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スターウォーズ・エピソード3 リベンジ・オブ・シス

2009-04-18 18:58:42 | 映画(さ)
評価点:57点/2005年/アメリカ

制作総指揮・監督・脚本:ジョージ・ルーカス

スターウォーズシリーズが示しているのはハリウッドの衰退。

ドロイド軍を率いる反共和国主義者たちと、クローン軍を率いる共和国との戦争は激化、ドロイド軍はパルパティーン議長を人質に取り、その救出作戦に、オビ=ワン(ユアン・マクレガー)とアナキン(ヘイデン・クリステンセン)が参加した。
ドロイド軍の最高指揮者であるドゥークーと戦った際、アナキンは教えに反して、無抵抗な彼を殺してしまう。
自宅に帰ったアナキンは、パドメ(ナタリー・ポートマン)が死んでしまう悪夢に悩まされる。
その不安に対して、パルパティーンはシスの暗黒卿なら、その危機を回避できるとささやくのだった。

いよいよスターウォーズシリーズの最終作。
本作は、旧三部作との関連において、一番重要となる「エピソード3」となる。
どのようにダースベーダーが生まれたのか、という一点が、この「エピソード3」の最大の目玉といえる。

この三部作に共通して言えることは、すでに結果が出てしまっている状況で、いかに「先を知りたいと思う」気持ちを喚起できるかにあるだろう。
映画としてはかなり難しい問題を抱えているのは間違いない。

果たして、この期待される大作の中身はどうだったのだろうか。
それは、あなたが映画館に行って確かめるしかない。
 
▼以下はネタバレあり▼

【抜け落ちた心理】

予想通り。

というのがこの映画の感想だ。
良くも悪くも、やはりルーカスだな、と思う。
だが、この三部作を通して思ったことは、ルーカス個人だけではなく、もっとハリウッド全体の「病い」についても考えさせられた。
そうした少し巨視的な視点からも考察してみよう。

まず、この「エピソード3」について。
はっきり言ってしまえば、内容に対して、上映時間が長すぎる。
これは商業的には致命的な欠陥ではないだろうか。
見終わったときの脱力感は、一つのストーリーが終わった達成感よりも、長い間座らされたけだるさのためだろう。

特に前半の半機械将軍との戦いは、全く必要がなかった。
アナキンの心理に対して、戦闘シーンが無駄に多く、観客は疲れるだけだ。
見せ場としては、後半にきちんと用意されているわけだから、無駄にCGのパワーを見せつけるためだけのようなドラマは、全く必要がなかった。
それこそ、最初のテロップですませたはずだ。
この映画の大きな失敗は、この前半を丁寧に描きすぎたことにある。

戦闘シーンは確かにすごい。
だが、それはそれ。
どんな戦闘シーンも、登場人物のドラマのかねあいの中で生まれる。
ほとんど感情移入できないような長すぎる戦闘シーンは、見せ場としての機能さえない。
無用の長物とはまさにこのことである。

後半に入り、いよいよアナキンがダークサイドに墜ちる。
この動機はうまかった。
パドメが死ぬことではなく、死ぬかもしれないという不安が彼を追いやるのだ。
「ジョジョの奇妙な冒険」のDIOも言っていたように、人間には不安をどう対処するか、そのために生きている。
その意味では、一度母親を亡くしてしまったことのあるアナキンが、ダークサイドに惹かれる要因としては最高ではないだろうか。

だが、ダークサイドに惹かれる原因はいいものの、墜ちるきっかけがいただけない。
ウィンドゥ(サミュエル・L・ジャクソン)が、パルパティーン議員を追いつめ、殺そうとするのを止めて、誤ってウィンドゥの方を死に追いやってしまう。
ここで急にアナキンは豹変するのだ。
「あなたの言うことに従います、マスター」

それまでのアナキンは、シスの暗黒卿であることを突き止めたあと、激しくパルパティーンに反発する。
彼を追いつめるため、私に殺させてほしいとまで懇願するにもかかわらず、勢い余っての行動から、いきなりダークサイドに墜ちてしまうのだ。
確かに、独断でパルパティーンに会いに来たのは、おそらく殺すためではなく、パルパティーンへの思いを断ち切ることが出来なかったからにほかならないだろう。
しかし、それにしても、その変化は大きすぎる。

