secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

地球が静止する日

2009-01-04 16:22:14 | 映画(た)
評価点:46点/2008年/アメリカ

監督:スコット・デリクソン(「エミリー・ローズ」ほか)

思考が停止する日。

地球外微生物を専門とするヘレン博士が帰宅すると、いきなり電話が鳴る。
今からそちらに向かうので、来て欲しい、という意味不明な電話だった。
サイレンを鳴らしながら身柄を拘束されたヘレンは、軍の施設に案内され、そこには他の多くの専門家が呼ばれていた。
説明されたことは、もう80分もすれば、地球に小惑星が衝突する、という話だった。
驚く人々は、固唾をのんで見守ったが、その時刻になっても衝突はしなかった。
それどころか、光る球体がセントラルパークに降り立った。
中から出てきたのは人間そっくりな生命体だった。

この冬話題の一本、というかあまりにも盛んに予告編が流れているから、話題でなくても話題なのかと錯覚するくらいだ。
年始、時間をつぶす必要性があったために、時間が合わせやすいこれを観た。
周りの人から「あれはおもしろくないですよ」と言われていたので、「それを観るのが俺でしょう!」と意気込んで、別の期待を胸に観た。

結果は、まあ、点数をみていただければ、そのまんまという感じだ。
これを観に行くくらいなら、家で「M1」の録画か、「ガキの使いやあらへんで」を観ている方がいいだろう。

▼以下はネタバレあり▼

予告編で繰り返し流れていたから、きっとだいたいの方向性はわかっているだろう。
人間のかっこうをした宇宙人が、地球を救うために人類を殺しに来た、というのがそれだ。
ものすごくわかりやすいし、一昔前のノリだから、近未来というか、陳腐ささえ漂う設定だ。
リメイクだから仕方ないのかもしれない。
問題はやはりその提示の仕方だし、その解決の方法だろう。
どのようにその理論が披露されて、そして誰がそれを覆すのか、ということだ。

この映画を観ていると、宇宙人像がどこかちぐはぐな印象を受けるはずだ。
たとえば、宇宙人だというのに、載せてくるロボットなるものが、妙に人間的な形をしている。

また、宇宙人は人間の姿をしているのだが、それはクラトゥ(キアヌ)ひとりではない。
チャイニーズアメリカンも劇中には登場し、状況を説明してくれる。
なんと、彼は「私はここの人間が好きだから、彼らとともに死ぬ」という地球人には都合の良いことを言ってくれる。
このシーンが出てきて僕はかなりいやな予感を持った。
つまり、キアヌが納得すれば世界が救われる、ということになってしまうのではないか、という予感だ。

なぜそれがいやな予感なのか、といえば、それまでのクラトゥの設定が皆無で、ほとんど感情をあらわにしない人物だったからだ。
彼はあたかもロボットであるかのような、合理的な考えのもとに行動してきた。
「マトリックス」のネオのように無表情で、機械的な言動だった。
そこにはいわゆる人間性(宇宙人だからないのは当たり前だが)が欠如した人物としてふるまっていた。
だからこそ、「人類に地球を託すことはできない」と考えたのだろうと思っていた。
だが、仲間の宇宙人が「私はここの人間が好きだ」と言ってしまう。
そうなると、箱船やロボットをつれてきて、何十年と潜伏期間をかけてまで計画していたものが、一人の宇宙人の心変わりですべて解決してしまうのではないか、と思ったからだ。
クラトゥが、何をもとめ、何に怒りを覚え、何を信じているのか。
そういった「使命」以上の個人的な内面を、それまで一切描いていない。
その設定がないのに、いきなりひっくり返されてしまうと、当然違和感を生んでしまう。
そこにカタルシスなるものは、生まれようがない。
だから、僕はそういう展開にしてしまうのは危険だ、と思ったのだ。

その予感は見事に的中してしまう。
終盤ヘレンとその義子であるジェイコブ(ジェイデン・スミス←彼については後述する)とが和解する。
これはそれまでに血のつながりのない二人のやりとりがまったくかみ合っていないことで、それが和解に至ることは、読めただろう。
それを契機にクラトゥは人間はまだまだ捨てたもんじゃないと、心を変える。
命を救うために、自らの体をなげうって、セントラルパークの球体を帰還させる。
これで観客は納得できるだろうか。

