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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

借りぐらしのアリエッティ

2010-08-05 23:28:17 | 映画(か)
評価点:46点/2010年/日本

監督:米林宏昌

勉強熱心な大学生のレポートのような作品。

翔(声:神木龍之介)は、心臓疾患の療養のため、母親の実家に一週間訪れた。
古い造りの家だったそこで、翔はこびとを見つける。
14歳になるアリエッティ(声:志田未来)は床下に住むこびとだった。
初めての「借り」に出かけたとき、翔に見つかってしまう。
人間に見つけられると引っ越さなければならないという掟があるため、一家は動揺する。
責任を感じるアリエッティの元へ、翔はコンタクトを取ろうとしてくる。

2010年のジブリ最新作。
もののけ姫」以来、劇場鑑賞を続けている僕としては、やはりどんな作品であっても観に行かねばなるまい。
今回は「ゲド戦記」以来の、後継者となるべき米林が監督した。
一抹どころか、不安しかない状態で鑑賞した。

果たしてどうなるのか。
ジブリと言うだけで世間(日本テレビを中心とした一部のメディア)では、話題になる幸せな状況に媚びることなる良作を打ち出すことが出来るのか。
公開後ずいぶん経ってしまったため、もう見た人も多いだろう。
もしまだ見ていない人は、う~ん、もう見なくても良いかもしれない。

▼以下はネタバレあり▼

宮崎駿ももう歳だ。
世代交代をそろそろはかって、どんどん新しい監督やアニメーターを登用するしかジブリを維持することは出来ない。
アニメ制作会社の現状は厳しい。
それは、ジブリであっても同じ事だ。
ヒットするだけではなく、話題にもなり、そしてグッズも売る。
ピクサーは良作を出し続けているが、それは商業主義に走らなければ会社を維持できないという切実な事情もあるのだろう。

だからこそ、ジブリにとって後継者をどうデビューさせていくか、どう失敗させていくか、そして成功させるかは本当に重要だ。
しかも、ジブリは(不本意ながら、)日本のアニメの大御所だ。
ジブリが倒れるということは、日本のアニメ界にも大きな影響を与えてしまう。
ジャパンクールといわれるアニメは日本の基幹産業となりつつある。
さて、そのプレッシャーを感じずに、のびのび自分の作品を描き出すことが出来るか。
容易ならざるこの仕事を、米林が挑戦した。

ジブリの代名詞は宮崎駿であることは確かだ。
だが、ジブリは宮崎を越えなければ先に進むことはできない。
大切なのは、宮崎駿の代わりを作るのではなく、全く別の魅力を打ち出せる新しいジブリらしさを出せる監督を作ることだ。

残念ながら、この作品にそうした未来を見いだすことはできなかった。
声優は志田未来だけれど。

さて、冒頭に「勉強熱心な大学生のレポート」と書いた。
先行研究はよく勉強している。
論理の進め方も、定石であり、王道をいっている。
だが、肝心の新たな知見が全くない。
ただ、よく先行研究を勉強しましたという、なんの魅力もないレポート。
そんな印象を受けた。

アリエッティに言えば、いや、ありていに言えば、テーマがない。
あってもひどくぼやけている。

ディティールはすばらしい。
いかにもジブリという印象を受ける。
特に今回は、音響の使い方が良かった。
人間とこびとの対比を見せるため、音の響きや大きさなどにこだわっているのは見て取れる。
床下に住む彼らの生活もよく描かれている。
アングルも、彼らの大きさと小ささをよく示している。
本当にジブリ映画である。

だが、この映画を見終わって感じることは、そんなことではない。
どんな言葉も実を結ばないほどの、虚無感。
虚しさというよりは、空白感。
「結局この映画は何が言いたかったのだろう」という妙な疑問だ。
良くできている。
なのに、なぜか物足りない。
いや、全然物足りない。
おもしろくないわけではない。
けれども、おもしろくない。

そもそも、ジブリがおもしろいのは、絵の質が高いからではない。
それは説得力を補強するだけであって、それだけでは映画にはならない。
描写がすばらしいと感じるのは、それを貫いているテーマが、細部まで浸透しているからだ。
大木の隅々までその大木のDNAが再現されているからこそ、おもしろいのだ。
人は葉っぱを見るために屋久杉を見るのではない。
全体を見るために、細部を観察するのだ。

この映画に貫かれているテーマは何だろうか。
借りぐらしというタイトル通り、モノを所有することに慣れてしまった現代人にとって、借りというのは対極にあるようにみえる。
だが、彼らはそれを体現しているだろうか。
そうではない。
母親のホミリー(声:大竹しのぶ)は、ドールハウスのキッチンにあこがれを抱く。
引っ越しが決まった後も、持って行きたいと嘆く。
最終的にはあきらめることになるが、そこには「人間と同じ親近性」はあるものの、対極にいるとはいえない。
彼らの人物造形は、それぞれ日本の一般的な親子関係を投影しているにすぎない。
だから「風の谷」のような対比関係には決してない。

そもそも、借りぐらしの彼らが、なぜそんなに人間を恐れるのかわからない。
もしそんなこびとがいたとしたら話題になってマスコミが殺到するだろう。
だが、その発想は人間側の発想であり、こびとが感じる危機ではない。
こびとが感じる危機とは、人間のどの部分にあるのだろうか。
多くのこびとが去っていったというが、なぜ去っていったのか。
人間は何をしたのだろうか。
その辺りの甘さが、結局テーマをあぶり出すことに失敗している。
いや、話は逆だ。
テーマがないからこそ、そのあたりの設定がなく、そして描くこともできなくなっている。
何が描きたいのか、ない。

では、アリエッティと翔との恋模様だろうか。
それも見いだすのは難しいだろう。
アリエッティの必死で生きる姿をみて、翔は自分の手術に向き合おうとする。
その変化はわかるが、アリエッティのどの部分を見て、生きることに前向きになったのだろうか。
そもそも彼のしこりは何だったのだろうか。
心臓病だけだったのだろうか、それとも両親がいないことだろうか。
家族へのあこがれと寂しさが彼を後ろ向きにさせていたのだろうか。
そのあたり描き方をみても、やはりテーマ性は感じられない。

テーマやメッセージは、社会的なものでなければならないというのは嘘だ。
宮崎駿は戦争や環境破壊など重たいものをテーマにすることが好きな監督だ。
だが、そうでなければならないとは思わない。
トイ・ストーリー」も「アリエッティ」と同じように狭い世界を描いている。
モノを大切にしろというよりは、オモチャともっと遊んであげて、というテーマは、社会性は皆無だ。
だが、それでもおもしろい。
なぜなら、そのテーマが細部までに行き届いているからだ。
だから、「トイ・ストーリー」は冒頭の五分でおもしろいと感じる。
それは映像がきれいだとかリアルだとかいうのではない。
あの五分で全てのテーマを見せているからだ。
それはかつてのジブリと共通しているといえる。

細部の設定や、書き込みは申し分ない。
どこかの素人息子が監督をした「ゲド」よりは楽しめるかもしれない。
けれども、テーマがないことは映画として致命的だ。

これでまた宮崎駿が登板することになるのだろうか。
まるで全試合登板する抑えの切り札のようで、不憫でならない。

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