たとえるなら、少し陰のある好青年が、人を助けるために正当防衛で人を殺してしまった。
そこからいきなりヤクザになってしまう、これくらいギャップがある行動だ。
その墜ちるきっかけが、あまりに唐突で、説得力のないものだから、以降のドラマにまったくついて行くことが出来ない。
なぜ、そんなきっかけで、子どものパダワンまで殺すほど悪に染まってしまうのか。
一分前までの正義感はどこにいってしまったのか。
日本の最近の犯罪を見ているようで、不自然きわまりない。

だが、悪に染まってしまうのはそこだけではない。
ダースベーダーになる動機は二段構えになっている。
そこはやはり超大作を生み出すだけの監督だ。

ダースベーダーになるきっかけとなるのは、裏切りである。
パドメがアナキンを止めようと火山の星に向かうと、オビ=ワンもその宇宙船に乗り込んでおり、アナキンは、パドメに裏切られたように勘違いしてしまう。
そこで、パドメを手にかけようとすることで、彼は救いのないダークサイドへ墜ちてしまう。
さらに、オビ=ワンとの対決によって、師とも決別してしまう。
誰からも裏切られてしまったと感じたアナキンには、もう帰る場所はない。
シスの手先となってダースベーダーとして生きていくしかないのである。

これは納得できる。
しかし、それまでの好青年からヤクザへの変貌について行けない観客は、彼のその行動にさえついていけない。
もはや完全に感情移入の人物としては失敗してしまっているため、それが身に迫ってこないのだ。

それに追い打ちをかけているのが、ラストの20分である。
手足をもがれたアナキンは、ダースベーダーとして鎧を着ることになる。
そこで聞かされるのが、パドメの死。
「Noooooo!!!」と叫ぶベーダー。

次のシーンでは、なんと、もうデス・スターを建設しはじめる。

どうしてもここに疑問が生まれてしまう。
なぜ、パドメが死んだら、デス・スターになってしまうのだろう。
パドメを救えるということで、シスに剣を預けたはずなのに、結局は救えなかった。
だとすれば、怒りの矛先は銀河の征服ではなく、シスへの反逆になるはずである。
「おまえが変なことを言うからパドメが死んだではないか」
「救えるって言ったのはおまえだろう!」

だが、ダースベーダーは従順にシスに従い、デス・スターまで建設しはじめる。

この心理の「空白」、「行間」こそ、描くべき点ではなかったか。

要するに、ダークサイドに墜ちるきっかけも、デス・スター建設へのきっかけも、どちらも描くべき点が描かれていないのだ。
そこが知りたい、だが、そこがわからないのだ。

これではただでさえ長い映画が、映画館を出るときにはさらに長く感じられてしまう。
結局どうだったのか、よくわからないのだ。

確かに、様々な点で、ニヤリとできるシーンはある。
細かいところまで確認できなかったが、おそらく多くの細かい発見はあるだろう。
だが、そんな細かいことはどうでもいいのだ。
問題は、アナキンがどのようにベーダーになり、銀河を支配しはじめるのか、という一点にあったはずだ。
にもかかわらず、その一点が「行間」を読むがごとく、抜け落ちている。
これで納得することはとうていできない。

【CGによるドラマの衰退】
だが、正直、このあたりは全く予想通りだった。
ルーカスが脚本を書いて、いいストーリーができあがるはずがない。
それは過去の2作をみてもわかることだし、旧三部作とて、それほど劇的で巧みなシナリオにはなっていない。
だがそれでも、旧三部作は人を惹きつけるものがあった。
やはりあの三本は、映画史に残すべき偉大な映画だった。
その点、新三部作は違う。
どうでもいいような、脆弱な脚本が目立つ「荒い」作品に成り下がっている。

では、なぜこれほどまでに旧三部作と新三部作と違いができたのだろうか。
脚本のためではない。
ひとえに、役者の存在感の差だろう。

無名の役者を使いながらも、旧三部作は役者に存在感があった。
今回の三部作には、有名な役者が登場するわりには、役者に存在感がない。

たとえば、ミーハーな僕は、アクション映画を見るとすぐに体がうずき出す。
俺もジェット・リーみたいに動きたいなぁ。
ヤマカシくらいならできそうかも。
絶対ジェダイになってやる。

