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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

星になった少年(V)

2009-05-23 15:52:31 | 映画(は)
評価点:36点/2005年/日本

監督:河毛俊作

こんな映画で泣けるほど、僕には「純真さ」は残っていない。

小川動物園は、多くの動物を抱えるあまり経営難に陥っていた。
そこで、テレビのレギュラー番組で使える象を、園の目玉にしようと、一家の母親で社長の小川佐緒里(常盤貴子)は提案する。
家族は反対しながらも、象が家にやってくる。
息子の哲夢(柳楽優弥)は、新しく来た象のミッキーを見るなり、象の声が聞こえる、と言い出す。
哲夢は、タイに象使いがいることを知り、中学を休学して、象使いになることを両親に打ち明ける。
反対した母親も、ついには諒解し、タイに向かう。
しかし、タイに行った哲夢は、習慣に慣れることができず、また、任された子象ファーと意思疎通ができなくなってしまう。

カンヌ映画祭で、最小年で最優秀主演男優賞をとった話題の人物が、柳楽優弥その人である。
彼の記念すべき、そして注目すべき二作目が、この「星になった少年」なのである。
残念ながら、「誰も知らない」のほうを見ていないので、何とも言い難いが、彼の演技が本当にそんなに話題になったのか、というのが正直な感想だろう。

実話に基づいた話なので、素直な人は感動できるかもしれない。
感動ドラマに涙しやすい人は、見るべき点もあるだろう。
うがった見方しかできない僕にとって、この映画は「退屈」の二文字しか浮かんでこない苦痛の二時間であった。
 
▼以下はネタバレあり▼

上のストーリーからも察しが付くだろうが、この映画も「スタンド・バイ・ミー」と同じように、「行って帰ってくる」というお決まりの成長譚のパターンである。
帰ってくることで、成長している、というあの型である。
だが、この映画の致命的なのは、各人物の思惑や考え、哲学が理解できないという点にある。

その前に言っておかなければならないのは、「話が実話であるから」、という「言い訳」は一切通用しないという点である。
表現は常に「嘘」がつきまとう。
現実を映画という二時間枠に切り取る行為そのものが「真実」にはならない。
これから僕が行う批評という行為について、「実話だから仕方がないじゃん」というのは反論に当たらないだろう。
実話なら、映画をスポイルしてしまっていいということにはならない。
ドキュメンタリーでもおもしろい映画は五万とある。
それらがすべて「実話そのものがおもしろかったから」ということにはならないはずだ。
どんな実話であれ、おもしろくできないのは脚色のせいであり、監督、そのほかの映画に携わった人間たちのせいなのだ。

だから、僕は最初のテロップを見た瞬間、この映画が、非常におもしろくないものではないかと疑った。
それはこんなものだ。

「この映画は真実に基づいて作られている」

このような「演出」はよくある。
だが問題は、それが大きく英語の字幕で見せている点である。
なぜ英語の字幕でなければならなかったのだろうか。
この映画はタイに行くという設定だが、決してタイ人が見るような映画ではないはずだ。
まして、英語圏の人間を商業的なターゲットにしているわけでもないだろう。
にもかかわらず、英語のテロップでそれを観客に伝える必要があったのだろうか。
しかも、その下にはわざわざ日本語で訳してくれている。
それなら、その字幕を上に持ってこればよかったのだ。
この演出から読み取れることはただ一つだ。

「なんとか映画の雰囲気を上等なものにみせたい」

これ以外に英語にする意味があったとはとうてい思えない。
英語にすれば、多少、高級感や映画としての体裁が整うと考えたとしか思えない。
なぜなら、この映画のターゲットはあきらかに日本人であるからだ。
そしてそもそも、実話に基づいている、という点じたい、冒頭で明かす必要はなかったと思う。
やはりこれは映画としての「演出」なのである。
一番はじめに、この事実を表明しておきたいという監督の意図があるから、ここで英語の字幕でテロップをいれたのだ。

僕はこの安易な「演出」がこの映画の全てを物語っているような気がする。
映画やドキュメンタリーを撮りたいのではない。
「映画やドキュメンタリーらしきもの」を撮りたいのだと。

これは小さい問題ではない。
このような些細な演出に気を配れないのは、監督としての力量を問うには一番わかりやすいところなのではないだろうか。

話を戻そう。
それぞれの人物設定が非常に甘い。そして曖昧だ。
まず母親の性格に一貫性がない。
小川動物園の社長となり、象を飼いたいという夢を果たした。
それはわかる。
動物が好きだ、それもわかる。
なら、なぜ哲夢の夢を二つ返事で叶えてやりたいと賛成しなかったのか。
それが全く見えてこない。
好意的に解釈するなら、タイというわけのわからないところへ、いきなり言い出すなんて、どうかしている。
すくなくとも、中学校は卒業しておいてほしい。
と、そういう意図があったのかもしれない。
だが、人一倍象を飼いたいという夢をもち、動物を愛している母親が、なぜああも安易に反対できるのかわからない。
父親やほかの人物が反対するならまだ理解できる。
象に対する思い入れが強いはずの母親が反対するのは、不自然だし、理解できない。
もしそうするなら、もっと母親の心情を示すべきだっただろう。

また、終盤で、学校を中退することに対しても同じだ。
なぜ反対するのか。
母親にとって、動物とはどのような対象なのか、あるいは息子にはどう育っていって欲しいのか、不明瞭だ。

