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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

SAW3(V)

2009-05-06 21:27:31 | 映画(さ)
評価点:50点/2006年/アメリカ

監督:ダーレン・リン・バウズマン

これまでのシリーズから大幅魅力ダウン。

ジグソウ(トビン・ベル)とアマンダ(ショウニー・スミス)は、死のゲームを依然として続けていた。
ジグソウは死の淵にあり、1作目でゲームを生き延びたアマンダを後継者として擁立し、ゲームを計画、実行するように指示していた。
外科医のリン(バハール・スーメキ)は精神安定剤を飲みながら手術に執刀するというぎりぎりの生活を送っていた。
ジグソウは彼女にゲームを持ちかける。
ジグソウを生きながらえさせたら、彼女の勝ち、死なせてしまったら首の爆弾が爆発する。
ジグソウはその期限を、もう一つのゲームの結果が出るまで、とした。
もう一つのゲームとは、交通事故で息子を亡くした男ジェフ(アンガス・マクファーデン)が、復讐しようと考えていた相手を自分の肉体を削ってでも助けられるか、というもうのだった。

「SAW」シリーズは体に悪い。
心にも悪い。
だから「」まで鑑賞したが、それ以降は観ないでおこうと思っていた。
が、あまりにも僕の周りが勧めてくるので、見ることにした。

僕はこの一連のシリーズを、肯定的に評価していない。
1作目は確かに見るべきところはあったものの、「」はパワーダウンしてしまった感がある。
シリーズ通して見られる残酷描写も僕は好きになれない。
そのことを念頭に置いて、以下の文章を読んでいただきたい。

▼以下はネタバレあり▼

このシリーズは完全に連続して描かれている。
そのため、前作まで観ていないと、きっとまったくおもしろくない。
僕も「」「」「3」と順に観ているので、前作2作を観ているという前提で話を進めることにする。

このシリーズのおもしろさは、残酷描写とミスディレクションの二本柱だ。
残酷描写が話題になってしまっているところが悲しいところではあるが、サスペンスとしても一流であるところが、この映画のファンが支持しているところだろう。
残念ながら、この「3」は、その二本柱を全然維持できなかったようだ。

残酷描写は、僕に言わせれば完全に息を潜めた、といっても過言ではない。
この映画で一番えげつない、グロい描写は、人が殺されるところではなく、医者がジグソウの頭を切開するところだろう。
殺してしまっては自分も死んでしまうかもしれない、という緊張感を演出するためなのかどうか、知らないが、執拗に、必要以上にリアルに描写している。
痛々しいが、それは「人命を助けるため」という「SAW」のコンセプトと真逆のシーンであるため、違和感を覚える。

もちろん殺されるシーンも確かにえげつない。
ねじり歯車の装置や、ビーカーの中に手を突っ込まなければいけないとか。
けれど、前作までの流れを知っている観客にとっては残念ながら「普通」だ。
(麻痺してしまっているのかもしれないが、「セブン」の食わされ続けるほうがよほど怖い)
それだけではなく、凍死させられたり、豚の肉で窒息させられたりと、感覚的に「痛くない」ゲームが目立つ。
だから、残酷でありながら、その残酷さが効果的に描かれていないのだ。
だから、危機感が半減する。

この映画のコンセプトは痛みだ。
痛みをどれだけ感じられるか、どれだけ直視できるか、それがジグソウの言う「生きる感謝(「SAW」)」にもつながっていくはずだった。
怖いもの見たさ、という人間の野性的な欲望を満たしてくれるという側面も持ちながら、それでもこの映画が多くの人に受け入れられるのは、痛みを描こうとしているという点だ。
だが、この3作目にはそれが息を潜めている。
かなり常識的な範囲にとどまっている。

ミスディレクション映画としても失敗している。
1作2作ともに、観客を転倒させようというミスディレクション映画となっていた。
当然、3作もそのノリで進むのだろうと思っている観客を、それでもだますためには「だまさない」という手法を選んだのかもしれない。

このシリーズを息の長い、するめのような金づる映画にしようとしたのだろう。
この3作目は、「言い訳」のようなストーリーになっている。
「SAW2」で僕も書いたように、「2」はかなり展開に無理があった。
なぜアマンダなのか、アマンダの内面をあまり描かずにジグソウが彼女を後継者として選んだように展開していた。
犯人は誰でも良かったかのようなラストに、きっとアメリカでも批判が続出したのかもしれない。
だから、この「3」では、過去の作品の裏側を暴きながら、ジグソウの動機やアマンダの立場などを突っ込んだ形で描いている。
これまでの被害者よりの作品だったものに比べて、犯人よりの作品だと言っていい。
だから、暴かれる真相は、犯人の意図、というのではなく、被害者の関係となっているのだ。

もう少し精しく書いておこう。
外科医のリンは、ジグソウを助けるためだけではなく、ジェフの妻であったから選ばれた。
ジェフは息子を失って失意のどん底にあり、復讐を考えるまでに追い詰められていた。
一方妻も、夫のそのような態度から不倫に走り、精神安定剤を飲みながら働くという過酷な状況に追い込まれていた。
外科医の妻は、不倫相手と一夜をともにしている様子を伏線として描いておき(彼が夫であるかのように錯覚させることで)、ゲームに参加している二人が赤の他人のようにミスリードしていたのだ。

だが、この関係を知らなかったのは何も観客ばかりではない。
アマンダを試すために、ジグソウが仕組んだゲームだったのだ。
アマンダはこれまでのゲームで誰も抜け出せない袋小路のものしか作ってこなかった。
それを知ったジグソウが、彼女が本当に後継者としてふさわしいか試すために、今回のゲームを最期に立ち上げた。
(ジグソウはアマンダに「誰も勝てないゲームを設定した」とラストに言うが、ジグソウ自身も救えたのはアマンダ一人やったやんけ! と言いたいが。)

よって、息子を失った外科医の夫婦と、アマンダの三人がこの映画の被験者となったわけだ。

ではジグソウは何を試したかったのか。
それは「人を赦せるか」ということだ。
交通事故の犯人や、その裁判で証言した目撃者、判決を下した判事たち。
あるいは自分をここまで追い詰めたジグソウやアマンダ。
さらにはエゴを持ちながらそれでも生きようとするゲームの勝者である外科医夫婦。
そして自分自身。

彼らをそれぞれ赦せるかどうか、というのが今回の大きなテーマだった。
赦せるならば、自分も助かる、という仕組みだったのだ。

だが、結局誰もが他人を赦すことができなかった。
だから、今回もジグソウが勝つ、というラストになっている。

この構図もまた、「SAW」に比べて、かなり常識的で、健全なものだ。
驚くほど、普通だ。

僕としては「SAW」シリーズが好きではないので、こんなものだろうと思うが、「SAW」シリーズが好きな人にとってはがっくり来る内容ではないだろうか。
シリーズの魅力を全然発揮できないこの作品は、やっぱり駄作なんじゃなかな、と思うのだが。

すっごい辛いカレーを頼んだのに、出てきたのが普通の辛さのカレーだった、という感じかな。

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