子どもとか大人とか関係なく、男の子なら、アクション映画にそういうあこがれが生まれるものだ。
確かに旧三部作にはそれがあった。
ライトセイバーと称して友達同士で遊んだものだ。

だが、今回の三部作にはそれが圧倒的に欠ける。
全然憧れの対象として格好良く見えないのだ。
CGによって格段にアクションシーンが増えたはずなのに、である。

それはシナリオのせいではない。
問題はそのCGの為である。

CGが、役者の雰囲気を全く壊してしまっているのだ。
CGはあくまで背景に使われることが多い。
スターウォーズなら、ほとんどの背景はCGで描かれている。
だが、そのCGがあまりにすばらしく、存在感があるため、役者が生み出す雰囲気を侵してしまうのだ。

背景が背景ではないのだ。
アクション部分でも、ドラマ部分でも、
すべては登場人物という感情移入すべきものを通して、体験する。
どれだけすばらしいアクションスターも、演技ができなければただの格闘家だ。
背景が役者より勝ってしまうと、役者はのっぺらぼうの無味乾燥な、動く人形になってしまう。
それだと、憧れや感情など、人が誰しも持っている血の通った「人間」にはとうていならない。
単なる音と映像だけでこれだけ感情の起伏を味わえるのは、そこに血の通った「人間」を見出すからだ。

今回の三部作にはそれが完全に欠如してしまっている。
何もないところで演技させられている役者たちは、画面には出てこない違和感を無意識のうちに醸し出してしまう。
その上、存在感がありすぎるCGによって上塗りされてしまうから、どうしても不自然さが出てしまう。

それは単なる背景だけではなく、ジャージャー・ビングスなどのCGで描かれた人物についても言える。
特にヨーダはそれが著しい。
あまりに速く動くヨーダは、格好いいのではなく、「なんやようわからんが、すごい」という印象だ。

時代劇の殺陣には有名なセオリーがある。
「速く見せるのは重要だが、速すぎてもいけない。」
殺陣は、リアルさを追求するものでなく、あくまで観客(視聴者)に見せるものなのだ。
だから見えない殺陣は無意味なのだ。

ヨーダが格好よく見えないのはそのためだ。
速すぎて何をしているかわからないなら、それはアクションとして失敗している。
そして、何をしているのかわからない以上、憧れや感情移入などできるはずがない。

このような多様なCGがもたらすのは、感情移入できないというマイナスだけではなく、「ストーリーへの負担が大きくなる」というリスク元も伴う。
主役より主役のCGのシーンは、画面から人間性を奪う。
だから、観客はストーリーに人間的な部分を求めるようになる。

ここで言いたいのは、CGがなければストーリーが非人間的でもかまわない、という意味ではない。
CGで人間性が奪われてしまうと、どうしても、ストーリーへの負担が大きくなるということだ。
それまで、バレていなかったストーリーの粗が、画面から役者が希薄になることによってより目立ってしまうのだ。

そうなるとルーカスは太刀打ちできない。
もともとストーリーを書くのがヘタッピ(批判ではない。それは仕方がないことだ)だから、よけいに目立ってしまう。

なんだ、どこにも感情移入できる人物がいないではないか、ということになりかねないのだ。

それは何もルーカスだけのことではない。
ハリウッド映画全般に言えることだ。
どれだけすばらしいCGも、うまく活かさなければ役者を殺し、映画全体をも殺してしまう。

日本映画でも「CASSHERN」がいい例だ。
CGの上塗りでは、何も解決しないのだ。

昔、そう、遙か昔、某ゲーム会社が映画を作った。
その映画にはCGの人間だけが登場し、各国の映画界から大きな批判を受けた。
やはり映画は人間が登場して初めて映画となるのだ、と。
だが、ハリウッドをはじめとする映画制作会社は、高度だが、安易なCGのおかげで、原点を忘れつつあるのではないか。

そんなことも考えさせられる映画だった。

(2005/7/25執筆)

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