父親も同様に一貫性がない。
終盤、武田鉄矢が収録するシーンで、いきなり父親が息子にキレる。
ほとんど象にノータッチだったはずの父親が逆上するのだ。
なぜだろう。
その心理がよくわからない。
もちろん、息子が人前で自分のことを軽く言ったことに対して、たしなめたかったのはわかるが、
それでも、あの場面で叱責することはやはり不自然だ。
複雑な家庭にある設定なのだから、その複雑さを丁寧に描かないと、ちぐはぐな印象を受けてしまう。
むしろ、そんな不自然さを感じさせるくらいなら、ない方が良いシーンだ。

主人公の息子も同様だ。
象の話が聞ける(そのシーンが非常に稚拙な演出で閉口するが)から、象使いのメッカ、タイに向かう。
だが、タイに向かうと決めたあとと、実際に行くまでの課程がすっぽりと抜け落ちているため、
なぜ彼があの村に向かい入れてもらえたのか、
タイリッシュを話すことができたのか、
行くまでの手続きはどうなったのか(学校は休学か?)、よくわからない。
かれの決意や事の困難さを表すならば、その準備期間を丁寧に描くことが重要だったはずだ。

行った後の彼の行動はもっと解せない。
二ヶ月以上たったにもかかわらず、現地の食べ物を食することもない。
ポテトチップをかじっている有様。
これでは、象と心を交わす事なんてとうていできないだろう。
彼は何のためにここにきたのだろうか。
本当に鉄の意志でここにきたのだろうか。
なぜ、15歳という若さを武器に使わないのだろうか。

これが「真実の物語」だからというなら、それはおかしい。
それなら、もっと丁寧に彼の心情や決意を描くべきだったのだ。
彼の行動には、「なんでもやってやるぜ」的な熱意を感じられない。
だから、感情移入できないのだ。
なんだ、おまえやる気ないじゃん、という不甲斐ない印象しか受けないのだ。

もっと悪いのは、象と心を通わせるきっかけとなったシーンである。
象と心を通わせることができない鉄夢は、母親を求める象を山で放してしまう。
ある日、山を歩いているとファーの声を聞く。
山の中を探していくと、気づけば蛇やサソリの大群に囲まれ、焦った拓夢は、足を滑らし、川に落ちてしまう。
それを救うのが、ファーなのである。

このように書くと、非常に美談であり、「泣き所」のような名場面に感じる。
しかし、ここで疑問がわいてくる。
拓夢自身は、この「困難」を乗り切ったと言えるのか、ということだ。
拓夢は自分自身を見失い、壁にぶつかっている。
彼の壁は、象のファーに問題があるのではない。
問題は彼自身の中にある。
仲間とうち解けようとしないとか、
象に対して、話しかけることをやめてしまったとか、
少なくとも、象のファーが悪いために問題にぶつかっているわけではない。

であるにもかかわらず、なぜ、彼は「助けられる」のか。
逆ではないのか。
彼が象を必死で助けたのなら、大きな感動を生み、課題を克服したと言える。
だが、自分の課題に対して、仲間からも、象からも守られ、助けられているようでは、全く問題解決していない。
結局、自分から飛び出したはずのタイで、自ら動くこともなく、他人になにかしてもらうことによって、彼は課題を克服するのだ。
これでは感動などできるはずもない。
映画としてのカタルシスは極端に低く、拓夢の積極性を文字通り殺すことになる。

次のシーンでは、一緒にトカゲをほおばる鉄夢が映し出されるが、僕に言わせれば、なんて都合の良い気分屋なのだろうという感じだ。
自分が仲間に入れてもらえたという感覚がなければ、彼は自分からコミュニティを切り開くことができないのだから。
成長譚というにはあまりにも脆弱で貧弱な「成長」ではないだろうか。

結局彼は、何しにタイにまで出かけたのだろうか。

手紙を家族に書いたり、夢を語ったりしているわりには、そこに一貫性はなく、ちぐはぐな心理しか見えてこない。
「真実」の物語にこだわるのは否定しないが、それでも「映画」である以上、そこに一定の物語的脚色が必要ではなかったか。
理解できない対象に、感情移入することはとうていできない。

ラストの落ちも、非常にあざとい手法だとしか言えない。
拓夢が死んだというラストは、事実だから仕方ないのだろうが、「死(病気)」、「こども」、「動物」という三拍子をそろえてまで、「泣かせに」かかろうとする手法は、非常にあざとい。

誰かが死ななければ日本人は泣けないのだろうか。

落ちが、死というのなら、もっとそれまでの課程をきちんと描いて、そこに収斂されるようにもっていけたはずだ。
あれでは、おまけに殺したという印象がぬぐえない。
また、息子の夢を知り泣きじゃくる母親も、あまりにあざとい。
夢についての伏線が弱いため、感動を引き起こすまでの描写になっていない。

そして最終的にエンドロールで流れる一言。
「この映画の撮影は専門のスタッフがつきそうことにより安全に行われた」

そこまでして自分たちの正当性を主張したいのか。

僕は完全に演出としてミステイクを犯したと思う。
「シナリオ」や「映画としての出来」で勝負したのではなく、そのほかの周辺的な演出で無難に作り上げたようにしか思えない。
これほどのポテンシャルを秘めている「実話」を、ここまでだめにしてしまったのは、完全に監督やスタッフの責任といえるだろう。

そして、話題になった柳楽君。
彼は役者をやめたほうがいいと思う。
台詞の棒読みは、英語圏のタランティーノには見抜けなかったようだ。
「素の演技」は演技ではない。

(2006/3/1執筆)

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