは生きるためだ。(勿論、日本でも生きるためなのだろうけれど)
読めない、理解できない、聞き取れない、というフランス語を、なんとか生きていくために必要な語学力を身につけるためにフランス語を習う。
当然親がしゃべれない場合もある。
そんな現状でフランス語を教えるのは容易ではない。
ほとんど、日本語を外国人に教えるのと変わらない。

フランソワがとった教授方法は、そのことを反映してか、いわゆる僕たちがみる「国語」とは違う。
1人ひとりがどこに疑問があるのか問いただし、その疑問に丁寧に答えていく。
それは1人の女子生徒が読んだという本、ソクラテスの産婆術そのものだ。
この辺りにこの映画の巧みさがある。
きちんと伏線と隠喩がきいている。
勿論その前に社会の先生らしき人が、世界思想についての相談をフランソワにしたのも、伏線となっている。
生徒たちは時に反発するが、しっかりと成長していく、そのささやかな一面をみせている。

一方、その成長は一面的で直線的ではないことも示唆されている。
先ほどのカルルは前の学校から転校してくる。
心配をよそに順応していたかのように見えていたが、教師の暴言に対して反発した際、「俺を手名付けたつもりか!」とその内面を吐露する。
彼は自分を押させるという知恵を身につけたという意味では成長していたが、その内面には深い闇を持つ。
教師と生徒という関係を映画で描けば、多くの場合一元的な見方で成長したと読者に悟らせるが、この映画はそうはしない。
生徒は人間であり、子どもである以上、揺れ動き、その中で成長していくものだということを作り手は知っている。
その意味でも、ありのままの生徒たちの姿を映像に抜き出したと言えるだろう。

おもしろいのは、ラストの女子生徒だ。
「私には何もなかった。学んだことは何一つありませんでした。」という言葉は重すぎる。
低学力の生徒は、日本にもいるのだろうが、日本と事情が違うのは、中学を卒業すると進路が大きく区分されていくことだ。
日本ではほとんどの子どもたちが高校に進み、高等教育を受けることになる。
文系の大学生なら、そこからの人生選択もまだまだ未知数だ。
ブルーカラーでも、ホワイトカラーでも選択の余地はある。
だが、フランスでは、就職するのか教師になるのか研究者になるのか、その時点である程度決定されてしまう。
「就職はいや」という彼女の切実な願いは、フランソワを突き刺す。

そして、なによりショックなのは、彼がそれを年度終わりまで見抜けなかったと言うことだ。
壁の中で、壁の外が透けて見えるように、壁の中で起こっていることを100%教師がわかっているとも限らないのだ。
いかにもフランスらしい二項対立的な思考に基づく映画だ。

フランソワは良い教師だったのだろうか。
フランソワは教育が出来ていたのだろうか。
フランソワは横暴な講堂が目立つスレイマンについて「能力の限界だ」ということを会議で話す。
その言葉によってスレイマンは心が折れてしまう。
また、意図せず発した「ペタス」という言葉を捉えて、クラスは彼に反発する。
どれも彼の失策だったとしか言いようがないだろう。
それは引っ込めることができない状況であったとしても、表現として適切ではなかった。

それも、彼が全力で彼らに向きあおうとしていたことの表れだと思う。
彼は人間である。
人間として人間を教育しようとしたときに見せる弱さではなかったか。
彼の言葉について肯定はできないが、その難しさそのものが、彼らに教育することの難しさそのものを象徴しているように思う。
子どもたちが一方向的な成長がないように、教師も絶えず揺らいでいる。
その揺らぎそのものが、教師として教壇に立つ者の不毛ともいえる闘いなのではないか。

最後にもう一つ。
フランス語はまったくわからないので、一緒に観に行った友人の言葉を借りるしかないのだが、生徒にはスラングと文法ミスが多かったということだ。
生徒は子役を使ったのではなく、本当の生徒たちだった。
そういった臨場感が、この映画を形作っているのだろう。

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