そもそも、クラトゥはジェイコブにとっての父親という記号を持っている。
それは「ターミネーター2」のT800型と、ジョンとの関係に似ている。
父親のいないジェイコブは、クラトゥに父親代わりになってもらうことを要求する。
父親の墓に連れて行って、生き返らせろ、というのはそのためだ。
それができないことを知って、はじめてクラトゥが父親でないことを実感する。
だから、ジェイコブは墓の前で泣くことになる。

そう考えると、クラトゥは、形を変えたヒーローなのだということにも気づくはずだ。
地球を守るだけではなく、ジェイコブにとっても、ヒーローなのだ。
彼はどんなメカニズムでそれをしているのかわからないという謎を持っている。
また、その謎のパワーによりなんでもやってしまう。
超音波で攻撃したり、電子機器に障害を与えたり、電話を通話状態にしたり。
まったく超越的な存在なのだ。
電話回線が切れている電話をどうやって通話できる状態にするのか。
それは電気が来ていないとか、契約が更新されていないといったレベルではなく、物理的につながっていないはずだ。
それを、超能力で通話状態にしてしまうのは、ヒーローでしかない。
彼は、世直しを志す現代ヒーローなのだ。
その意味では「スパイダーマン」と何ら変わりない。
ただ「悪のヒーロー」であるだけだ。
都合の良いブラックボックスとなっている。

彼の理論とノーベル受賞者の科学者とのやりとりを聞いて僕は驚愕する。
「人間は地球を殺しているから人間を殺すしかない」
「人間は危機に直面したとき、これまでに何度もその危機を乗り越えるために改めてきたんだ」
「私たちはもう十分彼らを観察してきた。だが、ダメだった」
「今まさに危機に直面したんだ。だから人間は気づけるはずだ」
これらのやりとりがどこまで正確かは、いったん棚上げしておく。
たぶん、たいていの内容は正しいはずだ。
まあ、彼らの言い合っている議論は正しいだろう。
確かに人間は危機に直面するたびに成長してきた。
それが正しい成長だったかどうかはわからないにしても。

だが、この議論は、実は絶望的な事態を宣言しているに等しい。
ここで科学者が言っている「危機」とは、外的な危機を指している。
内部からの危機ではなく、強力な外部からの侵入による危機だ。
それは、平たく言えば〈他者〉である。
つまり、人類と対峙する〈他者〉が訪れるたびに人類は進化してきたのだ、ということだ。
インカ帝国もそうだし、日本でいえば、ペリーの黒船もそうだ。
それは江戸時代において、〈他者〉といえるだけの脅威が訪れ、江戸が崩壊するのだ。

それは全然事態の解決にならないということを科学者は気づかない。
議論を反転すると、「人間は〈他者〉が訪れない限り気づくことはない」ということを示す。
つまり、宇宙人といういもしないものを頼りにするより他、もう破壊行動を慎むことはないということだ。
この映画ではそれで通用するかもしれない。
だが、現実において、この科学者は人類による内部に〈他者〉を作り出すことを放棄すると、宣言していることに他ならない。 
こんな絶望感を示す結論でいいのか、と疑いたくなる。

最近読んだ本に「インフォコモンズ」という本がある。
これは人間がどのように情報によってつながっていくか、という方策を打ち出したものだ。
だが、この本にあるように人類が限りなく自由に情報でつながってしまうということは、すなわち〈他者〉がいなくなるということではないか。
〈共有〉することで衝突することがない世界。
それは人類が思考を停止する日に違いない。
それもあって、この映画が絶望を提示するものだと思ってしまったのだ。

話を戻そう。
〈他者〉がいなければ人類は気づかない。
その意味でも、クラトゥは人類全体を相対化させるというヒーローなのである。
何度も言うように、だから彼は「謎」のままだ。
〈他者〉はどこまでも理解不能な、〈共有〉できない相手であるから〈他者〉なのである。
もしこの映画が広く支持されるとすれば、それは人類はもう立ち行かなくなってしまうほど、〈共有化〉された証なのだと思う。

余談。
この映画でキアヌ・リーブスの新境地を目の当たりにしたかったが、「マトリックス」のイメージそのまんまで残念だった。
また、ジェイコブ役のスミス君。
彼は天才子役の呼び声が高いそうだ。
僕は海外の役者がどれだけ演技がうまいか、ちょっとわからない。
英語を生で聞き取ることができないので、台詞の善し悪しはわからないし。
けれども、少なくとも、白人女性の子どもに、黒人の彼が登場する必然性を全く感じない。
義子であると言っても、さすがに違和感が残る。
せめて父親を生かしておくとか、なんかやりかたがあったのではないか。
その無理な設定から言っても、親の七光りは間違いないと思うのだが。

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